春風ヒロの短編小説劇場 -9ページ目

春風ヒロの短編小説劇場

春風ヒロが執筆した短編小説を掲載しています。

「帰ってきました」
 簡潔な、しかし私にとっては、十分なメールだった。
「お帰りなさい」
 簡潔にメールを返すと、携帯をパタンと閉じる。それだけで、彼女にとっても十分だろう。
 明日は久々に店を休んで、彼女の店へ行こう。そう考えるだけで、少し気持ちが浮き立つようだった。

 彼女との付き合いが何年になるか、もう覚えていない。彼女が結婚する前から、私は彼女の店に通い、いつしか自分の店を構えるようになった。
 強いて言葉にするなら、「つかず離れず、のんびりとした関係が続いて、いつの間にか何年もの時間だけが過ぎていた」とでも言うのだろうか。酒を飲み、話をするだけで、よくそれだけの関係ができたものだと、自分でも時折、不思議に思う。
 ビルの谷間を縫うように、通り慣れた路地を抜ける。目的のBAR「Marine Blue」は、ちっぽけな看板にちょうどスイッチが入ったところだった。

 タバコを1本、ゆっくり時間をかけて吸ってから、店のドアを開ける。
「いらっしゃーい。時間どおりねっ」
 数人入ればすぐいっぱいになる、小さなカウンターだけの店。その奥で、セミロングの髪を顔の横で束ねた、小柄な女性が笑っていた。
「まりんさん……、別に約束してたわけでもないでしょう」
「でもヒロさんのことだから、あのメール送ったら、絶対開店してすぐに来ると思って」
「まあね。どうせ、この店は開店してもヒマを持て余すだけでしょうし」
「まーた憎まれ口を……。いつもの?」
「ええ、いつもの」
 赤い封蝋を施したバーボンをバックバーから取り出し、ロックアイスを入れたオールドファッションド・グラスへと注ぐ。その様子を、私は感慨深げに眺めていた。
「ふふ……。ヒロさんは、この店で何本のメーカーズ・マークを飲んできたんでしょうね」
 私が考えていたのと全く同じことをつぶやきながら、グラスを差し出すまりん。
「さあね。そんなに昔のことは忘れましたよ」
 そう答え、私はタバコに火を付けた。
 彼女は自分用に、ジン抜きのジントニックを作り、私の目の前に差し出した。
 彼女は全く酒が飲めない。そんな彼女がどうしてBARを開いているのか、私には理解ができなかった。一度、彼女に尋ねたところ、やんわりとはぐらかされて以来、この質問はタブーになっている。
「じゃ、乾杯ねっ」

「で、今回はどこの劇場へ遠征してきたんですか?」
「フフフ、よくぞ聞いてくれました。まずはムラで『太王四神記』、それから梅芸で『ミーマイ』、あとは東宝で『エリザベート』! 私の中で、永遠のトップスターはおさちゃんだけどねっ!」
 彼女は宝塚歌劇団、特に花組主演男優として活躍した、「おさちゃん」こと春野寿美礼の大ファン。春野寿美礼が引退した今も、宝塚歌劇のために全国を飛び回っている。彼女に言わせれば、「この店は、旅費を集めるために開いているだけ」なので、完全な不定期営業なのだ。よく店を維持できるものだと、ますます首を傾げたくなる
 ちなみにムラとは兵庫県の宝塚劇場、梅芸は梅田芸術劇場、東宝は東京の東京宝塚劇場を、それぞれ指すのだそうだ。
「どれも良かったとは思うけど、その中で、あえて一番を挙げるとすれば?」
「やっぱり『エリザベート』だね! 楽曲が桁外れに素敵だし、いつも見られるわけじゃないし! でも今回はエリザ役の人の歌がちょっと、ね……。楽曲が素晴らしいだけに、その点が残念だったかなぁ。おさちゃんとみどりちゃんの『エリザベート』は最高だったなぁ」
 宝塚歌劇の魅力に耳を傾けながら、私はゆっくり、滑らかなバーボンを楽しんだ。

 気がつけば、時刻は午後11時を過ぎていた。
「おっと、そろそろ日付が変わりますな。帰るとしましょう」
「ということは、最後の一杯ね」
「ええ、いつものでよろしく」
「はぁい」
 まりんは踊るような動きでオレンジとレモン、パイナップルのジュースを用意し、シェーカーに注いだ。鮮やかな手際でシェークした飲み物を、カクテルグラスに注ぎ、チェリーを添えて差し出す。
 いつも自分で作っている飲み物を、人に作ってもらうのは楽しいものだ。軽く目を見交わし、グラスを掲げる。
 カクテル「シンデレラ」。
 パイナップルの華やかさ、オレンジの甘さ、レモンの酸味がバランス良く合わさった一杯を飲み干し、私は席を立った。
「じゃ、シンデレラは日付が変わる前に帰りますね。おやすみなさい」
「はい、おやすみ。また気が向いたら遊びに来てね」
「……また気が向いたら、店開けてくださいよ」
「はぁい。ありがとうね」
 店を出る前に後ろを振り返る。カウンターの奥では、まりんがシンデレラのグラスを掲げながら、いたずらっぽく笑っていた。

【シンデレラ】
オレンジジュース 1/3
レモンジュース 1/3
パイナップルジュース 1/3

よくシェークしてカクテル・グラスに注ぎ、マラスキーノ・チェリー(赤)を飾りま
 中秋の名月。それは、秋の収穫物を神に供え、感謝を捧げる祭から始まったという
 おかげさまで多くの来客でにぎわうようになったこの店も、時折、パタリと客足が途切れる日がある。本当はそんな時、店でじっと待つことも大切な仕事なのだが、たまには外の空気を吸いたくなる。
 私は店の前の道路へ出ると、ぽっかりと空に浮かんだ満月を見上げ、タバコに火をつけた。月の光に照らされて、ユラユラと煙が空へ流れていく。
「こんばんは。マスターがこんなところでサボってていいんですか?」
 いたずらっぽい声に振り返る。きっちりとスーツを着こなし、セミロングの髪を軽く束ねた女性が背後に立っていた。
「宝美さん、こんばんは。あまりにヒマだったので、ちょっと月見をしてました」
「中秋の名月ですもんね。私はしばらく、月を見上げる余裕もなかったかも」
「忙しかったんですか?」
「ええ、いろいろと、ね」
「ま、立ち話もなんですから、中へどうぞ」
「はーい」

