みなさんこんにちはゆにっちです。5月に入りましたね。
ゴールデンウイーク 満喫していらっしゃいますでしょうか。
次回のユマニテ会は5月18日金曜日です。
時間:19:10~20:40開場18:50
場所:NOF新宿南口R3C会議室4F
https://r3c.jp/roomreserve/map
会費:3000円
当日参加でもかまいません。
今回のメニューは前回に引き続き荘子です。時間があればその他哲学的小話です。
4月の安岡活学塾の講義内容からお知らせします。
論語の八佾第三 より
5.子曰、夷狄之有君、不如諸夏之亡也。
2つの解釈についてのお話です。
古い時代の解釈
★子曰く、夷狄(いてき)の君あるは、諸夏の亡(な)きに如(し)かざるなり。
古代の中国では、漢民族(中国人)の国々を文明の中心地を意味する「中華」と称し、
文化や技術の遅れた周辺の諸国(蛮族の国)を「北狄・東夷・西戎・南蛮」と称して差別意識を持っていた。
新しい国は自分が世界の中心だと思いがちである。
古代ギリシャでも周辺の後進国の異民族のことを「バルバロイ」といって、
「わけのわからないことをいう民族」という意味の言葉でよんでいたそうです。
当時は戦国時代で孔子の国「魯国」でも家老が実権を握って、7年間君主不在であったとのこと。
先生がおっしゃった「(中国の外部にある)夷狄の蛮族の国に君主がいても、
君主のいない夏(か)のようなわが中国(先進的な文明国)には遠く及ばない。』」
新 800年程前の朱子の解釈
★子曰く、夷狄(いてき)の君あるは、諸夏(しょか)の亡きが如くならざるなり。
先生がおっしゃった 「未開の地の民族でさえ、国王がいて人民を治めている。
指導者を失ったわが国よりはるかに勝っているよ」
我が中国は政治も乱れて、君主もいなくて、異民族の国は君主がいて、礼が行われている。
全く違う意味になってしまいます!
安岡活学塾で、よい話聞いてよかったね。では終わりません。
さあここからが本番のようなものなのです。
新しい訳は朱子の解釈です。この朱子の学問はは日本の江戸時代に朱子学として
日本の国の学問となりました。
何故朱子があの解釈をしたのだろうかという事の推察について。
朱子の生きた時代をもとに考えてみます。
朱子(1130年~1200年)
宋(960~1127~1279)
異民族 元(1271~1368)
明(1368~1644)
異民族 清(1636~1912)
宋の国は学問においては素晴らしい時代だったが軍事力は弱く、北方の異民族にしいたげられていた。
1127年 女真族が起こした金という国に圧迫され、都を南に移さなければならなくなり北宋と南宋の時代に分れています。
北半分を異民族にとられてしまった。
北宋時代の国民的英雄 岳飛 その岳飛を陥れた 秦 檜
南宋最後の宰相 文天祥のお話などもありました。
そんな時代の忠臣、名臣の生きざまをまざまざとみてきたのでしょうか。
朱子の哲学は孔子の哲学を引き継いでいますが、きわめて「忠孝」を重んじています。
異民族の強さ、実力を知った朱子が古い解釈をどう思っていたのかわかりません。
偉い人の解釈を察するということにはきわめて危険な部分がありますが、異民族との戦いの歴史があったことは間違いないでしょう。
その後、元の時代にはモンゴル族に、清の時代には満州族に圧迫された時代となったそうです。
君主がいない春秋時代の解釈と違う解釈を朱子が作ったのも、ごく自然のことなのかもしれません。