みなさんお元気ですか?ゆにっちも元気でございます。

色々あって4月中旬から5月とバタバタしておりました。
5月のユマニテ会では久しぶりに西洋哲学の父 ソクラテス を勉強しました。
やはり素晴らしいです。青年に害を与えるといって死刑の宣告をされてからも、自分以外の人の幸福のために自分の為すべきことをしようとする姿勢はそう簡単にまねできるものではないですね。

では講義の中から紹介いたします。
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では次は西洋哲学を勉強しましょう。ソクラテスは「哲学の父」と言われます。その前にも自然哲学はありましたが、このころから人生を考える、いわゆる私たちがいう哲学になりました。生まれた年は何年かはっきりしていませんが、亡くなった年は紀元前399年です。死刑になったからはっきりしています。青年に害を与えるという理由でです。哲学者は常に真実を言います。ところが真実というものは権力者にとって都合の悪いことが多いのです。それでソクラテスは死刑になりました。70才を少し越えていたかと思われます。当時、立身出世のための知識を教える教師としてソフィストと呼ばれる人たちがいました。ところがソクラテスが教えたのは、人生の問題、精神の問題でした。

 

今日のテキストは、弟子のプラトンが書いた『ソクラテスの弁明』の最後の方です。これだけは押さえておきたいというところです。アテーナイ(アテネ)の法廷に呼び出され、500人の陪審員、その他大勢の市民聴衆の前で最後の弁明をします。弁明というよりむしろ、ソクラテスは、大勢の人に教育する絶好の機会と思ったに違いありません。一人の優れた魂とそれに耐え得るや否やの市民との対決とも言えます。ソクラテスの言葉を、きっちり受け止めて、良き生活をすることが出来るかどうか、市民にとっての試練の場とも言えましょう。

 

ソクラテスは、若いとき戦場で、上官の命によって死の危険を冒して自分の持ち場を守った。ましてや今回は、神の命によって哲学をする(人間が生きるとはどういうことか、良く生きるとはどういうことかを追求すること)のだから、この持ち場を、たとえ死刑になろうとも決して離れることはないと宣言する。

 

ここで、注目すべきは、ソクラテスが、「神の命によって」と言いながら、同時に、「・・・と私は信じ、また解したのだが」と言っている点でしょう。「神の命である」と「自分が解した」ということは、《決して神に責任を転嫁したりはしない、最終責任は自分が取る》ということに他なりません。ここが、ソクラテスの偉い点です。後世、キリスト教徒が残虐行為をして、それを神の意志であるとして神に責任転嫁したことと比較対照しつつ、このソクラテスの言葉の重みをかみしめる必要があります。

 

因みに、この『弁明』の中でソクラテスは、【ひょっとすると死は人間にとって一切の良いものの最大のものかもしれない】と何気なく言っていますが、この思想が弟子のプラトンに引き継がれます。「肉体は精神の牢獄だ」と考え、生きているときは、私たちの精神は、肉体によって妨げられて自由にものを考えられない。ところが死ねば、精神は、肉体から解放され、肉体に妨げられずに自由にものを考えられる。だから死は良いものだという論理です。この思想が後に、精神は善、肉体は悪というキリスト教と結びつきます。

 

『弁明』の中の最重要点を引用しましょう。【アテーナイ人諸君よ、世にも優れた人よ、君はアテーナイという、知力においても武力においても、最も評判の高い、偉大な国都の人でありながら、ただ金銭を、できるだけ多く自分のものにしたいというようなことにだけ気をつかっていて、恥ずかしくはないのか。評判や地位のことは気にしても、思慮や真実は気にかけず、精神をできるだけ優れたものにするということには、気をつかわず、心配もしていないというのは。

 

私が行っていることはといえば、ただ次のことだけなのだ。諸君のうちの、若い人にも、年寄りの人にも、誰にでも、精神ができるだけ優れたものになるように、随分気をつかわなければならないのであって、それよりも先、もしくは同程度にでも、身体や金銭のことを気にしてはならないと説くわけなのです。そしてそれは金銭をいくら積んでも、そこから優れた精神が生まれてくるわけではなく、金銭その他のものが、人間のために善いものとなるのは、公私いずれにおいても、すべては精神の優れていることによるのだからというわけなのです。

 

つまりあなたがたの一人一人をつかまえて、自分自身ができるだけ優れた者となり、思慮ある者となるように気を付けて、自分にとっての付属物となるだけのものを、決してそれに優先して気づかうようなことをしてはならないと説得することを試みてきたのだ。】

 

自分自身が優れた人間になるということが、真に豊かな人間になるということである。まさに西洋哲学の考え方の基本中の基本がここにあります。

《自分自身》と《自分にとっての附属物(所有物)》とをハッキリ分けて、自分自身から切り離すことが出来ない自分自身の精神を優れたものにするということが《豊かである》ということである。他方、財産等をどれだけ持っていても、それは自分の持ち物に過ぎず、自分の持ち物であるということは、自分自身ではないということであって、そのような、自分自身から切り離すことの出来るものをどれだけ持っていようと、それは、《豊かである》とは言えない。

これが、以後、二千数百年にわたる西洋哲学の考え方の基本中の基本になっていくのです。
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