あっというまに桜の季節です。
みなさんいかがお過ごしでしょうか。ユマニテ会のゆにっちです。![]()
ユマニテ会はおかげさまで今年度50回を迎えます。
合宿も回数を重ねるごとに、深みを増して盛り上がっています。
今年も楽しくやっていきたいと思って、現在色々企画中です。
お楽しみに。
3月のユマニテ会は、久しぶりに荘子を勉強しました。
一部ご紹介しますね。
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荘子 紀元前4世紀の人です。
荘子は中国の古典の中では一番難解です。話がおもしろいから、一瞬わかったような気になるのですが、実は結局わからないというような感じです。
ここで、なんで「荘子」の中に孔子がでてくるのか、と不思議に思うでしょう。
荘子にいわせれば、そんなことどうだってよいのです。自分と思想的に全くタイプの違う150年前の偉い人、孔子に自分の思想をいわせている。それが面白いところですね。むろん、孔子が答えているのは荘子の思想ですよ。
余談ですが、ここででて出てくる哀駘它(あいたいだ)は、せむし男だと思われます。せむし男で思い出すのはビクトル・ユゴー原作の「ノートルダムのせむし男」という映画です。ノートルダムの鐘つきの醜い醜い男が美しい女に恋をする話で、私も昔見た記憶がありますが、ジーナ・ロロブリジーダ゙という肉体派女優が演じています。それだけ覚えています。サイレントのバージョンもあるようです。
では話がずれましたが本編にいきます。徳充符編 第五
魯国の哀公、仲尼(孔子)にいいて曰く
「衛の国に大変な醜男がいてその名前を哀駘它(あいたいだ)という。男たちは、彼と会ったら、その魅力にひかれて、離れられなくなってしまう。女たちは、彼に会うと『他の人のお嫁さんになるよりは、あの人の妾になった方がよい』という。男も女も彼に接すると離れられなくなってしまう。
かといって、積極的に何かを主張するわけでもない。高い位にいるわけでもない。大変な財産家で人々の暮らしを良くできるわけでもない。それどころかその醜さで世間の人をびっくりさせる。人と調子を合わせるだけで、知識はせいぜい国内のことか、自分の村のこと程度だ。
動物たちさえも彼の前では平気でむつみあう。(自然の道と一体となっている哀駘它の徳が人間のみならず動物にまでおよんでいるのでしょうね)。私は、彼にはきっと人とは違うところがあるのだろうと思って、会ってみた。果たしてその醜さは天下をおどろかすようなものであった。
しかし、彼としばらく過ごしていると、その人柄に魅了され、1年足らずで彼を本当に信用するようになった。そこで、『国をおまかせしたい』と頼んだが、断られてしまった。
そうこうしているうちに彼は私の元を去ってしまった。私は気が滅入ってしまって、大切なものを失ったような気持ちになってしまった。もうこの国を治めていく楽しみもなくなってしまったような気持ちになった。
いったいこの人は何者なのか」
孔子曰く「私はかつて楚国に行く途中、たまたま死んだお母さん豚の乳を飲もうとしている赤ちゃん豚を見ました。しばらくすると赤ちゃん豚は驚いたように去って行きました。お母さん豚が自分たちを前のように優しい目で見てくれず、自分たちとまったく違ったものになってしまったからです。つまり赤ちゃん豚がお母さん豚を愛するのは、その外形を愛するのではなく、その外形を動かしている内的なもの、根本的なものを愛しているのです。(母としての本質、心を愛しているのです)。
今、哀駘它(あいたいだ)は何も言わないのに信用され、功績もあげないのに親愛され、人から其の国をまかされてそれを受けないことを心配されています。是れ必ず才全(さいまった)くして徳のあらわれざる者なり
哀公:「何をか才全しという」。
孔子:「自分の周りのあらゆる現象、生と死、存と亡、困窮と栄達、貧乏と金持ち、賢と愚、謗りと誉れ、飢えと渇き、寒さと暑さ
これらは事象の変化であり、運命の流転であります。一瞬一瞬目の前に代わる代わる現れてそれらがどうして起こるのか、なぜ起こるのかを我々の知力で原因をさぐってもわかりません。したがってそうした変化は人生の調和を乱すに価いしないし、それによって心を乱される必要はありません。
(私たちが日々感じる感情、喜んだり悲しんだり、苦しんだりそのような感情はそれはそれでよいのです。ただしそれによって心を乱されるなといっている、これは素晴らしい思想ではないでしょうか。感情を否定しているのではありませんよ。
