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自分探求のブログ

文字にはいろいろあった。

 

                     神代文字

 

幼き日に書いた巻物の
「いろはにほへと─」
それはただの文字遊びのつもりだった。特に深い意味もなく、

流れるような音の美しさだけを頼りに。

その時は、まさかこの短い言葉が、遥かな時を越えて自身の魂に

語りかけてくるとは夢にも思わなかった。

何年も経ち、人生の節目にふと目にした詩があった。

 

 色は匂へど 散りぬるを
 我が世誰ぞ 常ならむ
 有為の奥山 今日越えて
 浅き夢見じ 酔ひもせず

 

そのとき、私の中で小さな感動があった。
あの「いろはに・・」が、こんなにも深い詩へと姿を変えていたことに、

ただただ感動があった。
言葉は形を変えてなお、心の奥底に触れる力を持っていたのだ。

さらに時が流れ、人生に深みを増す頃、私はこの詩の響きに仏教の教え

とりわけ「般若心経」との共鳴を感じるようになっていた。

「すべてのものは変わりゆく。常なるものなどない。浅き夢に惑わされず、

酔いに沈まず、ただ真理へと歩め」

その真理の片鱗が、この詩の中にはあった。

 

調べを進めるうちに、この詩が11世紀ごろ、仏教的な無常観と音韻の美を

融合させた文学作品として生まれたことを知った。
それはただの文字列ではなく、魂を清め、心を整える「祈り」のようなもの

だったのだ。

 

そして、もう一つは、

これは神道において、言霊の力を借りて調和や浄化、平安を願う言葉として

受け継がれてきたものだ。
そこでは「音読すること」そのものに力が宿り、音の響き、リズム、文字のすべてが

霊的な存在として扱われていた。

神道はでは、言葉には霊力があり、祝詞とは神に感謝を捧げる神聖な言葉である。

 

そして、古神道の視点に目を向ければ、そこには驚くべき思想があった。

言葉ではない。一音一音、その音(おん)そのものに神が宿るのだと。

 

それはやがて、空海とによって「真言宗」として広く知られるようになる。
音の力、言葉の力。それはこの神(宇宙の摂理)と人の心を繋ぐ、目には見えぬ

架け橋だった。


「いろはにほ・・・・」

私は知らないうちに、千年を超える祈りと、言葉を超えた響きがあることにタッチしたのでした。

 

<つづく(笑)>