つい先週くらいまではシリアスな話をしていたので、
今度はプライベートなんて話していいのかな……とか迷ったりなんだり

明日引っ越しです
今日中に荷物をまとめておかなきゃいけないのか……

初めて、コメントを頂いた。
以前に勧誘のようなCMのようなものはあったがノーカウント。
なんだか、読まれているというのは嬉しいものだ。
ありがとうございます。

さて本題
書いている現在もそうだが、もうテレビはバラエティーとドラマに戻っている。
たった数分前に震度5以上の地震が起きたが、画面上部に速報が流れて終わってしまった。
私は国内の地理に詳しくない。おそらくの予想は立つが、各地の具体的な情報はなかった。
それでいいのか?
まだ余震が来ている最中だ。支援物資の搬送が最も活発になっている時期だ。
なぜもう戻ってしまうのだろう。
全国区である以上、視聴率と抱き合わせて番組内容を考える必要があるのだろうが。
だが未曾有の出来ことである原発や放射能の問題もある。静岡東部の地震もある。
その時機にバラエティーを流すのか。
私はこれを不謹慎と罵るつもりはない。不適切なのだ。
情報がほしいときに得られないのはつらい。関心を持てば持つほど、そう感じるのではないだろうか。
ここで、ネットを利用して情報収集することを考えてみる。
個人の興味を満たすには個人で調べるべきだ。それは日常の些末な出来事になら適用されて然りだが、地震も放射性物質も人の命がかかっているのだ。
テレビで報道されることで、国全体の危機意識が高まり義援金やボランティア人員が増大する。
繰り返しになるが人の命が懸かっている。万単位。放射性物質なら0をもう2つはつけられる。
なぜ、必死で報道しない?
たしかに、原発の状況は分刻みで変異しない。被害状況も同じだ。だが一社たりとも放映しなくて良いような、予断を赦し娯楽で暇を埋めるような状況だろうか?
私がこう考えるのも、自分がある一瞬で死んでしまうからだろう。
たとえば再び富士宮で地震が起きて電柱の下敷きになれば死ぬ。
また地震だ。9時55分、震度4。
今も誰かが死んだのだろうか。
被災地では薬が足りないそうだ。物資が足りずあと三日しか保たない病院もあるそうだ。
酷い状況。改善には物質と統率された人員が必要だろう。
物資にも人員の活動にも、金だ。
金が必要だ。募金額を増やすには国民の気運が大きな役割を果たす。
ある場所で、募金しない人を責めてはいけないという意見があったが、いいではないか。
それで助かる人がいるのだから。それを全面肯定するのではないが、だが間違いなく募金が増えるのだ。
ならばいいのではないのだろうか。
募金は個人の自由だとか、概念的な抽象的な空想的な思考は現実に及ばない。金が足りないのだ。
それは、偽善と呼ばれる行為にも言えるが、なぜ良いことをしているのを否定する?
マザーテレサじゃないが、結果が良ければいいじゃないか。悪巧みの一部でなければ、体面や外見を気にしてでもいいじゃないか。だれかが助かるのだ。
脱線したが、大事なことだろう。
とにかく、私は今のテレビに不満を抱く。これが言いたかった。

さて、昨日のライブの話だが。
私は彼らが、災害の終了後、一旦の区切りのあとに再興の推進力になればと考えている。
過ちを犯しやすい個人ではなく、組織としてが望ましい。
彼らのゲリラライブは場所と人を選ばなかったがために非難された。
あれが避難地でなければこうはならなかった。行き場がないという強制力を持たないからだ。
今後、被災地でステージに立てば、評価されるだろう。具体的な効果も見込める。
被災地のいわゆる『ニコ厨』が自発的に聴き活力を得る。歌やイベントは再興の力であって防災に対しては打つ手段がない。人にはそれぞれ役割があるのだ。
タイミングと場所。これらをキーワードに効率的な活動をしてほしい。
彼らの何かをしたいという考え自体は間違っていない。
この件に関して批判をしている人々は、この部分に関して一度考えてほしい。方法が悪かったのが問題で人格性質は悪くない。
つまり、不謹慎な行為だが不謹慎な連中ではない、と。
これはある意味では、罪を憎んで人を憎まずと似ているのかもしれないと愚考する。

歌い手の代々木公園ゲリラライブは不謹慎な振る舞いだが不謹慎な連中というわけではないんだ!彼らは場所とタイミングを間違えただけ。それがなんで分からないんだよ!!!


