延泊
研修が2日間の延泊の為、昨日東京に戻ってきました。私どもの研修では、各研修で終了する為に必要な項目を設けております。規定期日内で項目をクリアー出来ない場合は期日を延長して本人が放棄しない限り、研修を終了まで続行します。今回は久しぶりの延泊でなお且つ2日間でした。
昨年の暮れから2月初めの今回の研修まで1週間コースを3回実施しました。3コースとも終了の規定内容は異なるものの、出来るまで「延泊」という条件は同じです。しかし、延泊で発生する費用は全て私どもで負担します。
理由は規定の日数で終了できないのは担当講師に責任があるとしているからです。担当講師側からすればいろいろ言い分もあると思いますが、我々の研修は知識を伝達するのではなくモチベーションを喚起することを主に進めているからです。研修項目での研修生ごとの得手不得手はあるもののモチベーションの占める割合は70%を超えます。「喚起させられなかった」我々だから費用は貰えないという発想です。
延泊をした研修生は延泊理由を誰よりも気づいています。それはやればできるのにやらない「手抜き」だったからです。そんな彼らも仲間より遅れての終了ですが、放棄せずやりきった経験、このことは職場で必ず生きてきます。1万語の説教言葉よりも延泊した悔しさ、情けなさ、投げずにやりきることの大切さを流した汗と涙で体感したのですから。
秘すれば花
昨日、毎年恒例になっているある法要に参加した。1月29日に行われるこの法要に参加するようになって20年近くになる。快晴だった記憶は殆どなく、小雪交じりのこともあれば、小雨、曇天と追悼の場にふさわしい中で行われてきた。元旦にその年の計を練る以上にこの場は私の中で大きな比重を占めている。広々とした本堂の中でお坊さんの唱える般若心経を聞きながら、今までのこと、これからのことが頭をよぎる。供養される側とする側のこと、会社のこと、仕事のこと、纏まりがつかないほど多くのことが飛び交う。そして、その場に座っている有難さと責任を感じ、これからのことに想いを馳せていく。
法要が終わると随時散会となった。帰る道すがら以前受けた研修のことを思い出していた。その研修は3日間の通いだったが、初日の終了時に講師から「出来れば皆さんバラバラに帰っていただきたい、そして今日の研修内容を一人で噛み締め、反芻してください」という趣旨の依頼があった。
しかし、5~6人の研修参加者と居酒屋に立ち寄り、ああだ、こうだと言い合った。講師の言葉に若干後ろめたさを感じながらだったが。
帰宅して翌日の準備をしていると、その日の研修でのことが浮かんできた。先ほどまで居酒屋で話していた捉えかたとは異なる形で出てくる自分の考えを主体的に伝えているはずだったが、その場で相手に合わせていただけのこともたくさんあった。私自身の主体性はこの程度のものかとも感じた。流したり、流されたりの繰り返しだとも。
この時の想いは私に強く残っている。
今回、いろいろな軋轢、不具合の起きる事が予想されるが「無理して合わさない」と今まで以上に強く決意した。無駄にする時間はないのだから。
靴を直す
愛用の靴の底が減ってきたので修理に出した。東横線のT駅の商店街にその店はある。看板を出していないので間口2間ほどの店が靴修理屋だと気づかない人が多い。ガラガラと戸を開けて中に入るとカウンターが正面にあり、修理を終えた靴と修理を待つ靴が整然と積まれている。その後ろで店の主人が背を向け、修理作業をしている。いつ行っても同じ光景で挨拶が始まる。
「やあ」
「あ!どうも」
「できてますか」
「はい」
お客が私以外にいない時は近況を少し話してそのまま靴を持って帰ってくる。いる時は少し待てば時間はできる。というのも他のお客とのやり取りも私とのやり取りと同じだから。相手の顔を見て、カウンターの靴を手渡し「有難うございました」最小限の動作と会話でことは進んでいく。相手の名前を聞くことさえない。私と他のお客の違いは近況を話し合うことだけなのだ。彼は20年近く前、私のところで研修講師をしていた。講師をやめ、暫くして、靴修理の仕事を始めたと連絡が来たのが10数年前。
それ以来靴の修理を彼に頼んでいる。特段腕がいいとは思わない。ただ、彼の直した靴を履きたいと思っているだけで電車に乗ってT駅まで出かける。「この仕事があっていると思います。組織の中で縛られ、リスクを抱え、指示されて生きるのは大変ですから・・・・・それに靴の修理は失敗してもすぐにやりなおせますから」敢えて看板を出さず、客のリピートと口コミで生計を立てようとしているこんな風な生き方もできるんだと会うたびに思う。