終末論Q&A 中川健一著 p71-75より抜粋

 

キリストの御座の裁きは、いつ行われるか

Q:キリストの御座の裁きについて、教えてください。キリストの御座の裁きと、白い御座の裁きは違いますよね。裁きが行われるタイミングが違うのでしょうか、あるいは、裁きの内容が違うのでしょうか。クリスチャンでも裁かれるのでしょうか。その裁きがいつ行われるのか、教えてください。

 

 キリストの御座の裁きと白い御座の裁きは、全くの異なった裁きです。前者は、携挙直後に行われます。後者は、人類の歴史の最後、永遠の秩序に入る直前に行われます。この章では、キリストの御座の裁きだけを解説します。白い御座の裁きは、先に行ってから取り上げます。

 

はじめに

キリストの御座の裁きは、信者の報奨のための裁きであって、罪の裁きではありません。信者は、キリストの贖いによって罪が赦されましたので、罪の裁きを受ける必要はありません。したがって、クリスチャンはキリストの御座の裁きを恐れる必要はありません。

ルカ21:34~36は、携挙された信者は「人の子の前に立つ」と教えています。

21:34 あなたがたの心が放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされていて、その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことにならないように、よく気をつけなさい。

35 その日は、全地の表に住むすべての人に突然臨むのです。

36 しかし、あなたがたは、必ず起こるこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。」

 

 

1. キリストの御座の裁きのタイミング

この裁きは、教会の携挙の直後に天で行われます。黙示録19:8にこうあります。

19:8 花嫁は、輝くきよい亜麻布をまとうことが許された。その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」

 

「花嫁」とは、教会(携挙された聖徒たち)のことです。この時点(携挙と再臨の間の時点)で、花嫁は輝くきよい亜麻布をまとっています。つまり、再臨の前に聖徒たちの裁きは終わっているということです。キリストの御座の裁きは、携挙と再臨の間のどこかの時点で行われます。この裁きを受けるのは、教会時代の聖徒たち(携挙された聖徒たち)だけです。未信者や旧約時代の聖徒たちは、この裁きの対象外です。

 

 

2.キリストの御座の裁きの内容

⑴ローマ14:10~12

14:10 それなのに、あなたはどうして、自分の兄弟を裁くのですか。どうして、自分の兄弟を見下すのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つことになるのです。

11 次のように書かれています。「わたしは生きている―主のことば―。すべての膝は、私に向ってかがめられ、すべての舌は、神に告白する。」

12 ですから、私たちはそれぞれ自分について、神に申し開きすることになります。

 

ここに書かれている「私たちはみな、神のさばきの座に立つことになるのです」とは、キリストの御座の裁きのことです。

 

⑵ 2コリント5:10

5:10 私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。

 

この裁きは、罪に対する裁きではありません。 ローマ8:1にはこうあります。

 

8:1 こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。

 

これは、信者の報奨を決めるための裁きであり、裁きの基準は、信者になって以降の行為です。

つまり、信者としてどれだけ忠実に神に仕えたかが吟味されるのです。

 

 

3.キリストの御座の裁きの結果

⑴1コリント3:10~15

3:10 私は、自分に与えられた神の恵みによって、賢い建築家のように土台を据えました。ほかの人がその上に家を建てるのです。しかし、どのように建てるかは、それぞれが注意しなければなりません。

11 だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。

12 だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てると、

13 それぞれの働きは明らかになります。「その日」がそれを明るみに出すのです。その日は火とともに現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです。

14 だれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。

15 だれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をぐるようにして助かります。

 

 

①土台(キリスト)上にどのような建物を建てたが、裁きの基準となります。土台はキリストですから、この裁きが教会時代の聖徒たちを対象としたものであることが分かります。

②12節は、働きの量ではなく、質が問題になると教えています。「金、銀、宝石、木、藁で家を建てると」とあります。神の御心に沿った働きは、金、銀、宝石です。それに対して、告白されていない罪を持った生活は、木、草、藁です。罪の影響は、間接的表れます。その人にはさしたる報奨が与えられませんので、千年王国の間、その影響が続くことになります。

③13節は、各人の働きが火で試されることを教えています。木、草、藁などは、燃えて灰になります。それに対して、金、銀、宝石は純化されます。

④14~15節は、報いを受ける人と、焼かれる人の対比を描いています。「損害を受ける」とは、その働きが燃やされてしまうことです。しかし、「その人自身は火の中をくぐるようにして助かります」とありますので、その人が救いを失うことはありません。

 

 

 

信者(クリスチャン)が受ける5種類の冠

 

①朽ちない冠 コリント人への手紙 第一 9:24~25節

24 競技場で走る人たちはみな走っても、賞を受けるのは一人だけだということを、あなたがたは知らないのですか。ですから、あなたがたも賞を得られるように走りなさい。

25 競技をする人は、あらゆることについて節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。

 

朽ちない冠は、自制し、霊的生活で勝利した者に与えられる冠です。

 

②誇りの冠 テサロニケ第一 2:19

私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのは、いったいだれでしょうか。あなたがたではありませんか。

 

誇りの冠は、キリストのために魂を勝ち取った者に与えられる冠です。伝道し、人を救いに導いた者は、この冠を受けます。

 

③義の冠 第二テモテ 4;7~8

7 私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。

8 あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けて下さるのです。

 

義の冠は、困難な状況下にあって、教理的にも道徳的にも信仰を守った者に与えられる冠です。また、主の現れを慕っている者に与えられる冠です。再臨を待ち望む姿勢が、正しい教理と真実な信仰につながっていくのが分かります。

 

④いのちの冠 ヤコブの手紙1:12  ヨハネの黙示録2:10

ヤコブの手紙1章

12 試練に耐える人は幸いです。耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。

 

黙示録2章

10 あなたが受けようとしている苦しみを、何も恐れることはない。見よ。悪魔は試すために、あなたがたのうちだれかを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあう。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与える。

 

いのちの冠は、試練を耐え抜いた者に与えられる冠です。

 

⑤栄光の冠 ペテロの手紙第一 5:2~4

5:2 あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って自発的に、また卑しい利得を求めてではなく、心を込めて世話をしなさい。

3 割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。

4そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠をいただくことになります。

 

栄光の冠は、忠実に神の羊の群れを牧した者に与えられる冠です。牧師、長老、その他、みことばの乳と肉で羊を養った者への冠です。

 

まとめ

これ以外にも冠はあるかもしれませんが、以上が啓示された冠の種類です。キリストの御座の裁きで報奨を決める目的は、千年王国での権威と責務の度合いを決めることにあります(ルカ19:11~27のミナのたとえ話)。ちなみに、永遠の秩序においては、すべての人が平等な状態になります。(救われた人)

 

 

 

ロゴス・ミニストリー マタイの福音書25章

上記より抜粋

 

2A 管理する(タラントを任された僕) 14-30 

次に、また別の天の御国の譬えをイエス様が語られます。ここでは、今、出てきた話、「イエスを 知っているようでいて、実は関わりを持たないで生きてきた」という問題をイエス様は取り扱います。 そして、午前礼拝でお話ししましたが、主が戻られるというのは、その時が今までしたことの清算5 の時だ、報いを受ける時だということを見て行きたいと思います。 

1B 商売 14-18 

14 天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。

15 彼はそれぞれその能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラン トを渡して旅に出かけた。するとすぐに、

16 五タラント預かった者は出て行って、それで商売をし、 ほかに五タラントをもうけた。

17 同じように、二タラント預かった者もほかに二タラントをもうけた。 

18 一方、一タラント預かった者は出て行って地面に穴を掘り、主人の金を隠した。 

イエス様はまず、主人が旅に出かけるという想定を作っておられます。裕福な主人が遠い所に 旅に出かけることはよくあることです。当時の旅は、どんなに注意深く計画したとしても、その通り にはならないものです。いつ戻って来るのかも、そのためあまり分かりません。そして、かなりの額 をそれぞれの僕に任せます。一タラントは 6000 デナリで、1 デナリが当時の一日分の労賃に相当 するので、6000 日分の労賃です。仮に一日 1 万円の収入だとすると、五タラントの人は三億円、 二タラントの人は 1 億 2 千万円、そして一タラントの人は 6000 円万円です。ですから、主人はか なり信用のある僕のみに任せて、高額の資金運用ができる能力を見て、それぞれの能力に応じて、 任せています。商売と言っても事業に限らず、銀行に預けることも立派な資金運用です。五タラン ト、二タラントの僕は行いましたが、一タラントの者は地面に穴を掘りました。 

