ユマニテ会のゆにっちです。ニコニコ12月にはいりました。早いものですね。


第6回ユマニテ会は12月16日金曜日19:10~

NOF新宿南口R3C会議室 4Fにて 会費:3000円です。


今回のメニューは論語と哲学的小話です。

今回は12月ということもあり終了後忘年会を予定しています。

ご参加希望の方は humanite@live.jp  までお問い合わせ下さい。


先週金曜日は安岡活学塾でした。今回も沢山の方が出席されていて熱気がありましたね。


子曰、由、誨女知之乎。知之爲知之、不知爲不知。是知也。

子曰く、由(ゆう)、女(なんじ)に之を知るを誨(おし)えんか。

之を知るを之を知ると為し、知らざるを知らずと為す。是れ知るなり。


※之(これ)特に意味はなくこの上につく言葉が動詞だよと知らせている。

※由(子路のこと)普通親が子に対して使う


2つの訳を紹介します。

先生がおしゃった、お前に知ることを教えよう。知っていることを知っているとして、

知らないことは知らないという、これが知るということだ。

(知を認識と考え)認識できることは知ることができるが、

  認識ができないことは分からない

(知ることができないことがあることを知りなさい。)

孔子は合理主義 知性の限界をわきまえて道徳的に良く生きていくことを目指す。


そう考えると②の訳もなかなか孔子っぽい感じもしてきますね。


子路は孔子の高弟の一人ですが、打算ぬきのまっすぐな男です。

(先生に子路を語らせると止まりません・・・)


その子路が死後の世界の事を先生に聞いたりする。

先生はそういうことはわからないといいます。

釈迦も、弟子から同じような質問をうけます。

    死んだあと魂は残るのですか 首をふる。

    では   残らないのですか 首をふる。

  

そういうことは人間にはわからないのだ。といったそうです。

人間は知性を働かせて知ろうとする時、言語によって表現しょうとする。


東洋人は言語道断(言語の道は断たれている)という言葉もあるように、

ある程度以上になると自分で会得するしかないという考えがありますが、

西洋人はあくまでどこまでも言語で追究していく。


そもそも哲学の問題が東洋と西洋では違うということです。


【東洋哲学の問題】 人生いかに生きるべきか


【西洋哲学の問題】 人間というものはこの宇宙ではどのような存在なのだろうか


紀元前5C頃、ソクラテスは 

人間はいかなる存在であるか 人間が生きるとはどういうことなのか を考えた人です。

あのパルテノン神殿も同じ時代のものです。

今回はその頃の「ギリシャ悲劇」が登場しました

ギリシャ悲劇(悲劇というのは悲しい話ではなく人間探求の文学らしいです)の

「ヒッポリュトス」のお話がありました。

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王妃でありながら,義理の息子である美青年ヒッポリュトスを慕い,

ゆるされぬ恋に悩むアテーナイの王妃パイドラー.

ヒッポリュトスは大の女嫌いの美少年


パイドラーは道ならぬ恋に苦しみ毎日死にたい、死にたいというようになる。

その王妃の気持ちに気がついた乳母と王妃の話の場面です。


パイドラーの乳母は次のようなことをいいます。


「激しい恋に逆らえないときは身をまかせればいいのです」


「ものごとはそのままに受け入れて、良いことが悪いことより多ければ、それで幸せと思えばよいのです」


「女のちえはいつも道を見出すものでございます」


秘密にしていましたが、ふとしたことからヒッポリュトスに知られ、彼は激怒します。

乳母は許してあげることはできるといいますが・・・・・


乳母「過ちは人間にはありがちでございます」


ヒッポリュトス「女が人間だというのか!ゼウスよなぜ男を女から生まれさせる必要があったのですか・・

善良な女なんてみたことがない」


結局パイドラーは王である夫に嘘の遺書を書いて死を選びます。のちにそれが原因でヒッポリュトスも

命を落としてしまいます。

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読みやすいものになっているものもあるそうですので、

興味がある方は読んでみてはいかがでしょう。

ギリシャ悲劇は紀元前5C頃のもので、キリスト教の影響をうけていない時代のお話です。

人間は2500年も前から、愛と嫉妬の間に生きていたのでしょうか。

人間の素朴な気持ちが現れているのかもしれません。