みなさんこんにちはユマニテ会のユニッチです。毎日暑くなってきましたね。(^▽^;)
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最近思うんです。
「あたりまえ」に思っている事は、どうして自分の中で「あたりまえ」になっていったのだろうか?と。

早速ですが、前回のユマニテ会より、一部ご案内します。
メール案内と同じ内容なのですが、勘弁して下さい。
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西洋哲学は、 B・ラッセル「人生についての断章」より、「子供は幸福であるべきか」を扱った。

本文はこちら
http://www005.upp.so-net.ne.jp/russell/CHILDREN.HTM

ラッセルは言う。
子供を幸福にすることは容易である。愛情、良識、それに熱意があれば、だれにでもそれは可能である。

ところが、子供を幸福に育てることは成人後の彼らを台無しにする結果を招くから、子供の時は苦労させた方がよいと考える人がいる。
そして、すべての偉大な業績はある種の難儀の産物であったと彼らは主張するのである。

しかし、と、ラッセルは言う、不幸な人間が、その難儀を乗り越えて偉大な業績を達成した例外的な事例においても、
その業績は、それが彼にとって現実からの逃避であるがゆえに、何らかの歪を受けることが多いものである。
ナポレオンが幼時に貧困で屈辱的な体験を味わわなかったら、あれほどの好戦的気性は生まれなかっただろう。
そしてそうであったなら、どれほど人類にとって幸いだったろうか。
多くの偉人の実際活動や理論に見られる残酷な要素は、彼らが幼時になめた不幸に対する世間への復讐に他ならないこともあるのだ。

以下、四竈先生のコメント
ラッセルは、子どもは幸福でなければならない、幸福であって初めて創造的衝動を発揮でき、人類にとって真に有益な人間になり得るのだ、と主張する。
ラッセルは、子どもが不幸であることを良しとする人々に与しない。
これは、現代、当然なことと思われるかもしれないが、ここで特に注意すべきは、不幸な幼時を過ごした人間が偉大な業績を達成した場合、
その業績が人類に不幸をもたらすこともあるのだというラッセルの指摘である。
みなさんは、この小文中の、ラッセルの「偉大な業績は、有益であると同程度に有害である場合が多い」という驚嘆すべき言葉に目を見張ってほしい。
これは、私たちのスキを鋭く突いている。いかなる権威にも、いかなる常識にも、一切とらわれることなく、
透明な知性でものを見ていくラッセルにして初めて発することができるすごい言葉だ。

私(四竈)も、以前から、疑問に思っていることがある。例えば、偉大な業績のひとつに数えられるであろうキリスト教、
そのキリスト教が人類にもたらした善と悪とでは、いったいどちらが大きいのだろうかと。・・・精緻な分析を必要とする問題である。

ここで、不幸が、偉大な、しかも、有益な業績を導いた例として、徳洲会理事長、徳之島出身の徳田虎雄医師を例に出そう。
彼は自分の生命を担保に銀行から金を借りて、日本中に次々と24時間体制の病院を作っていった。
彼のその情熱は明らかに、彼が小さい時に体験した不幸に起因している。
彼がまだ小さいころ、弟が夜中に急病になった。母の言いつけで、彼は暗い夜道を遠くまで怖さにおののきながら一生懸命走ってお医者さんを呼びにいった。
しかし、お医者さんは、徳田少年の「弟が死にそうなんです」との額を玄関に擦り付けての懇願にもかかわらず、来てはくれなかった。
来たのは翌日弟が亡くなってからだった。
こうした小さい時の不幸な体験が、彼の中で、「病人が死んでから医者が来たってしようがない。日本の医療を変えるんだ!」という
すさまじいまでの情熱となって、後の彼の偉大な業績へとつながっていった。
要するに、こうした問題は、ケースバイケースであろう。幼時の境遇が、不幸であるか幸福であるかということが、
将来どのように影響するかは一概には言えないであろう。また、仮に不幸であった場合も、それがどのような不幸であったか、
また、その不幸に対してどのような態度をとったかにもよるであろう。

さあラッセルは刺激を与えてくれた。ここから先は自分で考えていかなければならない。
答えはラッセルはいいません。哲学に答えはありません。

答えをみいだそうとすることが尊いのです。答えが尊いのではないのです。
答えを見つけようと努力すること、問いをもつということそれが尊いことなのです。
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あなたは、人生を通じての問いをもっていますか?

だれでも大歓迎です。
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ちなみに写真は三月に里帰りした時に撮ったものです。最近写真がなく味気なかったので。