どんな場合でも満足の喜びを持ち続け、物と春をなす。春のようなおだやかな心で生きていく。万物と春のようなうららかな関係をもつということ。自分の苦しみ、悲しみに対しても、うららかな春の心をもてといっても難しいかもしれないけど、持つということはある意味大事なことかもしれません。
そういうことのできる人を才まったしという。才能が完全であるというのです。
話はとびますが、以前古代ギリシアの快楽主義者アリスティッポスの話をしたとき、快楽主義は非常に厳しい哲学だといった。
快楽主義:人生の目的は快楽だ。多くの人は賛成だ賛成だというけれど、そんな簡単なもんじゃない。
普通、人は「楽しみ」から「楽しみ」を引きだし、「苦しみ」から「苦しみ」を引き出す。
しかし、快楽主義の哲学者は「楽しみ」から「楽しみ」を引き出すのみならず、「悲しみ」「苦しみ」からも「楽しみ」を引き出すのだ。
自分にやってくる、いかなる状況もよしとして受け止めて、喜び迎える。こうした古代ギリシアの快楽主義は、荘子がここでいっているようなことに通じるような気がする。
一切万物と春をなすということは、一切の悲しみ苦しみをも心乱されることなく受け止めるということでしょう。「物と春をなす」というのは、一種の悟りの境地なのでしょう。
みなさんね、今私は、苦しみや悲しみも喜びとして受け止めるということをいったけれど、それはある程度合理的にいえると思います。
ご自分の人生を振り返ってみてください。皆さんの人生の中には、楽しいこと、嬉しいこと、たくさんあったでしょう。悲しいこと、苦しいこともたくさんあったでしょう。でもその悲しいことや苦しいことも、今の幸せな人生を形作るための必要欠くべからざるものではなかったか。きっとそうであるはずだ。それがなかったら、今のみなさんもなかったかもしれない。
具体的な話をしましょう。
私が学生時代 東大を受験して力足らずして不合格であった。その時私は苦しくて、悲しかった。その時の私の感情、悲しいとか苦しいとか、それはそれでよいのだ、それは自然な感情なんだから。
しかし今思えば、悲しがる必要など全然なかったということがわかる。
なぜなら、それがあってこそ今の私がいるからだ。だから今ここで皆さんに会えたんだ!
私が東大に入っていたら、違う人生を歩んでいて、皆さんに会えなかったかもしれない。私はそんな人生は嫌だ!
すると、私は東大に落ちた時に悲しんだけれど、それは悲しむ必要など無かったんだ。それが私の幸せな人生を形作るための必要欠くべからざる部分だったのだから。
私は今の人生をすごく愛している。
一つ一つの苦しみ、悲しみを感じるのはそれは自然だけれど、それによって心乱されるなんて、それは良くない、そんな必要ないよ。
私はそういうことをここから学んだ。「物と春をなす」ぜひ覚えてください)。
哀公:「何をか徳あらわれずという?」
孔子:「平衡というのは水の静止しきった状態です。これこそ模範にできるでしょう。全くの水平てす。
あいたいだの徳は内にこめられて現れず、波なき水面のようにみえる。内にこめられていて深く、表は鏡のように静かだ。
その徳は完全な心の平静を得て整ったものです。その心の徳が外にあらわれない者には万物が集まって離れることができないのです。(これは武道などをやっている人などわかるのではないだろうか。本当に強い人は強そうにみえない。
それと同じで本当に徳がある人は徳があるようにみえない。現れるうちはまだ初心者。現れないまでになるとすごいんですね。
身なり姿形は奇怪なせむし男。これだけの徳を得るにはどれだけ苦労したかしれない。姿形が醜い、人から嫌われて、その中で彼は学問をして、努力し、人知れず悩み苦しみ、人の何倍も苦労して、徳を積んでいったのでしょう。そしてついに本物になったのでしょう。表には見えてこないような、静かな魅力になったのでしょう」。
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いかがですか?荘子の世界を味わっていただけましたでしょうか。
こんな感じのユマニテ会です。
どんな方でも、ウェルカムですので興味のある方はぜひ一度覗いてみてください。
次回のユマニテ会は
4月10日木曜日です。
お問い合わせはhumanite@live.jp
までお待ちしております。