 店に入った彼女は、くつろいだ様子でカウンターに座り、隅に置いてあった木製のパズルゲームを取り上げた。白と黒のパネルをはめ込み、列をそろえる「五目並べ」のようなものだ。私は、そんなオモチャをいくつか、客に遊んでもらうために置いていた。とはいえ、それらで気兼ねなく遊んでくれるのは、ごく一部の常連客だけだったが。
 しばらく遊んで気が済んだのか、彼女はパズルを手放した。
「じゃ、いつものように」
「『甘くないカクテル』ですね。承知しました」
 彼女の注文は、いつも決まっていた。その注文一つで、店によって、まったく違うカクテルが楽しめることを、彼女はよく知っていた。
「今夜は、中秋の名月にちなんで、私の一番得意なカクテルを作ってみましょうか」
「わ、楽しみ。何が出てくるのかしら」
 期待に目を輝かせる彼女の前で、テキパキとドライジンと白ワインのボトルを取り出し、スクイーザーでグレープフルーツを搾る。そこにほんのちょっとのキルシュヴァッサーを加え、シェーク。
 大きめのグラスにカクテルを注ぎ、最後にレモンピールで香りを添える。仕上げに、そのレモンの皮を沈めれば出来上がりだ。
「お待たせいたしました。今夜のカクテル『ムーンライト』です」
「なるほどー。この店と同じ名前ですもんね」
「最近は『ムーンライト・クーラー』のほうが有名かもしれませんけどね。まったく別物になりますから、気をつけてください」
「ん、柑橘系の香りとジンの苦味がすっきりして美味しいですね」
「お気に召したら何よりです」

「さっきの月、きれいでしたね」
「宝美さん、『月がきれいですね』っていうのは、大事なときに取っておくといいですよ」
「え、どうしてですか?」
「夏目漱石が英語教師をしていた時代、生徒が『I love you』を『我、君ヲ愛ス』と訳したのを聞いて、こう言ったんですよ。日本人なら『月がきれいですね』と言い給え。奥床しさが大事だ、とね」
「へー。『I love you』を『月がきれいですね』って、すごい訳しかたですね」
「漱石は幕末から明治を生きた人ですからね。当時は、『愛』という言葉自体が日本に入ってきたばかり。日本人にとっては、『情』のほうが分かりやすいものだったんです」
「ふむふむ」
「『月がきれいですね』という言葉の裏には、『あなたと一緒に、この月を見ることができて幸せ』『あなたと一緒に、月を美しいと感じることができてうれしい』、そんな心情が込められている。文豪・漱石らしいエピソードだと思いませんか?」
「すごーい。夏目漱石にそんなロマンチックな話があったんですね」
「加えて、これは私なりの解釈ですけど、日本人は昔から、まぶしい太陽よりも、月を愛してきたと思うんですよ。月の出とともに逢瀬を楽しみ、夜明けとともに別れる。遠く離れた地の想い人への気持ちを、月に託して歌にする。きっと同じ空の下、あの人もこの月を見ているだろうと……」
「なんだか、今夜のマスターはおしゃべりですね」
「月の光には、心の扉を開く魔法の力があるんですよ。普段は固く閉ざされた、心の奥底にある秘密を、つい話してしまいたくなるんです」
「マスター、もしかしてこの店って……」
「ええ。お客様にとって、心の扉を開いてリラックスしていただける魔法をお届けする場。だから、『Moonlight』なんですよ」
「そうなんだ……」
 しみじみとうなずく彼女に、私はおどけて言った。
「さあ、こんな話をした後で、もう一度、私に言っていただきましょうか。『月がきれいですね』と」
「ん、もうっ! せっかくの甘い雰囲気が台無しじゃないですか!」
「そうですよ。飲んだから、お分かりいただけるでしょ? ムーンライトは、決して甘くないんですよ」

 冴え冴えとした月の光に照らされて、今夜も私の店はお客様をお待ちしています。
 あなたの街の、どこか片隅で。
 さあ、どうぞ。
 一杯のグラスに満たされた、心の扉を開くカギ。
 ごゆっくり、お楽しみくださいませ――。

【ムーンライト】
ドライ・ジン 1/3
白ワイン 1/3
グレープフルーツ・ジュース 1/3
キルシュワッサー 1tsp
レモンピール

シェークして大型のカクテル・グラスに注ぐ。最後に、レモンの果皮より精油を飛ばしかけ、その果皮をグラスの中に入れる。

 数人の客を送り出し、カウンターを片付ける。
 シンクに溜まったグラスや小皿を洗い終え、壁にかかった時計を見上げた。
 午前3時。閉店の時間だった。
「今日も来なかったな……」
 私は寂しげにつぶやくと、店の看板のスイッチを切った。

 彼女が初めて店にやって来たのは、この店を開いて間もなくのことだった。
「こんなところにBARができたんですね。ライバルになるかもしれないから、視察に来ましたよ。アタシですか? この近くでスナックやってます」
 あまりに明け透けに言ってきたことで、かえって毒気を抜かれ、反論する気力を無くしたことを、つい数日前のことのように思い出す。
 雪のように白い肌と、か細い、どこか儚げな笑顔。そんな彼女がスナックを経営しているという。接客業をするうえで、「人は見かけによらない」は基本中の基本。しかし内心では、「こんなか弱そうな人が……」と、驚いたものだった。
「何にいたしましょう?」
「じゃあ、ジンフィズを」
 何の変哲もない、ロングスタイルのカクテル「ジン・フィズ」。しかし、レシピに使うドライジンやソーダの選び方、シェークの技量など、バーマンにとって、これほど力量を試されるカクテルはない。
「どうぞ」
 カクテルを差し出し、彼女の表情を伺う。
 ニコリと笑い、「おいしい」。その一言が、何より大きな報酬だった。

「視察」という衝撃の初対面以降、彼女は時折来店するようになった。
「マスターは、どんな恋愛をしてきました?」
 そう聞かれたのは、ある日の閉店間際。たった一人、カウンターで彼女が飲んでいた時だった。
「恋愛経験はそんなに豊富じゃないですよ。それなりに、幸せな時間を過ごさせてもらったってことだけは、言えると思いますけど」
「ふーん。じゃ、ちょっと変わったことを聞くけど、マスターにとって恋愛は、色に例えると何色?」
「うーん……。白、かな? 相手によって何色にもなりうる。相手の色に染まることも、相手の色を薄めることもできる」
「ふむふむ」
「そして……どんな模様でも描ける。真っ黒な不倫でも、真っ赤な情熱でも、何色の恋愛をするのもいいけれど、私にとって大事なのは、お互いが相手のことを思いやって、どれだけ幸せな絵柄を描くことができるかだと思うんですよ」
「へー、そういう考え方もあるのね」
 彼女はそう言うと、しばらく目の前のグラスを見つめ、考えにふけった。
「……私、これまで何人かの人に同じ質問をしてきたんだけど、そんな風に答えてくれた人はいなかったなぁ。ちょっと勉強になったかも」
 彼女にどんな過去があるのか、私には分からない。しかし、決して順調な道を歩んできたわけではないことは、儚げな表情に映し出されているように感じた。

