みなさんこんにちはユマニテ会のゆにっちです。
暖かいのか寒いのか、本当に気温差の激しい今日この頃ですが、いかがお過ごしですか
今日は次回のユマニテ会のご案内と、先日行われた安岡活学塾の四竈先生の講義より
一部ご紹介いたします。
第15回ユマニテ会は11月18日金曜日 19:10~20:40(開場18:50)
NOF新宿南口R3C会議室4FセミナールームAにて
https://r3c.jp/roomreserve/map
会費:3000円です。
今回のメニューは
①佐賀鍋島藩の武士道「葉隠聞書」より酒の座の心得
②論語より
③その他哲学的小話です。
どなたでもお気軽にご参加いただけます。
では早速先日の安岡活学塾での講義の内容を一部ご紹介しますね。
冒頭に素読についてのお話安岡活学塾では、
あの有名な安岡定子先生との素読のコーナーがあるのですが、
素読にどういう意味があるのかというと、論語は哲学であると同時に文学であるから
素読をすることにより音楽であるかのように心に沁み入ってくる。
西洋の哲学はそうはいかない。哲学は哲学、文学は文学で、
カントやヘーゲルの素読????ありえないでしょうね。
音って大事なのですね。
では本日のお勉強
子曰く、学びて思わざれば則ち罔く、思うて学ばざれば則ち殆し。
この章はみなさんご存じの有名なところですよね。
学問をする、(書を読む)だけで、思索をしなければ混乱をきたすだけである。
また考える(思索)だけで学問をしなければ(書を読まない)独断に陥り
危険である(不安定になる)というようなことです。
ではまず何を学ぶのか について、ここでは立派な人間になるための学問のこと(聖人の学問)であろうと考えられ、では聖人の学問とは何ぞや・・・・ということになります。
(聖人の学問、聖人の教えについてのお話はまた、別の機会にかきますね。)
ここからが、あまり他の論語勉強会ではないと思われる四竈流なのですが、
ではここでちょっと考えてみましょう。
孔子は学ぶことと、思うこと を同列に重要にいっているのか?ということです。
文字を読めば、対比されていて、学ぶことと思うことを
同時に同じくらいに重要であるといっているようですが、はたしてそうなのでしょうか。
論語全体をみたときにも、どうも学ぶことが重要であるようにも見えます。
なぜか、、、、、
思う時間を決めて考えても、解決しないことはどれだけでもあります。
それどころか思う事に時間を割くと、ねちゃいます(←先生曰く)ふむふむ
だからまずは学ぶことにエネルギーを割いて、ひたすら学ぶ。
学べは問いが生じる。その問いを解決していくことで、自分の考える領域自体が広がっていくのです。
学ぶことによって、考えるための材料も増えるから、学んでから考えるのと、学ばないで考えるのでは全く違う結果が得られるのではないかと思われます。
学ぶことのは思索することの前提条件みたいなものなのでしょう。
それからこれはおまけなのですが、会終了後の食事の場でよいお話を聞いたのでご紹介しますね。
「性は相ひ近きなり、習ひ相遠きなり」(陽貨17)
「教え有りて類無し」(衛霊公15)
この二つは江戸時代の伊藤仁斎が重視したといわれるそうですが、
人間の本来の性質というものはみんな近いものである。
そして人間に本来の種類というものはない。ただ学問によって遠く隔たっていく。
さればこそ学問は重要である。
沢山学んで、そして、余った時間で考えましょう。