みなさん2月になってしまいました。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

今年もユマニテ会は古今東西の哲学・文学などを学びながら自分の哲学をきっちり
確立するお手伝いをしていきたいと思います。
昨年はユマニテ会も50回を迎え、さらにレベルアップできるように事務局も頑張ります。

では早速ですが1月のユマニテ会からと11月の講義の内容より一部ご紹介しますね。
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皆さんおくればぜながら、あけましておめでとうございます。四竈正夫です。
皆さんは初夢はみましたか?
来月の案内のメッセージをご覧ください。私の初夢をかいてあります。私わりと怖い夢は見たことないのですが、断崖絶壁の中腹にちょっとくぼみがあって、そこに私が1人いるんです。上には這い上がれない、下は千尋の谷底、右にいっても左にいっても足場がなくてつかまりようがない。怖くて目が覚めた。これが私の初夢です。
さて、そこからあとだよ、問題は。初夢であれ占いであれ、どう受け止めるかということ、そこで自分の哲学が顕れるし、またそういうことを考えることによって、自分の哲学がきちっと作られていく。
私はどう考えたか、そこに書いてあるように、天は、あるいは神はといってもいいのかもしれないけれど、私に対して「おまえはいったいどこにいるんだ。お前の寿命はもう少ないぞ、いまだに回心しないのか」といわれていると感じた。回心というのは、大きな心の転換「ああそうか!とぱっとわかるようなそんなすごい心の動き、変化」昔の偉い人は回心してそこから、素晴らしい哲学をつくってきたりしている。
ラッセルもそうだ。ラッセルはずいぶん若い時に回心してる。たしか31才頃ではないでしょうか。いままでは南アフリカにおける黒人差別的なボーア戦争に対して支持していたのだがそれがまちがっていた、もっともっと人類に対する深い愛情をもつということが一番大事だと考え、その後彼の思想がきちっとできていく。
私は自分の初夢から「お前はまだ回心していないのだろう」といわれているのだろうと俺は思ったの。
皆さんも色々なことを、少し哲学的に考えてどういう風にうけとめようかな その受け止め方いかんによって進歩もできるし、退歩もできる。進歩発展できるように、そんな積極的な受け止め方をしてほしいと思います

 


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清廉潔白つっぱりタイプの男(その1)、張乞人
張乞人は父を亡くしてからは、歩いて物乞いをしながら、母を養っていました。家は、土に穴を掘ったものでした。大雪が降ったある日、県の長官、魏継斉が側を通り過ぎたとき、土の下から歌声が聞こえてきました。不思議に思って声をかけると、「今日は母の誕生日です。母が楽しく食事を出来るように、歌を歌ってあげていたのです。」と張乞人が答えました。
長官は、さっそく車を持ってこさせて母子を車に乗せ、県の役所に連れて行きました。そして長官の母は、張乞人の母に、穀物と布を与え、長官は、張乞人にお金を与えました。
張乞人は、長官に深々と頭を下げて感謝しながらも、こう言いました、「長官の母上が私の母に下さった物は頂戴致します。けれど長官が私に下さったお金は張戴するわけにはまいりません。」。長官がそのわけを聞くと、張乞人は言いました、「私は、長官がどこからこのお金をお受け取りになったかを存じません(権力者のお金は必ずしも綺麗なお金とは限らないことを婉曲に言っている)。私の母は80歳、我は61歳です。清廉潔白な庶民であれば十分でございます。」。そこで、長官は家を作ってあげようとしました。すると、張乞人は母を背負ってどこかに去ってしまいました。その後どうなったかは誰も知りません。

ギリシャの哲学者ディオゲネスを思い出しますね。計り知れない富と権力をもってしても何もしてあげられない人がいるということです。張乞人は、極めて貧乏ですが、母に孝養を尽くして十分幸せなのです。そこのところが、長官には分かりません。貧乏だったら不幸であるに違いない、自分の富と権力を以てすれば、きっと幸せにしてやれるだろうと考えるのです。
張乞人は、誰に恥じるところ無き清廉潔白な自分の生き方に自信を持ち、県の最高権力者に向かっても、堂々と自分の生き方を主張して曲げることがありません。一方、彼は、そうした自分の生き方、自分の哲学を自分以外の人、ここでは母ですが、にまで押しつけようとはしません。これも学ぶべき点でしょう。

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みなさんはどう考えますか?
1月から論語もまた始まってます。
皆さんのご参加お待ちしております。
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メールくだされば対応させていただきます。