 

2B 清算 19-23 19 

さて、かなり時がたってから、しもべたちの主人が帰って来て彼らと清算をした。 十人の乙女の譬えでもそうでしたが、自分たちが思うよりも遅く戻って来ることが暗示されていま す。イエス様は、すぐに来られると言われても、私たちにとっての「すぐ」ではないという含みがあり ます。このことは既にペテロが第二の手紙で取り扱っていたことであり、3 章 4 節で「彼の来臨の 約束はどこにあるのか。父たちが眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのものではない か。」とあざける者たちが既にいました。そしてペテロは、主は火でもって来られることを警告し、こ う言ったのです。「Ⅱペテ 3 章 3:8-9 しかし、愛する人たち、あなたがたはこの一つのことを見落と してはいけません。主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある 人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対 して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望ん でおられるのです。」 

 

20 すると、五タラント預かった者が進み出て、もう五タラントを差し出して言った。『ご主人様。私 に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください、私はほかに五タラントをもうけました。』

21 主 人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多く6 の物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

22 二タラントの者も進み出て言った。『ご主人 様。私に二タラント預けてくださいましたが、ご覧ください、ほかに二タラントをもうけました。』

23 主 人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多く の物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』 

財産を預かっているというように、私たちそれぞれが、神の賜物を与えられています。そして、信 仰の量りにしたがって与えられています。それらを主人のため、つまりイエス様の為に用いるとい うこと。自分の生活や人生そのものが、イエス様によって捕らえられたものであり、それをイエス様 に捧げるということで、恵みに応答します。ここで大事なのは、増やしてくださるのは神ご自身だと いうことです。商売というのは、そういう性質があります。市場経済を、かつてアダム・スミスが「神 の見えざる手」という言葉で表現しましたが、自分自身を神に捧げることによって、神ご自身がそ れを運用してくださり、増加させてくださるのです。それを新約聖書では、「御霊によって賜物が与 えられている」こととして書かれています。また、品性については、聖霊の実として書かれています。 具体的な働きや奉仕においても、また愛という神のご性質についても、聖霊の働きがあり、聖霊な る神が成長させてくださるのです。 そして大事なのは、「比べない」ことです。というのは、五タラントも、二タラントも、主人は全く同じ 評価をしているのです。ここで私たちは絶えず、天を仰ぎ見ないといけません。どうしても私たちは、 他者と比べて、他者のしていることで自分を評価します。そうではなく、主が評価されているのは、 今、自分に任されていることに忠実であるかどうか、ということです。それらは、些細なもの、僅か なものにしか見えないかもしれません。けれども、主はそれを増やすことを願っておられるのです。 さらに、主人が、そのような忠実な者たちに多くの物を任します。黙示録の七つの教会に対する イエス様の言葉は、「勝利する者」に対する約束がありました。例えば、「諸国の民を支配する権 威を与える。」とイエス様はティアティラの教会の者たちに語られました。けれども、勝利する者と は、全てにおいて信仰の勝利を得た霊的エリートのことではありません。そうではなく、「あなたが たが持っているものを、わたしが行くまで、しっかり保ちなさい。(2:25)」と、自分が既に持っている ものをただ保っているということなのです。けれども人々は、そのわずかな物を行わないのです。 自分の与えられている時間や財産をもってイエス様に関わっていくことをしないのです。霊的な怠 惰と言ってよいでしょう。それは次の一タラントのしもべの姿に表れてきます。 

 

3B 没収 24-30 

24 一タラント預かっていた者も進み出て言った。『ご主人様。あなた様は蒔かなかったところから 刈り取り、散らさなかったところからかき集める、厳しい方だと分かっていました。