「じゃあ、最後にもう一杯だけ、作ってもらっていいですか?」
「かしこまりました」
 彼女の告げたカクテルは、日本バーテンダー界の重鎮、毛利隆雄氏の創作カクテルだった。ウオツカをベースに、杏露酒と「パルフェ・タムール」、グレープフルーツ・ジュースを加え、シェーク。
 オレンジ色のカクテルをゆっくりと味わうように飲み干すと、彼女は席を立った。
「じゃ、マスター、元気でね」
「ええ、またのお越しをお待ちしております」
「そうね。また、いつか……」

 その後、彼女が店に現れることはなかった。風の便りで、彼女が店を閉め、この街を出たと聞いた。
「あなたは元気にしていますか?」
 時折、そんな思いを込めて、彼女が最後に頼んだカクテルを作り、よく座っていた席へと差し出す。
 カクテルの名は「ワスレナグサ」。
 花言葉は「私を忘れないで」――。


【ワスレナグサ】
ウォッカ 30ml
杏露酒 10ml
パルフェタムール 10ml
グレープフルーツジュース 40ml

シェークしてカクテルグラスに注ぎます。

「パルフェ・タムール(Parfait Amour)」は、フランス語で「完全なる愛」の意味をもつバイオレット・リキュール。地中海沿岸で採れる柑橘系果実をベースに、ニオイスミレ(スイート・ヴァイオレット)やバラ、アーモンド、バニラなどで香り付けされている。

 何年か店を続けていると、常連客というものが出来てくる。店主にとって、新しい客の来店はこの上なく嬉しいものだが、気の置けない常連客と過ごすノンビリとしたひと時は、貴重なものだ。

「こんばんは、ヒロさん」
 彼女が来店するのは、いつも決まって水曜の午後10時。肩の下ぐらいまで伸ばした明るい色の髪を揺らしながら、奥のカウンター席に座る。
 なぜ、その時間なのか、何の仕事をしているのか、詳しいことは知らない。しかし、週の中日の深夜といえば、たいてい暇を持て余すもの。彼女の来店は私にとっても楽しみなものだった。
「お、いち、いらっしゃーい」
 気軽に歓迎のあいさつを投げかけ、手早くおしぼりと灰皿を取り出す。通称「来客セット」を差し出しながら、
「髪切ったんだね。ずいぶん雰囲気が変わったから、ビックリしたよ」
「へっへー、可愛くなったでしょー」
 ニコニコしながら小首を傾げる。すっかり短くなった髪が、肩の上でユラユラと揺れていた。

 野崎苺、通称"いち"。彼女が1杯目に飲むものは決まっていた。しかし、あえて尋ねるのが私たちの間の遊びのようになっていた。
「今日は何にする?」
「いつもので」
「りょーかい」
 氷を入れたタンブラーにディタとグレープフルーツジュースを混ぜ、トニックウォーターを注ぐ。手首のスナップを利かせながら、バースプーンで素早くかきまぜれば出来上がり。
「どうぞ」
 ディタ・モーニ。「スプモーニ」のアレンジカクテルで、ベースリキュールにカンパリではなく、ライチリキュール「ディタ」を使ったものだ。
「んー、相変わらずヒロさんのディタ・モーニは美味しいねー」
 大きな目を子猫のように細めながら、コクコクと飲む。
「ディタと柑橘系のジュースは相性がいいからね。あと、手軽なところだと紅茶にちょっとだけディタを入れる、なんて飲み方もあるよ」
「それ、美味しそう! 今度、家でやってみるね」
「ぜひ」

「ところでヒロさん、こないだアタシ、友達の結婚式に行ってきたんだけどね。すっごい演出があったのよ」
「へー、どんな演出だったの?」
「わっかるかなー? 当てられたらボトル1本入れちゃうよ」
「ボトルは別に入れなくてもいいけど……、新郎新婦の入場時に花火を上げたとか、天井からゴンドラで下りてきたとか?」
「ぶぶー。正解は『新郎が白馬に乗って入場』でした」
「うはははは。そりゃ想像できん」
「でしょでしょ。新郎は普段、ものすごくマジメな人で、そんな演出するとは思えなかったよ」
「いろんな結婚式があるもんだねー。いちはどんな結婚式がいいの?」
「そうだなぁ……。ゲスト参加型で、ワイワイやるのがいいかなぁ。皆で何かイベントやるのもいいかも」
「へー、例えばどんなイベントがいい?」
「うーん、自分のこととなると想像つかないんだけど、ガーデンウェディングで、出席者全員がシャボン玉を吹きながら新郎新婦を迎えたこともあったなぁ。あんな感じのイベントができたら嬉しいなぁ」
「女の子にとっては、一生の夢だからね。いろいろ考えるのも楽しみの一つだね」
「ヒロさんは結婚しないの?」
 何げない問いかけ。しかし湧き上がる胸の痛みに、一瞬、言葉が詰まる。

「はっはっは、フーテンの寅さんじゃないけど、『それを言っちゃあおしまいよ』ってね」

 こういうときは、おどけてお茶を濁すに限る。

「いい人なのになー」
「私はみんなのアイドルですから。お気持ちだけ、ありがたく受け取らせていただきますね。さて、おかわりはどうします?」
「アイドルっていうところは力いっぱい否定しておきたいと思うけど、じゃ、2杯目はヒロさんにお任せで」
「かしこまりました」

 ディタではなく、薄桃色のボトル「クワイフェ」を取り出す。クワイフェ(貴妃)とは、言うまでもなくライチを愛好した世界三大美女、楊貴妃に由来するもの。ディタと同じライチリキュールだが、酒はボトルと同じ薄桃色をしている。
 クワイフェ、グレープフルーツジュース、桂花陳酒、ブルーキュラソーをシェーカーに注ぎ、素早くシェーク。薄紫色に染まったグラスに、チェリーを添えて差し出す
「どうぞ。『楊貴妃』ね。世界三大美女になぞらえるのは、ちょっと言い過ぎかもしれないけど、いちごさんのイメチェン記念ってことで」
「わーい。でもどうせなら、そこは『いちが現代の世界三大美女の一人』って言ってくれたら良かったのに」
「あっはっは、じゃあ今度はそう言いますね」
「さて、ごちそうさま。そろそろ帰るね」
「ええ、ありがとうございました。お気をつけて。おやすみなさい」
 間もなく、水曜が終わろうとしている。見上げた空には、剥き実のライチのようにつややかな月が輝いていた。
 こんな夜は1杯だけ、自分のために「楊貴妃」を作るのもいいかもしれない。楊貴妃とまでいかなくても、素敵な人との巡り会いに願いを込めて。

