みなさん いつもいつもごぶさたのユニッチです。
ユマニテ会は毎月やっておりますが、なかなかブログの更新はできなくて申し訳ございません。

ユマニテ会では 今年は荘子を1月からやっています。
書き溜めていた過去のデーターをアップしますね。

あ、その前に今月の代表メッセージを紹介しますね。
会長メッセージより

小5の孫が自転車を盗られました。本人はほとんど応えていない、どうせまたパパが買ってくれるだろうと。そこで、これを機会に1948年イタリアの名画「自転車泥棒」を見せました。戦後の街には、仕事を求める人たちがあふれている。やっとポスター貼りの仕事を得たアントニオ。だが仕事中、それ無しには仕事にならない自転車を盗まれてしまう。必死になって息子ブルーノ(当時の私と同じ7歳位)と一緒に探し回る。疲れ切りお腹をすかせた父子がレストランで貧しい食事を摂る隣で、金持ちの家族が豪華な食事をしている。振り返ってブルーノを見る金持ちの子どもの蔑んだ眼。そんな場面もヴィットリオ・デ・シーカ監督の訴えを表して余すところがありません。戦争で、金持ちはますます金持ちに、貧しい人たちはその日の食事もままならぬ世の中に・・・。遂に自転車探しが徒労に終わったとき、父は他人の自転車を盗んで逃げ走る。しかし、すぐ人々に取り押さえられてしまう。「パパ!パパ!」と泣きながら袖にすがりつくブルーノ・・・。私の孫もいつかこの映画を思い出し、監督が真に言いたかったことを心に銘記してくれるものと信じます。


それでは
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では、ガラッと変わって、道家の書、『列子』の楊朱第七です。
先生の楊子(戦国時代の思想家)に、弟子の孟孫陽が質問した。
弟子:ある人が、命を大切にし、体を大事にして、死なないことを願ったとします。可能ですか?
先生:道理からして、死なないということはない。
弟子:では、長くいつまでも生きることを願うことはできますか。
先生:道理からして、長くいつまでも生きることもない。命は大切にしたからといって、長くいつまでも生きられるものではない。体は大事にしたからといって、幸福になれるものではない。それに、長くいつまでも生きているなんてことを、どうして願おうか。人間の五感の好き嫌いは、今も昔も変わらない。体の安全や危険は、今も昔も変わらない。世間のことの苦しみや楽しみは、今も昔も変わらない。世の中の移り変わり、平和や戦争は、今も昔も変わらない。
どれもみな既に見たことだ、聞いたことだ、経験したことだ。(←これって年寄りの感覚ね、若い時は、例えば、どこかに行こうと言えば、行こう行こうと乗り気になるけれど、年を取ると、あ~あ、あそこね。せいぜいこんなもんだろう、家で寝てるほうがマシだとか思ってしまう。)。100年だって長過ぎて嫌だ、ましてや長く生きて苦しむなんてなおさら嫌だよ。
弟子:それじゃ、早く死んだ方が良いということになりますね。白刃の中に飛び込んだり、煮えたぎる湯に飛び込んだりすれば、目的を達成できるでしょう。
先生:いや、そうじゃないんだよ。生まれたからには、特別なことをしないで、そのままに任せ、したいことを思う存分して、死を待つ。いよいよ死ぬときは、また特別なことをしないで、そのままに任せ、命が尽きるのを待つのだ。何事も自然のままに任せるのだ。人生において長く生きるか短命で死ぬかは全く問題ではないんだよ。