25 それで私は 怖くなり、出て行って、あなた様の一タラントを地の中に隠しておきました。ご覧ください、これがあ なた様の物です。』

一タラントの僕は、外の暗闇に追い出されます。つまり、地獄に投げ込まれる人です。なぜ、そん なことにまでなってしまったのでしょう。「あなた様は蒔かなかったところから刈り取り、散らさなか ったところからかき集める、厳しい方」ということです。このような意地悪い方なのだ、ということで す。神への信頼がなかったのです。これこそが原因でした。私たちが最も気をつけなければいけ ないこと、警戒しなければいけないことは、「神に対するイメージ」です。悪魔は、巧妙に神が意地 悪な方であると見せます。自分ができないことを無理やりやさせ、搾取するような方なのだと見せ るのです。このサタンの声を私たちは拒絶しなければいけないのです。そこで、神に近づくことが できません。イエス様のことに関わろうと思わなくなります。信頼ができないために、恐れが必ず先 行します。けれどもこれは致命的で、自らに滅びを招きます。「ヘブル 10:38-39 わたしの義人は 信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない。」しかし私たちは、恐れ退い て滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」 そして、「地の中に隠」すという行為ですが、これも霊的に致命的なことです。言い換えると、「神 以外のもので安全を確保しようとする」ということです。地の中に隠せば、確実に一タラントは元本 を割ることはありません。箪笥貯金であれば、絶対にその現金を失うリスクはありません。けれど も、神なしで自分に安全で生活を確保しようとすることは、やがて自分を滅ぼします。私たちに与 えられた人生というのは、不確実性を含むのです。けれども、主に従うということは、そこに危険も ともなうのです。けれども神が救う方であり、神が自分の避難所とすることによって、自分が最後 まで守られるのです。 

 

26 しかし、主人は彼に答えた。『悪い、怠け者のしもべだ。私が蒔かなかったところから刈り取り、 散らさなかったところからかき集めると分かっていたというのか。

27 それなら、おまえは私の金を 銀行に預けておくべきだった。そうすれば、私が帰って来たとき、私の物を利息とともに返してもら えたのに。 

ここに主人は、彼の怠惰を叱責しています。銀行に預けるだけでも、よかったのです。それさえも 怠ったのですから。「箴 19:24 怠け者は皿に手を伸ばしても、その手を口に持って行こうとさえし ない。」とあります。 

28 だから、そのタラントを彼から取り上げて、十タラント持っている者に与えよ。

29 だれでも持っ ている者は与えられてもっと豊かになり、持っていない者は持っている物までも取り上げられるの だ。

 ここの主人の待遇は、厳しいように見えます。けれども、この僕の願っていること、その意志を尊 重しているがゆえ、タラントを取り上げたのですね。彼が、主人の与えるタラントに関わりたくない のですから、彼から取り上げたのです。これが神のなされることです。神に、イエス様に関わりたく8 ない人は、関わらせないようにしてくださいます。 けれども、なぜ十タラントの者に与えられるのでしょうか?これは、平等主義にしたがえば、酷い ことのように聞こえるかもしれません。まるで金持ちがますます金持ちになり、貧乏はますます貧 しくされるというように聞こえてしまいます。けれども、そういった物質的なことではなく、霊的なこと を話しています。神は恵みを注ぐ器をお立てになります。そして、恵みをその器を通してお流しに なります。そして、器を通して、その立てられている器に神の選びを認めます。ある人が他の人よ り多く祝福されるということは、神の国においては当たり前のように起こります。そして、他の人た ちは、そのことをむしろ共に喜んで、その人を祝福します。「なぜ、私たちは祝福されないのか」と 言って、妬んではいけません。 30 この役に立たないしもべは外の暗闇に追い出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』 「役に立たないしもべ」ということは、自分に与えられた恵みを無駄にするということです。その人 は、「外の暗闇」に追い出されます。これは、光であられる神とキリストがおられるところから、離れ ているということです。新しいエルサレムには、神の都があります。そこから追い出されています。 そして、「泣いて歯ぎしりする」というのは、自分の失ったものに気づいた者たちの強い怒りの反応 です。自己中心な心が、自分の思い通りにならなかった時の反応です。 したがって、この譬えから分かって来ることは、私たちが、主が来られることを用意するという教 えは、御霊によって与えられた賜物を十分に活かす、主から与えられたものを、しっかりと管理す るというところに表れます。イエス様が来られることを意識している人々の中に、なんと隠れた防空 壕のようなものを用意して、そこに備蓄をしているという人々がいます。来る大患難、核戦争にな ってもおかしくないために生き伸びるためです。けれども、主の来られることを前もって用意すると は、イエス様に用いられるために自分自身を明け渡すこと、そして与えられた賜物を用いることに 他なりません。主が来られるのが近いことを知れば、良い業に豊かになります。

 

以上

 

 

 

 

 

エス・キリストの復活の意味を知ることは本当に大事です。

 

この世界のすべてを創造した父なる神の子、イエス・キリスト

 