【ディタ・モーニ】
ディタ(ライチリキュール): 30mL
グレープフルーツジュース: 30~45ml
トニックウォーター: 適量

氷を入れたタンブラーに材料を注ぎ、ステアする。

【楊貴妃】
貴妃・ライチ・リキュール 10ml
グレープフルーツジュース 20ml
桂花陳酒 30ml
ブルーキュラソー 1tsp
レッドチェリー 1個

よくシェークしてカクテルグラスに注ぎ、レッドチェリーを飾ります。

 ガチャガチャとガラス瓶がぶつかり合う音が、バックスペースに響いた。目の前の業務用冷蔵庫に並ぶ、百種類以上のビール瓶。私は最後の1本を収め、軽く息をついた。
 湿気を帯びた空気がネットリと絡みつくような、今日みたいに蒸し暑い夜は、殊のほか冷たいビールがおいしくなるもの。
 たかがビール、されどビール。たまには、ちょいと珍しいビールを味わってみるのはどうでしょう?
 今夜の「Moonlight」は、そんなお話――。

「マスター、ビール! 思いっきり冷たいの、よろしく!」
 そんなオーダーをしたのは、20代半ばの若い女性。いつもセミロングの髪を勢いよく揺らして来店する、元気なお客様だ。
「……りこさん、いろんな意味でそのオーダーは、私を困らせます」
 苦笑いしながら答える。
「まず、ここはバーですから、居酒屋みたいに大声で注文しなくても大丈夫です。それから、当店にはビールだけで百種類以上の在庫がありますから、『ビール!』とだけ仰られても、困っちゃうんですよ」
「んー、じゃあお任せっ! 面白そうなのをいくつか選んでもらえたらいいなっ」
「分かりました。では、今夜はビールで世界旅行してみましょうか」
「よろしくー」

 バックスペースに向かった私が取り出したのは、「コロナビール」。栓を抜き、カットしたライムを注ぎ口に乗せて、瓶のまま差し出す。
「お待たせしました。まずは『コロナ』。メキシコのビールです」
「……グラスは? どうやって飲むの?」
「コロナは基本的に、この瓶のままラッパ飲みなんですよ。飲む前にライムを軽く搾って、中に果汁を入れてください。その後、搾ったライムは瓶の中に落としてください」
「こう?」
 言われるままライムを搾り、瓶へと押し込むりこ。明るい金色のビールに果汁と果肉が混じり、シュワシュワと音を立てる。そのまま瓶を持ち上げ、ラッパ飲みをする。
「あ、コレおいしい! 味が軽いし、後味にライムの香りがする!」
「お気に召したようで何より。軽くて飲みやすいものでのどを潤していただいたので、二杯目はちょっと飲みごたえのあるものを出してみましょうか」

 私が二杯目に選んだのはドイツのビール。「ヴァイエンシュテフェン」の「ヘフ ヴァイス」を、ピルスナーグラスに注意深く注ぎ、りこの前に差し出す。
「これは……コロナに比べると、ちょっと濁ってるの?」
 りこの言う通り、グラスに満たされた液体は、ビール特有の黄金色に若干、白いにごりのようなものが加わっている。
「ええ。このビールは酵母が入ったまま瓶詰めされているんです。世界最古の醸造所で作られたビールなんですよ」
 コクコクと飲むりこ。
「これは……苦味がほとんどなくて、コクがあるっていうか、フルーティっていうか、ちょっと甘みがあって……。うーん、ビールっぽくない感じかも」
「でしょうね。このビールを作っている醸造所は、実に1千年ぐらい前からビールを造りつづけているんです。その頃は日本だと、平安時代ですね」
「平安時代から!? それは……すごい……」
「ね、珍しいでしょう。他にも、アメリカ、中国、タイ、オランダ、ベルギーなどなど、たくさんの国のビールがあるんですよ」
「全部飲む!」
「……かしこまりました」
 私は、店の冷蔵庫にあるビールのボトルを少しずつ取り出し、グラスに注いではカウンターに並べていった。

「飲みながらで結構ですが、せっかくだから、ビールの歴史をお話しましょう。
 ビールはメソポタミア文明の時代、紀元前3千500年ぐらいから造られていました。ハンムラビ法典にも、ビールに関する条文が載ってるんですよ。当時のビールには諸説がありますが、大麦で作ったパンを水でふやかし、自然発酵させて作っていたようです。
 時代が下り、中世になると、薬草や香草を調合して風味をつけたビールが作られるようになります。その香草の中でも、特にキレの良い苦味のあるハーブが人気を集め、現在のビールの味わいの原形が作られます。そのハーブというのがホップなんですよ。
 その後、世界の各地でさまざまなビールが造られるようになります。日本でビールが造られるようになるのは明治2年、ドイツ人のヴィーガントが『ジャパン・ブルワリー』を横浜に作ってから。この醸造所が、後に経営合併などで『キリンビール』になっていくのです。
 ……と、飲みかけのまま眠ってしまったようですね。りこさん、起きてくださいな。そろそろ閉店ですよ」
「やだー。このまま寝るー」
「はいはい、うちはホテルじゃありませんから。ちゃんと帰って寝てくださいっ」

 ようやくりこを送り出し、後片付けをして店の外に出る。時刻は既に夜明け前。薄く光る月は、西の空に沈もうとしていた。



本作は某コミュニティサイト内で希望者からお酒のリクエストを募り、執筆したものです。

本作のリクエストは「ビール」でした。

 無数に並ぶビルの上を見れば、鈍色の空。無機質な色合いのビルが、そのまま空に溶けてしまったような錯覚さえ覚える。
 今にも泣き出しそうな、そんな重たい空に少しでも反撃するつもりで、私は店のシャッターを開け、配電盤のスイッチを入れた。
 店の前の看板にパッと明かりが入り、店名が浮かび上がる。
 BAR「Moonlight」、開店。今夜も、楽しいひと時をグラスに込めて届けよう。