だからこえーーーって言ってんだろーーー!
震源地近いよ!!寝れないよ!!
富士市の横じゃんかよーーーーー!!
震度6とかもう・・・もう嫌だ・・・
弱音を吐きたくてしょうがないよ・・・
静岡に住んでいるもんだから、我が家も多少、というか震度4くらいまでは揺れた。
こんな時に考えるのはやっぱり近い近いと噂される東海大地震だった。
一発目の地震の最中に停電して、運悪く(?)ワンセグつけたまま寝てしまい携帯は充電切れ。
当然、碌な暖房もなく寒いし暗いしすることないしで午前二時まではひたすらPSPだった。
電気が復旧してからはパソコンに張り付いて被害状況や速報に目を通していたけど、被害は甚大で停電の間に人が津波に流される場面が放映されたりしていたらしい。

私は、こういった出来事が大嫌いだ。
他人が死ぬのは、他人事というわけでも悲しくないわけでもないがこれには関係ない。
圧倒的な暴力に、何もできずに死ぬのが恐い。
単純な、よくある話である。ただ私はどうも神経質らしく――――もしくはビビリらしく――――これが常日頃から恐いのだ。
たとえば雨の降る夜に、たとえば寝不足でよろけた瞬間に、それだけで私は付きまとう死の影におびえてしまう。
忘れがちなことだが、死というのはごく身近に存在し、ふとした瞬間に我々を捕らえるものなのだ。
いまも強風が窓を揺らすたびに、あの揺れが再来し今度こそ大震災を引き起こすのではないだろうかという不安におびえている。
単なる神経質だとか、妄想過剰だとか、それだけの話だが決して現実味のない話でもない。
これがこの問題の厄介なところだ。今回の地震のように、人生何が起きるか分からない。
その『何』が明日の交通事故とも押し入り強盗とも分からないわけだ。
人は皆いつか死に、その何割かは予期せずに逝く。これは、私にとって大変恐ろしいことだ。

この恐怖が、私に「生きる意味とは何か」という究極の疑問の回答を探させているのだろうと分析する。
これを見つけなければ、私の人生は、18年間はなにも掴めず、世界やらなにやら絶対的なものに、傷ひとつ、痕ひとつ残せずに消えてしまうのではないか。
そんな不安がある。そしてそうなるのは何故か、とても恐いことのように思うのだ。
どこか私の心には、刹那的な、楽天的な快楽に身をゆだねて「それでいい」と感じる部分もある。そしてそれが私の生活の大部分を占めている。
だがふと心が震えだした瞬間に、死から目をそらすことができなくなり、感覚は恐怖に沈んでしまうのだ。
もしかしたら、この快楽主義は恐怖の裏返しなのかもしれない。
目を閉じて、恐い音は鼻歌と冗談で消して、そしてあとは心地のままに流れていく。
「それでいいじゃないか」
「どうでもいい」
「楽しいことしかしたくない」
私の基本的な考えはこんなものだ。
私はきっと、心の奥底まで恐怖症一色だ。
常に恐がっているのみなのだ。

書き始めたときには、何かオチのプランがあったはずだが尻きれトンボになってしまった。
だがこれも思索の結果として、受け止めようと思う。

最後に被災者の方々へ
生き残った方は本当に幸運だ。
犠牲を無駄にせず、なんてことはきっとできない。
でも、あの時生き残れてよかったと思う人生を歩んでください。
とりあえず最低目標はクリア・・・
なんとかなるもんだ
勉強はろくにしなかった。
世界史は趣味の範囲で続けていこうかな
友情を得るためには一人で生きていく覚悟が必要である
なぜならそれは重要性を知ったうえで選択する必要性があるから

――これはきれいな素晴らしい生物だ。青い鳥と一緒に住んでいると長い間信じられていたが、それはうそだ。
――青い鳥の生息温度はこの虫を殺す熱さだ。
――この虫は冷静な氷点にとどまり、
――時空をはるか自由なスペースに住む。
――その姿を見ようとするものは、極地の孤独な山脈を超えていかなくてはならない。

出典は辻まことさんの虫類図譜から

出会いは環境のもたらすものです。幸せを引けば廻りあわせと出るくらいですから、これはもう運です
ですが、その中から誰と付き合いを深めるかというのは当人しだい。
もちろん同じ組織に属する知人や友人と楽しく過ごすことも重要ですが
苦境に手を差し伸べてくれる友はもっと大切なはずです
ただそれは、厳しい環境の中でこそ垣間見られる人間の美しさ、
性善説じゃないですが生来持つ慈愛のなせる美
そもそもそんな環境に陥りがたい現代じゃ、そして利己主義風潮の現代じゃ、なかなか見られない美しさかもしれませんね
だからこそ、希少ゆえに価値を認め手を伸ばす。
でもリスクはノーセンキュー。はい友情ドラマの出来上がり、と

なんだか捻くれた話になってきましたが
なにがいいたいかと言えば親友って大事ですねってことです

ほしいなぁ
他人といる時間に楽しさしか求めない以上無理からぬ話ですが

久しぶりの更新

大学受験はどうなることやら・・・


そろそろ歌の練習を始めないといけない

それに体作りも・・・

センター試験終了。

国語が……

安パイのはずの国語がそれも小説が20点……


全部六割だったお

すべりどめもすべったかもしれないお

やばいお

ピンチだお


うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああ