こんにちはおねがい



『に』

憎い相手がいるとします。

憎い相手がいたとします。

あー、憎い憎いにく憎い〜チュー

って暮らす日々が続きます。

人は、憎い相手にどこかで

自分はこれ程に憎く思っていることを

分かってもらいたいと想っている。

どこかで

これ程までに、お前のせいで、

これ程までに、貴重な時間の大半と

貴重な自分の心の資源(エネルギー)を

使っているんだぞ!

どうしてくれんねんムキー

ってことを分かってもらいたいと

想っている。

でも、

ほとんどの場合、

その想いを分かってくれて、

あー、

それ程までにあなたを傷つけていたのか

本当に本当に申し訳ありませんでした。

って、平身低頭に、何なら土下座して、

涙を流しながらの謝罪

返ってくることはなく、

又、

そもそもとして

私はお前がこれ程までに憎いんだよ!

ってこともほとんどの場合、

相手に伝えることもしていない。


心にフツフツと煮えたぎる熱湯のような

その憎しみは、

その温度を維持しながら日常を送り、

その日常の中での

ちょっとしたことにも敏感に反応し、

俗に言う、沸点が低くなる

っていう現象ともなる。


憎い相手が

あなたのその憎しみを

分かってくれるかな?

憎い相手に

もしその事を伝えたとして、

心からの謝罪を得られるのかな?


仮に、

自分の憎しみを分かってくれる人で、

分かってくれて謝罪をくれるような人を

あなたはきっと憎むことはないでしょう。

つまり、

はなからその憎むべき相手は

憎むべき相手として

当然のようにそこにいる。

ってことが正解です。


責めてもいいし、罵ってもいいし、

仕返し?をしてもいいけれど、

それは虚しい響きだけが余韻として残り、

憎しみの対象が自分責めに

移行したりもするだけのこと。

それは、

我慢して耐えている


憎しみや怒りを内包しながら

不自由な心の暮らしを強いられていて

でも、

そこから逃れられないでいる

自分に対する憎しみや怒り。



あのさ。



そんなさ、

そんなクソ相手にさ、


何故捉われているの?



二つの理由。


私はこいつなんかに低く見られるべき

存在ではない。(もっと私を尊重して)

もしくは、

私は低く見られる存在かもしれないけれど、

お前だけには我慢ならん。
(人としての配慮は最低限するべきだろう)


つまりは、



勝ち負けのゲーム。



相手が決して参戦してこない

一人だけのゲームを繰り返している。


今頃、

その憎むべき相手はさ、

へーこいて、飯くって、めっちゃ笑顔で、

安らかに寝ているのさ。


あなたのそんな苦しみなんて

微塵も慮らずにね。


そんな奴を憎むべき価値があるのか?



ひょっとしてさ、



憎むことで、

自分の存在を確かめているんじゃない?



憎むことを手放せないのは、

憎むことで得られる自らの立ち位置に

安心を覚えているからなんじゃない?


もしそれなら、



憎み続ければいいと



私は思う。



憎む価値があなたにはあるのだから。



でも違うなら、



流しましょう。


忘却の彼方へね。



月に飛ばした奴が2、3人私にもいます照れ

もうそいつらは私には

全く必要がないからね。

逆にありがとうさえ思うこともあるおねがい


憎むこと。


それ自体が悪いことではありません。

憎くむってことが自らの心の中に

自動的に沸き起こるってことは

ままあることで、

でも、

大概それらは自動的に消滅している。

でも、でも、


憎しみがずっと続くのは何故?


そう。


憎むことにより、

得られるものが自分にある場合。


そいつを続けるか続けないかは、

得られるものの価値を自らが

正しく判断すれば良い。


憎むことに自らが責任を負えばよい。

文句や愚痴をごちゃごちゃ言わず

しょいこめばいい。


その上でさ、

そんな責任、まっぴらごめんですって〜。

しょいこむなんてアホくさいですって〜。


なら、

手放せばウインク


なら、

手放せますよ。


きっとねおねがい



自分の心は自分自身で創ればいい。



私が思う 

幸せになれるライフキャリア

ってそういうこと照れ

キャリアは自分が磨き創るものおねがい


ご参考まで。

素敵な一日をおねがい


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つむらけんじ