みなさん10月に入り秋も深まってまいりましたね。ユマニテ会のゆにっちです。![]()
ユマニテ会の有志で君津市の亀山温泉ホテルに秋季勉強合宿会にいってまいりました。
いや~なかなか良い会となりました。
今回のテーマは任侠映画考 と 神は存在するかと問われたら 進化生物学の諸問題よりでした。
なかなか壮大なテーマでしたが、いつもの時間より少し長く時間をとってDVDをみてからの討論会からはじまりました。 合宿の様子はまたいずれ機会があればご紹介するとして、、、
前回のユマニテ会からご紹介します。以前のものとかぶっている部分もありますが、
=====================
葉隠聞書より
このテキストは三島由紀夫の葉隠入門からとっています。(河童ブックスは絶版)
この葉隠聞書は
だれが書いたか→ 山本常朝というお侍が口述筆記をさせて、読み終えたら焼き捨てよと命じていた。
そうとう反体制 武士道はたいていお上の思想と結びついているが、葉隠はお上のための思想ではないから、内容が過激である。しかしよく理解すれば役に立つ
どこの→ 佐賀鍋島藩の武士道
成立は→ 1716年 江戸幕府の安定期 元禄時代が1703年に終わり、その後の戦乱とは関係ない平和な時代の書物です。
基本テーゼ「武士道というは死ぬこととみつけたり」多くの方が知ってるんですが、みんな誤解している。
死ぬための哲学ではない。生きるための哲学なのです。
戦時中この書物は悪用され、だから戦後はきわめて悪名たかきものとなったが、
だけど本当に正しく解釈すれば、禅と儒教と仏教その素晴らしいところが、全部入っている。
思想というものはきわめて強力な武器になります。形なきが故、非常にベーシックで強力な武器になります。
人はどう感じ、どう考えるかによって、幸せになることもできるし、不幸せにもなれるのです。
生きるか死ぬか2つに1つをえらばなければならないときには死ぬ方を選べといっている。
戦後私たちは、「よく考えて行動しなさい」といわれてきた。でも葉隠では考えるなといっている。
理性を働かせてしっかり考えて選びなさいといわれてきたけど、そういう時に働く理性なんてろくなもんではないということがわかっていた。
理性は人間の臆病さや卑怯さを覆い隠すものである。理性なんてそんなものだ。だから考えずに困難な道を行けといっている。
そうすれば自分の能力を発揮して生きることができる。
火事場の馬鹿力(自分の知らない潜在的な力)を発揮して、素晴らしい人生を生きることができる。
実際、山本常朝は61才(当時としては高齢で)で畳の上で死んでいる。
葉隠武士道は死ぬための哲学ではなく、生きるための哲学です。
自分の能力を精一杯発揮していきるための哲学
「嫌われる人間と好かれる人間」より
少し理屈など合点したる者(ものの道理などのわかった人間)は、やがて高慢になり、
一ふりもの(ひとかどの人間)と言われては悦び、我今の世間には合はぬ生まれつき(今の時代にはもったいない生まれつきだから)などといいて、
我が上あらじと思うは(自分より才能のあるものはいないと思う)天罰あるべきなり。何様の能事持ちたりとて(どれだけの能力をもっていようとも)、
人の好かぬ者(好かれなければ)は役に立たず、御用に立つ事(ものの役に立ち)、奉公する(仕事は)ことには好きで、随分へりくだり、
朋輩の下に居る(下風に立つ)を悦ぶ(くらいの)心入れの者は(心がけの人は)、諸人嫌わぬ者なり。
これは一般論でいってますが、おそらくこういう場合は 山本常朝が誰かをみていて、そういう人がいたんでしょうね。それでこんなことをいっていると思います。
東洋哲学でも論語などでは色々な条がありますが、たいていの場合、ある時ある場所で孔子がだれか特定の弟子に向かって特定の状況の中でいった言葉なのです。そういうことが集められています。
それを私たちは 誰にでもあてはまるものと思って考える。
西洋哲学ではだれがどうしたこうしたなどとは言わない。ヘーゲルなども抽象的な言葉で抽象的なものの言い方をする。だから西洋哲学は難しいと思われてしまう。
さあみなさんどんな感想をお持ちですか?