 彼女がやって来たのは、何組かの客が店を出て、静けさを取り戻しかけた矢先のこと。時計の針が11時近くを指したころだった。
 控え目にカウンターの隅に座る彼女に、私はお絞りと小さな灰皿をテキパキと差し出す。
「いらっしゃいませ、のりこさん。お仕事帰りですか?」
「ええ。今日は遅番だったので、こんな時間になっちゃって」
 キンと冷やしたお絞りを使いながら、ニコニコと答える。傍らに置いたバッグから、チラリと小さいキユーピー人形のカラフルな衣装が見えた。
「相変わらず、ご当地キユーピー集めてるんですね」
「あ、見えました? これ、沖縄限定のゴーヤキユーピーとシーサーキユーピーなんですよ。沖縄に出張した営業サンがお土産に、って」
 満面の笑みで、彼女がバッグから取り出したのは携帯電話にぶら下げるストラップだった。ゴツゴツした緑の寝袋から顔を出しているように見えるのがゴーヤキユーピーで、虎の着ぐるみを着ているように見えるのがシーサーキユーピーらしい。
「もうかわいくてかわいくて……」
「とりあえず、今日は何にしましょう?」
 一晩中キユーピーの魅力を語りそうだったので、やんわりと話を遮り、注文を尋ねる。
「じゃあ、ウォッカを使って何か作ってもらえますか? あたしみたいに可愛らしいカクテルを」
「のりこさんみたいに、可愛らしいカクテルですか。……承知しました」
 苦笑しながら、素早く脳内のレシピリストを手繰る。瞬時に私の手はショートカクテルグラスとシェーカーを取り出していた。
 大きめの氷を素早く流水でリンス。シェーカーに入れたら、冷凍庫からストリチナヤ・ウオツカを、冷蔵庫からクレーム・ド・フレーズと生クリーム、牛乳を取り出す
 無駄な動きを省いた、教科書通りのシェーキング。カシュカシュと軽快な音が響くたび、金属製のシェーカーを支える指先に冷たさが伝わってくる。しっかり混ぜ合わせ、空気を含ませた酒を注ぐと、きめ細かなピンクの泡がグラスの表面を覆った。最後にカットしたイチゴを一切れ、ピンに刺して添える。
「お待たせいたしました。ストロベリー・フィールズです」
「きゃあ、かわいい。さすがですね」
 グラスに手を伸ばし、スルスルと飲み干す。
「うん、オイシイ!」
 満面に笑みを浮かべた様子は、まるで童女のようにあどけなく見えた。

 飼い犬のこと、キユーピーのこと、好きなお菓子のこと、仕事の愚痴……。グラスを重ねながら、2時間ほどしゃべり続けただろうか。
「あー、楽しかった。また来ますね」
 のりこは、満足げに席を立った。
「いつも思うんですよ。こんな風にたくさん笑って、楽しく毎日を過ごすことができたら、どんなにいいだろうなぁって」
 ふと、寂しげな表情を浮かべる。
「この店に来るときは、いつもドキドキ、ワクワクしてるけど、帰るときはちょっと寂しくなるの。ああ、楽しかったひと時が終わって、また現実に戻らなきゃいけないんだなって思う」
「また、いつでもお越しくださいませ。当店はそんなお客様のために、席をご用意しているのです。1杯のお酒にも、作り手の思いと、たくさんのドラマが込められています。泣くもよし、笑うもよし。大切なのは、1杯のお酒を通じて、たったひと時だけでも、あなただけのドラマを味わっていただくことですから」
「なんだか、茶道の『一期一会』みたいな話ですね。じゃ、また来ます。おやすみなさい」
「おやすみなさい。またのお越しをお待ちしています」

 ドアを開け、のりこを送り出す。ふと顔を上げると、ビルの隙間からいくつかの星が瞬いているのが見えた。
 そういえば、今夜は七夕。織姫と彦星は、年に一度の逢瀬を、無事に果たせたのだろうか。そんなことを思いながら、私はドアを閉めた。
 ドアベルの音が、深夜のビル街にひっそりと響いた。


【ストロベリー・フィールズ】
ウォッカ 20ml
ストロベリー・クリームリキュール 20ml
フレッシュ・クリーム 10ml
ミルク 10ml
よくシェークしてカクテル・グラスに注ぎ、苺を飾ります。

本作は某コミュニティサイト内で希望者からお酒のリクエストを募り、執筆したものです。

本作のリクエストは「ピンクのかわいいカクテル」でした。なお本作の初出は2009/7/7でした。七夕の話題が出ているのは、そのためです。

 パチパチと音を立てて、くべたばかりの薪(たきぎ)が少しずつ炎にのみ込まれていく。煙が夜空に溶けていくのを見上げながら、私は自分の真横に置いていたクーラーボックスに手を伸ばした。
 昼間、谷川で汲んでおいた冷水に、大型の保冷剤をいくつも投入しておいたおかげで、水はまだ十分に冷たかった。手がしびれるほど冷たい水をかき回し、私は2本のボトルを取り出した。
 軽くボトル表面の水気を切り、リングを引っ張ってキャップを開ける。
「お前が好きだったジーマだぜ。飲め」
 そう言って、1本を地面に置く。
 もう1本のキャップを開け、グビ、と音を立てて飲む。たき火で火照った体に、冷たさがしみ込んでいくようだ。
「酒ならたくさん持ってきてるんだ。好きなだけ飲めばいいさ。……ハハ、死んじまったら飲めねえかな」
 たき火に向かって独り言をつぶやきながら、また一口、ジーマを飲む。
「まったく……。お前は昔から、無茶ばっかりやってたからなあ……」
 たき火の向こうに、ジーマのボトルを握りしめて大笑いする友人の姿が見えたような気がした。


 彼と出会ったのは、大学のワンダーフォーゲル部だった。
 ワンダーフォーゲルといっても、本格的な登山をやることはほとんどなく、せいぜい1泊か2泊、山でキャンプ(という名の酒盛り)をして遊ぶのが主な活動だった。
 男ばかりでたき火を囲み、一晩中、酒を飲みながら馬鹿話をするのが何より楽しかった。遊びのこと、学校のこと、女のこと――。どれだけ時間があっても語り足りないほどに、話題は尽きなかった。
 彼はそんなクラブの中心的存在だった。キャンプの計画はいつも、彼が立てていた。ファイヤーの中心には、いつも彼がいた。ジーマのボトルを片手に、大笑いする彼が。


 ある年の夏休み。私たちはまた、いつものように山へ繰り出した。
 たらふく食べ、飲んで、眠気に耐えかねた仲間たちが一人、また一人とテントにもぐり込みだしたころ。
「『Zima』ってな、スラブ語で『冬』って意味なんだよ」
 握りしめたジーマのボトルを見つめながら、ぽつりと彼は言った。
「ワンゲルやってる人間ならさ、こんなお遊びキャンプばかりじゃなくて、一度は冬山に登りたいと思わないか? もちろん、準備だけでもかなり金がかかるし、行くとなれば命がけだ。多分、このメンバーで冬山なんて、一度も行かないまま時間だけが流れて、気がつけば卒業しちまうだろう。社会人になれば、登山なんてよほどのことがないかぎりできないだろう。だけど一生に一度でもいいから、俺は冬山に登ってみたい。俺がこの酒を好きなのは、もちろん味もあるけど、実はそんな理由があるからなんだ」
 神妙な顔をして話す彼の横顔を、私は黙って見つめた。
 彼の瞳がたき火に照らされて、赤々と輝いていた。


