ごめん、自分が好きでごめん | 菊川朝子の、たまにしか更新しないけどやっているの日記。

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よっす、かっこいい俺っす。


嘘だよ。

風邪で鼻ずんどこだし、稽古でも鼻がアレで歌も満足に歌えねい。

だけど俺だって生きているんだ。

文句なんか言わせない。風邪は徐々に治ってきている予感だ。

今年の風邪は長引くらしいぜって、毎年言っているかどうか統計をとってほしい。


とりあえず俺は自分に嫌いなとこのほうがたくさんあるが。

それでも自分を好きだと思える唯一の瞬間がある。


台本をあげたとき。

つまり、脱稿したとき。


今週の俺は、そおいう意味でひとつふたつ、あげたい仕事をあげてくれたので合格だ。

他はだめでも俺的には許してやりたい。合格点をあげたい。

とりあえず俺が俺を許して褒めてやらないと、誰も褒めてなぞくれないので、褒める。

VIVA!俺。完本おめでとう!!


とはいえ。


そこまでめでたい気持ちなわけでもないのも正直事実なのだ。

だから、あまりこう、わっという気持ちでもないのも本当。

台本はかけた。一応最後まで。

でもゴールが見えているわけではない、というとなんだか変だけど。

まだ、霧が晴れた状態なわけではない。


自分の台本に特徴があるとすれば。

役者へのあてがき、その人の状態や稽古状況次第で台本が進んでいくという点。

と思う。

そおいう作家は多いのかもしれないけど。

なんというか、うーん。説明できないけど。

簡単に言えば。

マイナスをプラスとして利用して台本に転換していく。

ということが私の脚本の特徴なのではないかと、誰も分析してくれないので自分でする。

そおいう意味では今回。

稽古はそこまで進んでいない。

稽古の段階より若干早い時点で台本を書き上げたのは、結構個人的には勇気のいることだった。

そして役者にも伝えてはいるけれど。

こっからの変更は、ものすごくありうる。


いつもいつでも。

ライブな台本なのだ。

特に本公演とかより、鱈。はその力を優先していると思う。

そおいう作り方をするほうが現場にリアルで、面白い結果がでると思うからなのだけど。

私がパソコンの中で文字で面白いと思って作っていったものより、

よりいいものが生まれる可能性があるならその選択肢をいつでも選ぶ覚悟です。


作・演出をやっている上で、気をつけなくてはいけないと思っていることは。

現場に「作家」を持ち込まない。

だから、家で作家キクカワが顔を出したとしても。

稽古場で作家キクカワが役者に口出しすることは、本読みとかまででおさめたい。


まあ、無理なんだけど。出てくるんだけど。


だって台詞に愛情あるし。俺の想像したものより面白くないなんて全くがっかりなわけだし。

でもそれはそれで。

出来るだけ我慢して、出来るだけ、よりいい状態に持っていくことを考える。

現場の、演出家キクカワは何よりも、役者への愛情とお客さんへの愛情。

その現場にいるすべての人への愛情を優先することによって、脚本を愛したい。

その結果が一番、いいと思うので。


愛情というのは、やさしさではないのです。

あたしは誰にもやさしくないと思うし。

やさしさは結果、愛じゃないことが多いから。

やさしさのなかには、たまにあきらめとか。見下しとかあって。

それはやっぱり、さびしいなあと思う。

あたしはやさしくないけれど。

誰よりそこにいる役者を愛したい。あたしが愛している役者だから、お客さんも愛せるように。

そこにいる役者に損させるなんて、演出家はやるべきじゃないのだ。

損してる役者が一人でもいるってのは、やっぱ演出がだめなんだ。


おお。自分で自分のハードルをあげとる。


でもそうじゃなきゃ。

そのメンバーで作る意味なんてない。

ひとつの台詞も、ひとつの曲も、一人の人も。

すべて、一ミリも無駄にならないように努力するのが俺の仕事だ。

選択が、演出家の仕事。

だからこの台本を出した作家キクカワに、これから演出家キクカワが挑みます。

正解かどうかは、演出家キクカワが役者たちと決める。

間違っていたらいつでも、演出家キクカワは正しい=面白いほうを選びます。


さああと一ヶ月。時間はたっぷりあるぜ。