静岡に住んでいるもんだから、我が家も多少、というか震度4くらいまでは揺れた。
こんな時に考えるのはやっぱり近い近いと噂される東海大地震だった。
一発目の地震の最中に停電して、運悪く(?)ワンセグつけたまま寝てしまい携帯は充電切れ。
当然、碌な暖房もなく寒いし暗いしすることないしで午前二時まではひたすらPSPだった。
電気が復旧してからはパソコンに張り付いて被害状況や速報に目を通していたけど、被害は甚大で停電の間に人が津波に流される場面が放映されたりしていたらしい。
私は、こういった出来事が大嫌いだ。
他人が死ぬのは、他人事というわけでも悲しくないわけでもないがこれには関係ない。
圧倒的な暴力に、何もできずに死ぬのが恐い。
単純な、よくある話である。ただ私はどうも神経質らしく――――もしくはビビリらしく――――これが常日頃から恐いのだ。
たとえば雨の降る夜に、たとえば寝不足でよろけた瞬間に、それだけで私は付きまとう死の影におびえてしまう。
忘れがちなことだが、死というのはごく身近に存在し、ふとした瞬間に我々を捕らえるものなのだ。
いまも強風が窓を揺らすたびに、あの揺れが再来し今度こそ大震災を引き起こすのではないだろうかという不安におびえている。
単なる神経質だとか、妄想過剰だとか、それだけの話だが決して現実味のない話でもない。
これがこの問題の厄介なところだ。今回の地震のように、人生何が起きるか分からない。
その『何』が明日の交通事故とも押し入り強盗とも分からないわけだ。
人は皆いつか死に、その何割かは予期せずに逝く。これは、私にとって大変恐ろしいことだ。
この恐怖が、私に「生きる意味とは何か」という究極の疑問の回答を探させているのだろうと分析する。
これを見つけなければ、私の人生は、18年間はなにも掴めず、世界やらなにやら絶対的なものに、傷ひとつ、痕ひとつ残せずに消えてしまうのではないか。
そんな不安がある。そしてそうなるのは何故か、とても恐いことのように思うのだ。
どこか私の心には、刹那的な、楽天的な快楽に身をゆだねて「それでいい」と感じる部分もある。そしてそれが私の生活の大部分を占めている。
だがふと心が震えだした瞬間に、死から目をそらすことができなくなり、感覚は恐怖に沈んでしまうのだ。
もしかしたら、この快楽主義は恐怖の裏返しなのかもしれない。
目を閉じて、恐い音は鼻歌と冗談で消して、そしてあとは心地のままに流れていく。
「それでいいじゃないか」
「どうでもいい」
「楽しいことしかしたくない」
私の基本的な考えはこんなものだ。
私はきっと、心の奥底まで恐怖症一色だ。
常に恐がっているのみなのだ。
書き始めたときには、何かオチのプランがあったはずだが尻きれトンボになってしまった。
だがこれも思索の結果として、受け止めようと思う。
最後に被災者の方々へ
生き残った方は本当に幸運だ。
犠牲を無駄にせず、なんてことはきっとできない。
でも、あの時生き残れてよかったと思う人生を歩んでください。
こんな時に考えるのはやっぱり近い近いと噂される東海大地震だった。
一発目の地震の最中に停電して、運悪く(?)ワンセグつけたまま寝てしまい携帯は充電切れ。
当然、碌な暖房もなく寒いし暗いしすることないしで午前二時まではひたすらPSPだった。
電気が復旧してからはパソコンに張り付いて被害状況や速報に目を通していたけど、被害は甚大で停電の間に人が津波に流される場面が放映されたりしていたらしい。
私は、こういった出来事が大嫌いだ。
他人が死ぬのは、他人事というわけでも悲しくないわけでもないがこれには関係ない。
圧倒的な暴力に、何もできずに死ぬのが恐い。
単純な、よくある話である。ただ私はどうも神経質らしく――――もしくはビビリらしく――――これが常日頃から恐いのだ。
たとえば雨の降る夜に、たとえば寝不足でよろけた瞬間に、それだけで私は付きまとう死の影におびえてしまう。
忘れがちなことだが、死というのはごく身近に存在し、ふとした瞬間に我々を捕らえるものなのだ。
いまも強風が窓を揺らすたびに、あの揺れが再来し今度こそ大震災を引き起こすのではないだろうかという不安におびえている。
単なる神経質だとか、妄想過剰だとか、それだけの話だが決して現実味のない話でもない。
これがこの問題の厄介なところだ。今回の地震のように、人生何が起きるか分からない。
その『何』が明日の交通事故とも押し入り強盗とも分からないわけだ。
人は皆いつか死に、その何割かは予期せずに逝く。これは、私にとって大変恐ろしいことだ。
この恐怖が、私に「生きる意味とは何か」という究極の疑問の回答を探させているのだろうと分析する。
これを見つけなければ、私の人生は、18年間はなにも掴めず、世界やらなにやら絶対的なものに、傷ひとつ、痕ひとつ残せずに消えてしまうのではないか。
そんな不安がある。そしてそうなるのは何故か、とても恐いことのように思うのだ。
どこか私の心には、刹那的な、楽天的な快楽に身をゆだねて「それでいい」と感じる部分もある。そしてそれが私の生活の大部分を占めている。
だがふと心が震えだした瞬間に、死から目をそらすことができなくなり、感覚は恐怖に沈んでしまうのだ。
もしかしたら、この快楽主義は恐怖の裏返しなのかもしれない。
目を閉じて、恐い音は鼻歌と冗談で消して、そしてあとは心地のままに流れていく。
「それでいいじゃないか」
「どうでもいい」
「楽しいことしかしたくない」
私の基本的な考えはこんなものだ。
私はきっと、心の奥底まで恐怖症一色だ。
常に恐がっているのみなのだ。
書き始めたときには、何かオチのプランがあったはずだが尻きれトンボになってしまった。
だがこれも思索の結果として、受け止めようと思う。
最後に被災者の方々へ
生き残った方は本当に幸運だ。
犠牲を無駄にせず、なんてことはきっとできない。
でも、あの時生き残れてよかったと思う人生を歩んでください。