おはようございます
私たちは誰かに傷つけられた経験を
誰しもが持っていて、
その傷つけられた経験を
否が応にも後生大事に抱えている。
そして、
そんな自分が嫌だから
心理学を学んだり、神や仏に詣ったり、
懸命に様々な経験を積み、
その忌まわしい記憶や感情を
浄化すべくあがいている。
でも、
その忌まわし記憶や感情は
なかなか無くなってはくれず、
かえって強化されていくこともある。
それは何故か?
それは、
その忌まわし出来事が、
学ぶことや祈ることにより浄化出来ると
信じたけれど、なかなか浄化出来なくて、
それ程浄化出来ない程
自分にとっては強烈な出来事だったと
余計に思えるから。
またそして、
その出来事が長年の自らの闘いの
動機づけともなっていて、
学び成長することの大きな源となっていて、
その根底にある忌まわしい記憶や感情を
消し去ってしまうと
これからの人生の生きる糧が無くなって
しまうような恐怖に駆られるから。
目標や目的が不明確となってしまう
恐れを抱いているから。
だから、
敢えて
固執し執着しているとも言えます。
嫌なら手放せばいいのにね
親からの呪縛
ってことが誰しもにある。
その呪縛は、
親がこの世を去っても
なかなか消えないこともある。
でも、
その呪縛が、
親からのギフトと捉えるとどうだろうか。
根強い恨みや憎しみが
自分の人生の源泉となっているとしたら
なかなか払拭するのは確かに難しいもの。
でも、
ほとんどの親は
私たちと同じで
無知がなせるものであり、
罪の意識もなく子どもを縛りつけていた
ってことが、
本質じゃないかと私は思う。
ならば、
反面教師であるとも言え、
それを親からの贈り物して
受け入れてみるのもどうであろうか。
ルィーズヘイはこう言っています。
「私たちは皆、犠牲者の犠牲者なのです。」
つまりは、
傷つけた側も犠牲者である。
そう心の底から思えた瞬間に、
自らの内に温かい気持ちが宿るのは何故?
手放し、許すってことは
そういうこと。
慈愛
人(他者)に対する慈愛を
私たち誰もが持っている。
その慈愛を真っ先に振り向けるのは
自らに。
つまり、
自愛
も慈愛。
手放し許すことも自愛。
そして、
手放さず許さないことが自愛となっている
っていうことに気づけるか否かが
呪縛と呼ばれる
忌々しい言葉から
私たちを解放してくれる
唯一の術かもしれませんね。
許した自分を心から尊敬し、
許した自分を心から愛せるか。
又は、
許した自分を自分が見て好きになる。
そんな自分が好ましく、
そんな自分を尊敬しますと
自分に宣言する。
抱え続けるか?
綺麗に流し、捨てさり、
それがあったが為の
新たな幸せな人生を歩むのか?
そして、
最も肝心なのは、
今の人生が幸せじゃないから
呪縛のせいにしてやしないか?
理不尽な世の中だからこそ
私たちは
決断をいつも迫られています
新たなる人生を。
ご参考まで。
津村健司