この講座では、どんな偉い人がいったことでも、たとえば孔子や釈迦やイエスがいったことでも、「自分はそうは思わない」と言ってもかまいません。
遠慮なく。権威に屈する必要はない。自分の思う通りに考え、感じてください。
私はここで山本常朝のいっているところの真意はよしとします。だけど・・・
意見交換
○天罰あるべきなりのところが違和感がある。
○あえて嫌われるようなことでも、全体のためになるのであれば必要な場合もある。
○人に好かれなければ、役にたたないわけじゃないのではないか。
○徳を積むということとはちがうか。
○動機が自分目線か他人目線かでやる行為が決定されるような気がする。
○同じことをいっても、好かれたり、嫌われたりする場合もあるか
○ひとに媚びない
などなど
先生
言い方には問題があるけれど、正しい人には好かれる、正しくない人には嫌われる。それでいいと思う。
私はこれをみて、真意はわかります。
ただ言葉尻をとらえて、だからといって人に好かれることを第一義にとってはいけない。
人に好かれたいということだけを思ったら、おどおどして本当の自分がでない。
好かれたいなんて思うのは乞食根性。自分をだすことができない。
だってこの葉隠というこの武士道の書物は、自分を出せ、発揮しろといってる。
死んでもいいから自分の能力を発揮しろといっている。自由に生きろ
本当なら自分らしさをだして、好かれるのがよいが、自分らしさをだして、好かれなかったらしかたがない。
ていうぐらいの気持ちでいきなかったら、どうする。武士道なんて勉強しなくてもよい。
好かれようなんてことを第一義に思うなんて侍とはいえない。
歌の話で恐縮だけど、先ごろ不幸ななくなり方をした藤圭子の歌「命あずけます」というのがあるのですが、
『流れ流れて東京の 花の新宿花園で やっと開いた花一つ
こんな女でよかったら、命預けます。』
「こんな女でよかったら」自分のありのままの姿でよいならばどうぞあなたに命あずけます。
この根性はすばらしい。侍の根性と同じ。その結果、本当に好いてくれる人がきっといる。
だれにでも好かれようなんて思わなくていい。だれか一人でも好いてくれる人がいれば、いいのかもしれない。
そのくらいでなきゃやっていけない。
特に若い教師、先生稼業の人に言いたい。生徒に好かれようなんて思うなよといいたい。
そんなこと思ったら自分の思想をきちんとだせない。いいたくないこともきちんといわなければいけない。
もちろん愛情はたっぷりかけなきゃいけない。厳しくなくてはいけない。
その結果嫌われようが、好かれようが、そんなこと関係ない。
そんなこと考えていたら、自分の思想をきちんとだせない。
どうしても若いうちは人に好かれようとするけれど、年取るにつれ、だんだんつっぱってきますよね。これでいやならいいよ。
これでいいなら、ついてくるならついてこいというようなふうに。
質問:男は女性に嫌われたくないという気持ちありますよね?
生物学的にもいえるのだけど、オスはメスの好むようなオスにりやすい。ということが言われている。
我々は人間は文化文明をもっている。だから男はつっぱってもいいんですよ。
自然の流れにつっぱって、これでよかったらついてこい。いやだったらついてこなくていいぞというくらい。
==================
こんな感じでやっています。
興味のあるかたはどなたでも参加できます。
また遠くて参加できない方に、出張ユマニテ会もやっております。
何人かお集まりいただける場合には出張のご相談承ります。
詳細はご相談いたします。(論語、荘子、孟子、ラッセル、徒然草他)
秋の夜長に哲学の勉強なんていかがでしょうか。