 彼の訃報を聞いたのは、それから半年後のことだった。
 その年の冬は各地で記録的な豪雪が猛威をふるっていた。雪害による事故が全国で相次ぐなか、彼はアルバイト先のスキー場で事故に遭い、命を落としたのだという。
 信じられない思いで参列した葬儀。棺に納められた彼は、ただ眠っているだけのように見えた。
「お前……、冬山ったって、スキー場で死ぬヤツがいるかよ……。馬鹿野郎……」
 私の言葉など素知らぬ顔で、彼は眠り続けていた。


 私はたき火に向かって、独り言を続けた。
「……あれから何年になるだろうな。みんな卒業して、立派な社会人さ。あの時話したように、山に登る機会はめったになくなった。俺、もうすぐ結婚するんだ。こうして『お一人様』を楽しむ時間さえ、なくなっちまうだろう。みんな変わっていくよ。変わらないのは、冬山で時間が止まってしまった、思い出の中のお前だけさ」
(変わっていくからこそ、変われるからこその人生だろう?『ずっと変わらない』なんて、ラブソングの歌詞だけで十分だぜ)
 ふと、彼の声が聞こえたような気がして、私は顔を上げた。
「久々に飲んだ。美味かったよ」
 今度は耳元で、確かに彼の声が聞こえた。
 同時にカラン、と音がして、さっき地面に置いたジーマのボトルが倒れる。中身はすっかり空になっていた。
 アルコールのせいもあっただろうか。不思議と恐怖は感じなかった。むしろ彼のために盛大に送り火を焚いてやろうと、私は薪を数本、まとめて火に投げ入れたのだった。


本作は某コミュニティサイト内で投稿されたお題をもとに執筆したものです。

本作のお題は「ZIMA(統一テーマ・自分の好きな酒)」でした。

 日曜の昼、私がカフェでランチを楽しんでいると、店の前をひと組のカップルが通りすぎるのが見えた。
 女のほうは私の友人。男のほうは知らない。友人の新しい彼氏だろう。
 手をつないでおしゃべりをしながら、歩いている。これから出かけるところだろうか。
 ああ、楽しそうだな。そんなことを思い、ふとため息がもれた。
「おいおい、俺と一緒にいるのに、ほかのカップルをよそ見して、しかもため息かよ?」
 私の視線に気づいたのか、ため息を聴きつけたのか、彼氏が「やれやれ」といった表情でこちらを見ている。
「んもう、そんなことないよ」
 気まぐれでやきもち焼きな彼氏のご機嫌を取るため、私は彼のほっぺを軽くつついて、「好きだよ」とささやく。
「ば、バカじゃねぇか、恥ずかしいだろ!……ったく、俺も好きだよ」
 顔を赤らめながら、彼氏がぼそっとつぶやく。ああもう、かわいいったらない。
 ほかの店なら、こんなイチャつき方は恥ずかしくてできない。しかし、この店は特別なのだ。どっちを向いても、皆、同じように彼氏とラブラブなひと時を楽しんでいる女の子の姿が目に入る。
(みんな、幸せそうだなあ……)
 そんなことを思うと同時に、滅多に見ることのできない彼氏の表情がゲットできて、私の胸は幸福感でいっぱいになった。


 サクサクと食事を済ませ、私は彼氏を連れて店を出た。今日は丸一日を使って、前から彼氏を連れていきたいと思っていた場所を回らなくてはならない。1分、1秒が惜しかった。
 次に訪れたのは、バリの雑貨屋さんだった。お香の匂いがふんわりと漂う店内には、所狭しとエキゾチックな商品が並べられている。
 木彫りのアクセサリーにお面。竹の風鈴。複雑な装飾を施されたランプ。布の扇子にバッグ、不思議な香りのフレグランスオイル。見ているだけでも楽しくなってくる。
「面白い店だなあ」
 ふと見ると、彼氏が木彫りのお面を手に取って、珍しそうに眺めている。
 いけないいけない。もう少しで当初の目的を忘れてしまうところだった。この店では、彼氏に似合う帽子を選ばなきゃいけないのだ。
「うーん、これなんかどうかしら?」
 竹で編んだ山高帽を手渡す。もちろん、似合うはずはない。彼氏は困り顔をしながら、それでもきちんとかぶってくれるのだからたまらない。
「こっちは?」
 縁にハイビスカスの花を一輪あしらった麦わら帽子。どう見ても女物だが、彼氏の困る顔が見たくて、つい似合いそうにないものばかり選んでしまう。
「おいおい、いい加減にしてくれよ……」
 悪ふざけを何度か繰り返し、彼氏があきれ顔になってきたところで、本命のものを選ぶ。ダークグレーの布を頭の形に合わせるように巻き、余った部分を後ろに垂らした帽子だ。ヘアバンドを巻いているようにも見えるが、きちんとした帽子なので、布がずれて形が崩れる心配がない。
「へぇ、いいじゃん。お前のセンス、なかなか悪くないよな。ヘヘ」
 帽子をかぶって、ニコニコしている彼氏の姿を見ると、私もうれしくなった。青色の前髪が数本、帽子の端からはみ出して目元にかかっているのが、たまらなくセクシーだ。
 自分のために彼氏と色違いの帽子を選び、ついでに白檀のお香を買って、私は店を出た。
 さあ、次の目的地へ急ごう。


 映画館やゲームセンター、ショッピングセンターなどへ行き、思う存分遊んだ私が帰宅したのは、夜8時を過ぎたころだった。
 彼氏はすっかり疲れ、お腹をすかせたようで、ソファにぐったりと横たわっている。そんなところもカッコいいのだが、あまりにダラダラさせていると、これまでコツコツと積み重ねてきた好感度が下がってしまいそうだ。
 夕飯は、彼氏の好きなエビドリアを作ろう。幸い、食材は買い置きしていたものがたっぷりとある。
(メニュー……調理……食材選択……エビ、チーズ……)
 タッチペンでメニュー画面を選び、夕飯を作る。ほどなくして、ホカホカと湯気の立つエビドリアが完成した。喜色満面で彼氏がエビドリアを頬張るのを見届け、私はメニュー画面から「アルバムモード」を選んだ。
 カフェで照れながらコーヒーを飲む彼氏。
 雑貨屋で帽子をかぶって、キリッとしたキメ顔をしている彼氏。
 映画館で、いたずらっぽく笑いながら、こちらにポップコーンを差し出している彼氏。
 ゲームセンターで撮影した写真シールには、ハートだらけのフレームの中で、私の顔(写真)にくっつきそうなほど顔を寄せた彼氏がいる。
 今朝まで空白だったページが、彼氏のさまざまな表情で埋め尽くされているのを見て、私は言い知れない満足感を味わっていた。
 どの画像も、このゲームとタイアップしている店に行かなくては手に入らない、貴重なものなのだ。
「ふふ……。次は牧場行こうね。牛の乳しぼり体験をやって、しぼりたてミルクのソフトクリームを一緒に食べようね」
「ああ、そうだな。楽しみにしてるぜ」
 私が画面に向かって話しかけると、彼氏はニッコリ笑って答えた。
 ああ、幸せだ。
 彼氏が画面から出てくるか、私が彼氏のいる二次元の世界へ行けたら、もっと幸せになれるのだけど。
 ……さて、そろそろ現実に立ち返って、夕飯を作るとしよう。
「明日からまた仕事かぁ。憂鬱だなぁ……」