これが楊子のひとつの考えです。何事も自然にまかせようという考えです。一理ありますね。
質問:弟子は納得しなさそうですよね?
会長:私も納得しないよ。燃えて生きて、燃えて死ぬのがいいな。あと、いちゃもん付けるとすれば、楊子の答、「理として死せざるは無し」だね。「人間は死ぬものだ」ということを、言わば、「確実な真理」と前提して論を進めている。しかし、人間がなぜ死ぬのか、死のメカニズムなんて今だに完全には分かっていません。今回『列子』のこの部分を持ってきたのは、このへんのことを追求したかったからです。
私たちが、「人間は死ぬ」と思っているのは、ただ経験的に、そう思っているに過ぎません。すなわち、昔から今に至るまで、人は誰でも死んできた。今のところ死なない人はいなかった。だから人間は死ぬと思っているに過ぎません。将来、医学が進歩して、人間は死ななくなるかも知れない。そうなったら、この「人間は死ぬ」という認識は、「確実な真理」ではなくなります。このような経験に基づく認識方法を「単純枚挙の帰納法」といいますが、これは、「確実な真理」は与えません。「蓋然的な真理」、すなわち、「ほぼそう考えてよいだろうという程度の真理」しか与えません。もっとも、みなさん高校の時に学んだ「数学的帰納法」は確実な真理を与えますがね。
「単純枚挙の帰納法」について、もう一つ、B・ラッセルが挙げている分かり易い例を紹介します。ある村の戸籍係りが村の人の名前を調べた。最初の人はスミスさんだった、2番目の人もスミスさん、3番目の人もスミスさん、彼なりに村中調べてスミスさんだった。そこで、「この村の人の名前は全てスミスさんだ。」と結論した。でもよくよく調べてみたら1人だけミルさんという人がいた。これで、「この村の人の名前は全てスミスさんだ」という認識は一発でアウト、「確実な真理」ではなくなってしまいます。すなわち、「蓋然的な真理」、「ほぼそう考えてよいだろうという程度の真理」になってしまいます。しかし、実用的には十分役に立つ認識です。私たちは生活の中で、こうした「単純枚挙の帰納法」をしょっちゅう使っている。けっこうあいまいな真理で生きている。それで済んでますね。食べ物だって、以前食べた経験から、食べられるだろうと思って食べている。

さて、「帰納法」の対極に、「演繹法」があります。これは、論理による方法です。よく御存じの三段論法がその代表的な方法です。
人間はすべて死ぬものである。(大前提)
ソクラテスは人間である。(小前提)
ゆえにソクラテスは死ぬものである。(結論)
これが、三段論法の例として有名なもので、長い間、教科書にも載っていて、教師たちはこれで教えてきました。
さて、ここからが面白いところなんですが、B・ラッセルは、この三段論法は誤りだと指摘しました。三段論法は、既存の確実な真理から論理によって新たな真理を導き出そうとするものです。ところが、最も確実な真理であるべき大前提「人間はすべて死ぬものである」が、最もあいまいな真理であり、逆に、導き出そうとする結論「ゆえにソクラテスは死ぬものである」が最も確実な真理ではないか。実際、ソクラテスは紀元前399年に死んでいるのだから、というわけです。
内容を考えず、形式だけ考えれば誤りではないけれどね。

因みに、「帰納法」も「演繹法」も、知られている真理から、新たな真理を獲得する方法ですが、前者は、イギリスで、後者はフランス、ドイツ等ヨーロッパ大陸で、発展した方法です。経験を重んじるイギリスと、論理を重んじるフランス、ドイツの違いがあります。先ほどのラッセルの三段論法に対する批判にも、イギリス経験論哲学を代表するラッセルならではの面目が窺がわれます。

いずれにせよ、西洋の哲学者は、人生の問題に対しても論理的に思考するわけですが、これは私たち、東洋人には、極めて困難な作業でしょう。私も哲学科の学生の頃、ドイツ哲学などは1行読むのに何時間もかかったりして本当に苦労したものです。東洋人なら一瞬でパッと直観出来るようなことを、ぐちゃぐちゃ論理的に、また、抽象的に、証明しようとするのです。でも、その作業、訓練が西洋の文明文化の基本を作っているともいえるのでしょう。東洋人、西洋人、どちらの方法も大事ですよ。
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いかがでしたでしょうか。
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