みなさんこんにちは、ユマニテ会のゆにっちです。
台風が去って少し秋めいてきましたね。
では早速本題に、、今回は前回の続きで君子不器の3つ目の解釈です。
③不器の器たれ 己の才能を極限まで磨いていきなさいという解釈
これは君子たるものの教えとしては的確ではないかもしれないという前置きで
分かりやすく説明するために、あるお話をされました。
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趙(しょう)の都、邯鄲(かんたん)に紀昌という人がいました。
弓の名手で、紀昌は飛衛の元で修行します。
① 瞬きをしないことを学べ・・・・・・・・・5年間の修行
② 小なるものを大なるものに見える訓練・・・3年間の修行
③ やっと弓を引けるようになる。腕に杯をのせて連続で100射をする。
それができるようになると、師は次の目標を与えます。
西の方に甘蠅老師(かんようろうし)という羊の目をしたやさしいじっちゃんがいるので
そこへ行けといいます。紀昌はそこへ行きます。
まず弓を引き1本の矢で、一度に5羽の鳥を撃ち落としました。
老子:一通りはできるようじゃな。
では次はあの崖の先にある石の上にのって同じことをしてみなさい
紀昌は足ががくがくふるえて、弓をひくことができない。
老子:わしが射をお目にかけようかな、、
そういって、その岩に飛び乗ります。
紀昌:弓をお持ちじゃないですが、、、、
老子:弓がいるようじゃまだまだだ。
不射の射には及ばぬ、不射の射を知らぬとみえる
不射の射には弓もいらぬ。矢もいらぬ。
至言は言を去り、至射は射ることなし
そういって素手で鳥を撃ち落とした。
紀昌は芸道の深さに感動し、老子の元で九年間修業をした紀昌は山を下ります。
山に入る時に持って行った、弓も矢も捨てて、その時の紀昌の顔つきは全く変わっていて
木彫りの人形のような顔をしていた。
紀昌は山をおりて40年後に亡くなりますが、
その数年前の話に、紀昌は友の家にいって、あるものを見て、それが何か思い出せない。
あれは何ですか?と友に聞きます。友は冗談をいっていると思っていましたが、
3度も真面目な顔をして聞くのでいったそうです。
「あなたは弓をお忘れになったんですか!」といったそうです。
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いかがですか。修行して修行して到達する無の境地とでもいうのでしょうか。
孔子は50代の旅の途中で隠者に出会います。
その時のエピソードで隠者とは山にこもって静かに、自分を磨いて、自給自足をしていきるような人々です。
その隠者にであった時に、
「この世の中を変えようとおもっても簡単に変えられるものではないよ。
そんな無駄なことはやめた方がいい。」というのに対し、
弟子にいったとされる言葉に
「隠者のように、己一人が清く正しくあることは難しくない。
けれど天下皆が一緒に清く正しくなるのが難しいことであり、
我々はそのために努力しているんだよ。」といいます。
己一人が救われればいいという考えは孔子にはないのですね。
この世の中でたった一人でも不幸な人がいたら、俺の責任だと思う、すさまじい思い本当にすごいです。
前回のユマニテ会で先生は最後に
論語の思想を、単なる日常道徳の寄せ集めと矮小化してはなりません。
とおっしゃいました。2500年も読み継がれている論語
またひとつ論語の読み方が深くなりますね。
まずは銀座の安岡活学塾にて、先生のお話をきいてみて下さい。
気にいった方は、ユマニテ会で一緒に学びましょう。
次回の安岡活学塾は10月14日(金)19:00~
〒104-0061東京都中央区銀座3-10-7 銀座東和ビル6F にて会費:1000円です。
第14回ユマニテ会は10月21日(金)19:00~
NOF新宿南口R3C会議室 4FセミナールームAにて会費:3000円です。