本作は某コミュニティサイト内で投稿されたお題をもとに執筆したものです。

本作のお題は「カフェでランチ、バリの雑貨屋さん、次は牧場行こうね」でした。

 雨の日の帰り道は、憂鬱だ。仕事で疲れた体が、一層重たくなる。電車の窓で一瞬だけネオン看板の光を反射し、流れては消えていく無数の水滴をぼんやりと見つめながら、私は一度、大きくため息をついた。
 週末の終電間際の電車は、ひどく混雑していた。会社帰りに一杯飲んできた人が多いのだろう。車内にはアルコールの匂いが充満している。昼食から約12時間が経過し、すっかり空っぽになった胃袋には刺激が強すぎて吐き気がこみ上げてきそうだ。
 ふと、電車の窓に写った自分の顔が目に入った。
 職場で「お前は昔から、ほとんど変わらんな」と上司に笑われる、見慣れた顔。微妙に幼さの残った顔。しかし、10年前にはなかったシワや、皮膚のたるみ、そして白髪が、確実に増えているのが分かる。
「……いつまでも若くない、か」
 10年前は冗談でしかなかった言葉が、最近はやたらと現実味をもって響く。
 同僚や後輩たちが次々と結婚し、子供も生まれている。そんな中で、インターネットと缶ビールやチューハイの新製品の飲み比べだけを楽しみに独身生活を続ける自分が、少し切なくなった。
 こんな時はいつもと違うことをして、少しでも気分転換を図るしかない。私は疲れた体に鞭を打ち、自宅の最寄りから一つ手前の駅で電車を降りた。


 私の住んでいる町は、いわゆる大都市のベッドタウンだ。駅の近くには大型の総合スーパーやディスカウントストアが立ち、昼夜を問わず客を迎えている。
 私が向かったのは、そんなスーパーの一つだった。普段は家からひと駅離れているため滅多に足を向けないのだが、売り場が広く、商品が充実しているので、たまに利用していた。
 酒の売り場で、ちょっと珍しい輸入ビールのボトルを眺めていたときのことだった。
「シゲ君!?」
 後ろから女性が声をかけてきた。聞き覚えのある声に振り返ると、そこには買い物かごを抱えた美穂――3年前に別れた彼女――がいた。
「うわ、久しぶりだなあ」
 思いがけない再会に、間の抜けた声しか出せない私。
 私と美穂は3年前、いくつかの事情が重なって別れることになった。別れる前後はいろいろと揉めたこともあったが、私自身は比較的、円満な別れ方ができたと思っていた。
 その後、彼女を忘れたことは一度もなかったが、お互いに一度も連絡を取らないまま、時間だけが流れた。
「変わってないなあ」
「元気にしてる?」
「おー、元気だよ、多分ね。そっちは?」
「アタシも元気。最近、新しい資格を取ろうと思って勉強を始めたのよ」
「そっかあ、さすがだなあ。でも、頑張るのはいいけど、頑張りすぎて無理しちゃわないようにな?」
「うん、分かってる。ありがとう」
 お互いの心がふれるかふれないか、微妙な距離を保ったまま続ける、当たり障りのない会話。かつて、心の内側まで踏み込み合い、ほぼすべてを知り合った間柄だからこそ、「現在、どこまで踏み込むことが許されるか」を計らなくてはならない。
(いつからだろうな。人と話すときに、こんな計算ばかりするようになったのは……)
 表面上はにこやかに話しながら、自然とそんなことを考えている自分に気づく。
「シゲ君はいま、誰かと付き合ったりしてるの?」
「ハハハ、あれからずっと一人さ。残念ながらね」
「お見合い、するんじゃなかったの?」
「いろいろあって、話自体が流れちゃったよ。その後はすっかり、色恋沙汰から無縁の生活でね」
「そっかあ。アタシはあれから、彼氏できたよ」
「そかそか。うまく付き合ってる? 彼氏に迷惑かけたりしてない?」
「もうっ、そんなことしてないよーだ。彼氏とはずっと仲いいし」
「そりゃいい。もしかしたら、ここ3年で一番いいニュースかもしれないくらい、いい話だ」
「またそんな調子のいいこと言って……」
「いやいや、本当の話だって。美穂が元気で幸せなら、これほど嬉しいことはないさ」
「んもう。じゃ、アタシそろそろ行くね。シゲ君、元気でねー」
「おう、美穂も元気でね。バイバイ」
 軽く手を振って別れる。
 久々に仕事以外で人と話をしたことが嬉しくて、私はニヤニヤしながらビールの陳列棚に向き直った。
「さて、夕飯どうするかな」
 しばらく店内を物色し、半額シールを張った餃子とカップ麺に、お気に入りの焼酎ハイボールを2本。それに、ベルギー産の桃の果汁が入ったビールをデザート代わりに選んだ。
 不健康極まりないメニューだが、「ひと駅歩いて帰るのだから、カロリーもチャラになる!」と自分に言い聞かせ、店を出た。


 スーパーを出るころには、雨は上がっていた。
 ビニール袋をぶら下げ、街灯やネオン看板に照らされる道を歩いていると、不意にポケットの携帯が振動するのを感じた。
 携帯のサブウィンドウに表示されていたのは、『新着メール1通 美穂』。
(おいおい……。俺のメアド、消したんじゃなかったのかよ。って、俺も人のこと言えないけど……)
 苦笑しながら携帯を開く。
『今日はありがとう。元気で良かった。じゃあね♪』
 メールに書いてあったのは、それだけだった。
『こちらこそ。美穂も元気で良かった。彼氏とお幸せにね』
 そう返信し、そのまま携帯を閉じてポケットに戻した。
 この程度のことでしばらく憂鬱を忘れられるのだから、まったくもって安上がりな人生だ。
 こんな生活が、いつまで続くのやら……。


