おはようございます
さてさて。
「あかさたな」に沿った
タイトルで進めてきたブログも
残り「わ・を・ん」で終了です^ ^
各文字を2度ずつ書きましたので
46音×2回ってなりますね^ ^
書けるもんですな〜(^ ^)
『わ』
我一力で喰うと思うな。
小学校の卒業文集に綴った言葉です
どんだけませたガキやねん
まあ、
多分、そのあたりの本などから
適当にパクって書いたってのが
ホントのところでしょうね
そんな意識はきっとなかったのだと
断言出来ますから
でも、
年々、ええ歳こぐと^ ^
それが分かってくる。
不思議なものですね。
誰かのおかげで人は生かされている。
例えば、
誰かの為に
っていうのは、
自分の為に
っていうこと。
いつもお伝えしているやつね
自分が苦しい時に、
何故人は、
自分が苦しいのにも関わらず、
慈愛の精神を持ち、
自分よりも苦しんでいる人を助けるのか?
っていうと、
苦しみが分かる。理解出来るからこそ
だから、本能的に放っておけない。
ってことと、
役に立てる自分を感じたいが為、
バランスを取っているってこと。
(で、
これを知らない人は、
親切の押しつけになりがちだから
注意をしておかないといけない。
大きなお世話ってやつ。)
確かに、人の役に立ちたいってのは
純粋な誰もが持つ想いです。
でも、
自分が苦しい時に、
より自分よりも苦しみが深い人を
助けようとするのは、
自分の苦しみを軽減させる為のもの。
って思っておいた方が良い。
そうしないと、
自分の為に活用させてもらっている
他者という意識がなくなり、
助けたっているっていう勘違いの傲慢さで
自分を満たしてしまうから。
だから、押しつけが増える。
頼まれもしないのに助言を繰り返し、
あんたのためよと言いながら、
その助言通りにしてくれなかったり
言うことを聞いてくれなかったりすると、
折角、やってあげたのに
や、
折角、教えてあげたのに
ってなる。
へっ
あなたに
助けてなんて一言も言ってませんけど
誰かの為にという前提は、
誰もが持っている本能みたいなもの。
でも、
その本能に従って行動する時は、
誰かの為ではなく、自分の為ってのを
必ず僕らは意識しておかないといけない。
弱い人(まあ、この定義が嫌いなんですが、
便宜上ね。)
の役に立ちたいなんてのは
当たり前のことで、
役に立たせてもらっているっていう意識が
自らの心のバランスなりの調整機能となる。
だから、
弱者や強者や
助ける人、助けられる人
なんて括りがそもそも存在しないってこと。
托鉢僧が家々を巡り、
お米をもらい、お野菜をもらい、
お味噌をもらい、
家人に頭を下げ合掌して立ち去る際に、
必ず家人も同じように頭を下げて
合掌している。
与えているなんて意識はきっとないだろね。
でも、
与えられる側は
与えてくれてありがとうがあり、
だから、その家人の分まで修行に励む。
(家人を含めて人々の為と自らの為。
で、これも同じで、結局は自分の為。
で、更にもっと踏み込んで、
そんな表層的なものではなく、
自分の為ってこと自体を
失くす修行を雲水の皆さんはして
おられる。悟りの境地に向けて。
小我、大我の概念。)
一方、
私の替わりに修行してくれて
ありがとうございますが家人にはあり、
それは、私の為ってのが明確に分かるから
合掌し、頭を垂れる。
つまりは、
お互い様で、素晴らしい活用をし合っている。
即ち、
我一力で食うと思うな
ってことに通づるってね。
つくづく思います
どうぞ素敵な一日をお過ごしください。
帰省される方々は途中、
くれぐれもご注意くださいね。
お気をつけて。
つむらけんじ

