第11話 常磐ハワイアンセンター
1966年福島県いわき市に誕生した「常磐ハワイアンセンター」は、現在では名称が「スパリゾートハワイアンズ」と改名されています。
あれは私が8歳で小学校3年生の夏休みだったと思います。
町内の農業組合では、毎年慰安旅行みたいなものがあってその年の行き先がこの常磐ハワイアンセンターでした。
ハワイアンセンターは福島県のいわき市にあり、私の実家である茨城県の八千代町からは遠く離れた場所にあります。
今でこそ常磐自動車道などの高速を使えばいわき市には2時間くらいで行けますが、当時は東北自動車道がやっと開通した頃で、そこを使っても下道を経由して片道4時間くらいはかかりました。
この東北自動車道が開通したことで、今回の慰安旅行がハワイアンセンターになったと想像されます。
ただし農業組合の旅行なので、宿泊する費用などはありません。
朝早く出発し、その日の夜遅くに帰ってくる日帰り旅行です。
こういった旅行に父は毎回行きたがらず、父の代わりに私たち兄弟の誰かが交代で母に付き添って出かけていました。
この年はハワイアンセンターだというので、おそらく私が率先して手を挙げたのでしょう。
とにかく福島県は遠かったので、このチャンスを逃したら二度と行けないと必死だったのかもしれません。
こういったバス旅行には、ガイドさんを付ける予算もないので、毎回車内で「カラオケ大会」が繰り広げられます。
カラオケ大会といっても当時はそんな設備がバスに付属されているわけもなく、ただマイクを回してアカペラで歌い合うだけです。
私の母はこの歌うことが大の苦手で、この私ですら母が歌っている姿を1度も見たことがありませんでした。
マイクは前の座席から容赦なく順番に後ろへと回って来て、2人一組の座席ごとに必ず1曲は披露しなくてはなりません。
しばらくして私と母の席にマイクが回ってきました。
「どうするんだろう?」
と思って母の動向を見ていたら、母は回って来たマイクを座席の横に置いてしまいました。
「〇〇さーん、早く歌って~。」
という声がどこからともなく上がります。
「マイク・・ここで眠ってます。」
と周囲をしらけさせるようなことを母は言い出しました。
私はこれは良くないと感じたのか、マイクを取って
「俺が歌う。」と申し出ました。
この頃から協調性に優れた少年だったので、周囲のバランスを考えたのでしょう。
そしてここで学校で習う童謡みたいものを歌っても仕方ないので、わたしが選曲したのはこの曲でした。
小柳ルミ子の「瀬戸の花嫁」
当時この歌は大ヒットしていて、誰もが知っている歌謡曲の定番でした。
この頃はLPプレイヤーやカセットレコーダーなどという代物は家にはなく、テレビかラヂオから流れてくる歌を聴いて歌詞を覚えるのです。
昭和の歌謡曲は、曲も歌詞もわかりやすいものばかりだったので、小学3年生でも自然と覚えてしまうものです。
私は正直歌は苦手でしたが、誰もが口ずさめる曲だったので組合の皆さんも一緒に歌ってくれているのが聞こえてきました。
実はこの時のハワイアンセンターの中での思い出はほとんど覚えておらず、バスの中でのこういったやり取りだけが鮮明に記憶として刻まれています。
ちなみに帰りのバスは、みんな疲れてきって眠っているので歌のお披露目会はありません。
母も歌わせられる心配もなく、安心してぐっすりと眠っていたようでした。
第12話「姉の結婚」へつづく。