神でありながら、人を救うために、人として生まれ、すべての人の罪の身代わりとなるために、十字架にかかり、死んで、墓に葬られ、三日後によみがえり、天に帰られた、イエス・キリスト

 

世界中で祝われる復活祭は、この歴史的事実であるイエス・キリストの復活を祝っています。

(2022年は4月17日が復活祭です。)
 

 

ちなみに、皆さんが良くご存じのクリスマスは神であるイエス・キリストが処女マリアから降誕されたことを祝っています。

 

そして聖書は、イエス・キリストを信じる者だけが天国に行くことができる。永遠の命が与えられると書かれています。

 

 

「信じるのはその人の自由だから」

 

確かに信じるのはその人の自由です。

 

復活を信じるクリスチャンは聖書を真実であると信じています。

 

人は死後必ず、神に裁かれ、イエス・キリストを救い主だと信じない人は、救われずに、永遠に神から断絶された地獄に行くことが書かれています。

 

ですから、真実を知ったクリスチャンは福音を伝えるんです。黙っていられないんです。

 

それは、大切な周囲の人々に永遠の地獄に行ってほしくないからです。

 

福音を信じて、神と共に過ごす永遠の天国に行ってほしいからです。

 

信じてくれるのであれば、なんだってします。

 

その代表者であるイエス・キリストは、あなたに神であることをわかってもらうために、罪を犯したことのないイエス・キリストが最も苦しい処刑法である十字架刑で、あなたの罪の身代わりとなり、処刑され、死んで、墓にほうむられ、そして、復活されました。

 

復活は多くの人が目撃し、多くの人の前で、天に帰られました。

 

神は完全なる愛の存在です。

 

あなたを救うために、完全に自分を捨て、犠牲になってくださいました。

 

 

神が人を愛されたがゆえに、人となって、人の身代わりになられた、歴史的事実を受け入れ、信じてください。

 

 

 

 

 

「聴くドラマ聖書」 日本G&M文化財団

 

 

 

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聖書はまず聞くことが大切です。

 

ぜひ、聞いてください。

 

ぜひ聖書を読んでください。

 

聖書の無料アプリもあります。

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「降誕(こうたん)」

 

クリスマスはイエス・キリストの降誕を祝っています。

 

人々を救うために神が人となり、すべての人の罪の身代わりとなり、十字架にかかってくださいました。

 

 

「復活」

 

「復活」は 十字架にかかられ、死んで、墓に葬られ、三日後に父なる神によって、復活されました。

 

イースター(復活祭)はこのイエス・キリストが神であることが証明された復活を祝っています。

 

イエス・キリストは40日間弟子に現れ、また来るということを告げて、天に帰られました。

 

現在も父なる神の右の座で、クリスチャンの祈りをとりなしておられます。

 

 

「イスラエル」

 

聖書の舞台はイスラエルが中心です。イエス・キリストもユダヤ人としてお生まれになりました。

 

それはイエス・キリストが生まれる前に書かれた書物「旧約聖書」にあらかじめ、救い主がイスラエルに生まれるということが書かれていました。

 

すべてあらかじめ書かれているとおりに、イエス・キリストは生まれ、十字架にかかられました。

 

イスラエルはイエス・キリストが十字架にかからられた後、紀元後70年に崩壊します。それにより、イスラエルのユダヤ人は世界中に離散しました。その間国はなかったのですが、聖書に書かれる預言通りに1948年5月14日に再建しました。このイスラエルが神の力によって存在することが、聖書が真実である大な印であり、またイスラエルが存在することで、反キリストと平和条約を結ぶことで始まる終末、7年間の大艱難時代が近いことがわかります。

 

 

「再臨」

 

再び来ると言われ天に帰られました。 再びイエス・キリストが戻ってくることを再臨といいます。

 

 

再臨には2種類あり、空中再臨と地上再臨があります。

 

「空中再臨」というのはキリストが天から空中まで来られることです。

 

イエス・キリストが自分の神であるということを心から信じているクリスチャンを一気に空中に引き上げることを携挙(けいきょ)といいます。

 

この携挙によって引き上げられたクリスチャンを迎えに再び空中に来られることを空中再臨といいます。

 

 

そしてイスラエルと反キリストが平和条約を結んだ7年後にイスラエルを救うために地上に来られることを「地上再臨」といいます。