こんばんはおねがい

そろそろ年も明けますね。


では、


令和元年最後のブログ照れ

「あいうえお作文^ ^」の最後です。

今暫くお付き合いくださいませ。


『ん』


んっ? て、

潤んだ可愛い唇をすぼめて

不思議な眼で問いかける君が好きラブ


んっ? て、

ガサガサの唇をすぼめて

いくら説明しても分かってくれない

濁った魚の目をした

憎たらしいオッさんが大嫌いムキー


おんなじ


んっ?


ってだけで不思議なもんだね照れ


まあ、

そこらへんのオッさんと、彼女の扱いは

そもそもが違うもんだから

当たり前のことなんだけど爆笑


発する言葉は同じでも、

随分と印象や感じ方が変わってくる。

何故こうも違うのか?

それは、


解釈


人それぞれに解釈があり、

同じことを言われても

傷つく人もおりゃ傷つかない人もいる。

それは、起こった出来事にしても同じ。

ある出来事をマイナスだけと捉えるか?

マイナスかもしれないけれど

経験値として、将来の糧として、

プラスと捉えるか?

人それぞれだから、

180度違うってことも当たり前のように

起こり得る。


で、

僕が理想とする世界は、

解釈のない世界おねがい

でも、

この世に生きている限り、

それは絶対に不可能なこと。

だから、

理想の世界なんだ照れ


でも、

叶わないからこそ夢となり、

夢があるからこそ

具体的な目標を持つことが出来る。


僕ら人間は、

思考が劇的に発達し、多様な言語を生み、

感情が色とりどりに伴い、

あらゆる行動を起こしてきた。


良かったことも沢山あり、

良くなかったことも同じように沢山ある。


その良くなかったことが

(多様すぎる)解釈

だと僕は思う。


日が昇り、目が覚め、飯を食らい、

排泄をし、食べ物を獲得し、

日が落ち、床につく。

だけでいいんじゃないのかなおねがい

だって、

生きるって、本来それだけのことなんだから。
(これも解釈。
だから、解釈からは決して
僕らは逃げれないってこと。)


原理主義を唱えるつもりは毛頭ないし、

原理主義者でもないけれど、


当たり前が当たり前ではなくなっている

今だからこそ、

当たり前が見直される時代。

ひと昔前のQOLと

今のQOLは明らかに違い、

お金の贅沢の時代から、

心の贅沢の時代に確実に移行している。
(かと言って、
お金が無ければ心にも影響するから
ホントややこしいね。)


で、

ここまで進めてお気づきのように、

これらは全て、私の解釈であり、

世の中は全ての物事やシステムなど、

全ての人々の解釈の絡み合いに

よって成り立っている。


日が昇り、目が覚め、飯を食らい、

排泄をし、食べ物を獲得し、

日が落ち、床につく

ってことだけなのにね照れ


それだけでいい!ってした方が

いいんじゃないの?

ってなると、

これまたイデオロギーの問題となり、

これまたややこしい

多様すぎる解釈がまた伴うチュー


でね。

今年最後のメッセージ照れ


閉塞感に満ち溢れた

この世を生きるということは、

様々な解釈にまみれることを意味し、

その解釈は、

あっている 間違っている

に関わらず、

認めなければならないものであり、

例えば、それを認めたとしても、

受け入れたくなければ

受け入れなかったら良いだけのことである。

そして、

多様な解釈を認める為には

何をすれば良いか?

そう。


自らの解釈を疑うこと。


つまりそれは、

究極的に言えば、

前述のように絶対に無理なものである

解釈をなくすってことであり、

つまりは、


自我(エゴイズム)を失くす
(自我の持つ意味合いは様々だから、
多様な捉え方があり、ここでの使い方は
自分を失くすって意味合いの方が
正しいのかもしれませんね。)


ってことを意味し、


小我は人生かけたらなんとか

極限まで小さく出来るかも?


だから、


大我を意識して学びながら

小我を少しずつ減らしていくしか方法はない。


そう誓って日々、どないかこないか

皆さまと同じように

今生を

生かさせて頂いております照れ


皆さまと同じく、

私も

より生きやすく生きたいですからねおねがい


小我
凡夫の我。
個人的な狭い範囲に閉じこもった自我。

大我
真如の永遠なる自在の働き。
狭い見解や執着から
離れた自由自在の悟りの境地。


心より、

本年も誠にありがとうございました。

こんなワタクシですが、

来年も、どうぞよろしくお願いいたします。

皆さまにとって、

より素晴らしき一年となりますように。


ココロテラス大阪

津村健司