みなさん真夏ですね。連日東京でも35°C超えの猛暑となって、
海で泳いで、 かき氷食べたい毎日のゆにっちです。
ウナギもまだまだ高いし、何で夏を乗り切ればよいのでしょうね。
さあ、でも気候に負けてはいられません。元気だしていきましょう。
7月のユマニテ会は徒然草 第137段でした。
でもその前に、なぜ先生が徒然草について、深く考えるきっかけとなった、74段のお話を、、、、、
それは先生が中学二年の時の国語の授業でした。徒然草を勉強して感じたインパクトが
先生の哲学者への道への一端になったとのことです。
蟻のごとくに集まりて・・・・・・・
人間というものはたくさんいて 老いたるあり、若きあり、行くところあり、帰る家あり
夕べに寝ねて 明日に起く。
いとなむ所何事ぞや 生を貪り 利を求めて 止む時なし
結局なんなんだ、 最後には死んじゃうんだ。という話。
人々は身を養生していったい何を待っているというのか。待っていてやってくるのは老いと死とがあるばかりである。いったい人間は何を追い、何を待っているのだろう。
人生とは何ぞや ですね。
この作品は日本における論語という人もいるくらいである。それほど大切な書物。
非常に多岐にわたって、人間というもの、人生というものを書いている。
しかもあたたかな目で人間をみている。
では137段を少しご紹介します。
花は真っ盛りに花見に行く、月は満月をみる、それだけが見る価値があるのか。そうではない。
見えない月を思って月見をする。それも月見のうちだ。
すだれを下ろして、部屋にこもっていて、春がきて春が去っていく 家の中の心の中で桜をみているのも、情緒あるものだ。趣深い。
花見にいって、咲いてなかった時や散ってしまって枝には桜が無い時
それも見どころが多いものだ。
詞書(ことばがき)=和歌ができたいきさつを散文でかいたもの
花見にいったんですが、もう散ってました。とか 差しさわりがあって行きませんでした。
などと詞書きを書いて歌を読むのもいいじゃないか。
それは決して「花をみて」という詞書に劣ったものではない。
花が散って、月が西へ傾く、それを惜しみ慕う習わしはもっともなことだ。
かたくななるひと=ものの情趣を解さない人 無教養な人
あの桜はもう散っちゃった。見どころがないなどという人はものの情趣を解さない人だ。
今回は皆さんとの意見交換をしながらのユマニテ会でした。
この吉田兼好という人は快楽主義者ではないのだろうか・・
どうすればこのような心境になれるのだろうか・・・などなど色々なご意見がでました。
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論語という書物は素晴らしい書物であるけれど
刑務所にいくのに1冊だけ本を持って行ってよいといわれたら、私は論語はもっていかない。
論語には死についての考察がない。
人生に深みを与えるのは生と死のぎりぎりのところ。
私が任侠道を好きなのもそのせいかもしれない。(四竈)
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人間というものに、死がなかったら・・・・いったいどうだったでしょうか。
死があるからこそ、生きている間の一瞬一瞬を
大切に思うことができるのかもしれませんね。
皆さんも一緒に考えてみませんか。
原文より
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花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。
雨に対ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行衛知らぬも、なほ、あはれに情深し。
咲きぬべきほどの梢、散り萎れたる庭などこそ、見所多けれ。
歌の詞書にも、『花見にまかれりけるに、早く散り過ぎにければ』とも、
『障る事ありてまからで』なども書けるは、『花を見て』と言へるに劣れる事かは。
花の散り、月の傾くを慕ふ習ひはさる事なれど、
殊にかたくななる人ぞ、『この枝、かの枝散りにけり。今は見所なし』などは言ふめる。
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