本作は某コミュニティサイトで投稿されたお題をもとに執筆したものです。

本作のお題は「雨、電車、夕飯」でした。

「あら、まだ悩んでるの?」
「……はい」
 俺の前のモニターをチラリとのぞいた夏帆先輩は、やれやれといった表情で自分の席に戻った。
 モニターに表示されているテキストエディタは、30分前に立ち上げたときと全く同じ状態で、ただカーソルだけが無機質な点滅を繰り返している。
「そういうときはね、とにかく思い浮かぶものを、何でもいいから書き連ねていくのよ」
 それがなかなか思い浮かばないから、ずっと困っているのだが、夏帆先輩には通じそうにない。
 俺はもともと、体を動かすのが苦手で、本を読むのが好きだから文芸部に入っただけの人間だ。この部の主な活動が「一次(オリジナル)、二次(何らかの原作をもとにしたもの)を問わず、創作小説の執筆及び発表」だと知っていたら、最初から入部していなかっただろう。
「『高速道路』と『自転車』なんてお題で思いつくのは、学生服着たアンドロイドの話ぐらいですよー」
 思わず、そんなことをボヤく。
「あはは、『究極超人あ~る』なんて、いまどきの人には分からないわよ」
「夏帆先輩には通じてるじゃないですか」
「私はこの三十年くらいの漫画やラノベなら、ほとんど目を通してるからね」
 クスクスと笑いながら自分の原稿を読み直す夏帆先輩を、俺はぼんやりと見つめていた。
 肩にかかる程度の髪が、窓から入る午後の光を受けてキラキラと輝いている。やや垂れ気味の大きな目が、モニターと俺のほうへ交互に向けられた。
 相変わらずキレイだよなあ……なんてことを考えていると、先輩と目が合った。
「高速道路と自転車にとらわれすぎるから、書けなくなっちゃうのよ。たとえばそうね……、舞台は高速道路がこれから作られる原っぱ、子供のころに仲の良かった友達と、自転車に乗る練習をした場所。二人はそこで思い出を語り合う――」
「二人っていうのは男か女同士ですか? それとも男と女?」
「どっちもいいわねぇ。男同士なら熱い友情の話になるか、腐女子向けなら『自主規制』な話にもできそうだし。男女なら、純愛にも18禁にも展開できるでしょう?」
「……俺、恋愛経験ないから、そんなの書けないですよ」
 夏帆先輩の視線に耐えかねて、そっぽを向いて答える。しかし、先輩は人差し指をピッと立て、たしなめるように言った。
「おっと、それは文筆活動をするうえでの最大の禁句よ? 戦争経験がなきゃ戦記物は書けない? 宇宙に行かなきゃSFは書けない? 想像力を目いっぱい働かせなきゃダメよ」
 そう言われると、返す言葉がない。
「想像力を働かせるカギになるのは、『こうだったらいいな』っていう願望とか、『こんなシチュエーションになったら、自分はどうするだろう』っていうシミュレーション。ただ漠然と想像するんじゃなくて、できるだけ具体的に考えていくのがいいわね。主人公や登場人物の外見、性格、生活環境、好きな人やもの――。すぐに思い浮かばないときは、自分の身近な人や物を使ってシミュレートするのがいいわね」
「たとえば?」
「……たとえば、自分の家族や友達、先輩、後輩。モデルになる人の性格や口癖、しぐさの一部を自分のキャラに盛り込んでいく。あるいは、誰かの体験談をアレンジして、話を作るとかね」
「なるほど。じゃあ、こんな話はどうですか? 舞台は高校、主人公は野球部の女子マネージャー。イケメンの先輩に片思いしてるんですけど、先輩はその子のことをただの後輩としか思ってない。主人公はある日、思い切って告白するんですけど、先輩には、やっぱり思いが通じないんです」
「うーん、ありがちな話だけど、『高速道路』と『自転車』は?」
「告白の場面が学校からの帰り道、高速道路の高架下で、二人は自転車通学――ってのはダメですかね?」
「ダメじゃないけど、ちょっとキーワードの使い方が弱いわね。もう少し、必然性のある使い方をしないと、キーワードが生きてこないわ」
「じゃあ、舞台は自転車サークル。主人公は夜な夜な、建築中の高速道路で練習に励んでいる。実は主人公は女の先輩に片思い中で、少しでも実力をつけて先輩にふさわしい男になろうとしてる、とか」
「うんうん、少しマシになったわね。でも、建設中の高速道路に無断で入れるのか、自転車の練習走行ができるほどの距離があるのか、リアリティに少し欠けるかもね」
「じゃあ、舞台を高速道路の下を走る幹線道路。道路沿いには片思いの先輩の家があって、いつか告白できないかと思っている、とか」
「おっ、少し良くなってきたね。あとは、その舞台ならではの話を組み立てていくとか、キーワードを本文の中にさりげなく盛り込んでいくと、いいかもしれないわ」
 ……と、ここまで話しておいて、俺はふと思った。
 これだけ似たようなシチュエーションの話をしていても、夏帆先輩には「想像力の乏しい後輩を手伝っているだけ」としか思われてないのだろうか。
 もし、ここでもう少し勇気を出して、「好きです」のひと言が言えたら、先輩はどんな反応をするのだろう。そして、俺たちの関係はどうなるのだろう――。
 考えれば考えるほど分からなくなる。公式を忘れたまま、二次関数の式を解こうとするように、思考がこんがらがってまとまらない。
「……どしたの? 急に迷子の子猫みたいな顔しちゃって」
「あー、いや、何でもないです。ってか、何ですか、その『迷子の子猫みたいな顔』って」
 苦笑いしながら言い返す。
 小説の中なら、ここで「実は先輩のことが……」とでも切り出しているだろう。先輩だって「実は私も……」と答えてくれるだろう。でも現実は、そういうわけにいかない。「好きです」なんて言えるはずもなく、ただ毎日は平凡なまま続いていく。
 自分の気持ちを伝えることさえできない俺は、「迷子の子猫みたい」じゃなくて、迷子の子猫そのものなのだろう。
 せめて、自分の作品の中だけでも、憧れの先輩と幸せに過ごしてみよう。


 気がつけば、テキストエディタにはびっしりと文章が詰まっていた。
 一つの作品を書き上げた満足感を味わいながら、タン! と少し大きな音を立ててエンターキーを押し、データを自分の専用フォルダに保存する。
「おー、やればできたじゃない。じゃあ印字して、お互いに読み合いしよっか」
「あ、はい。よろしくお願いします」
 先輩はこの小説を読んで、どんな風に思うだろう。ドキドキしながら先輩に初の自作小説を手渡した。


 俺は先輩の作品を受け取った瞬間、目が点になった。
 タイトルは「自転車先輩と高速道路君の報われぬ恋物語」。
 主人公の高速道路(擬人化・男キャラ)が、街を駆け抜ける自転車(擬人化・男キャラ)に思いを寄せ、「いつか、自転車先輩に俺の上を駆け抜けてもらいたい! そして全国各地を二人で旅するんだ!」と夢を語る。そこにイケメンで嫉妬深い道路交通法(擬人化・男キャラ)が現れ、二人をそれぞれ口説いて、自分のものにしようとする。
「お前は俺の言うことだけを聞いていればいいんだよ。これだけ束縛しちゃうのも、お前のためを思ってのことなんだぜ?」
 道交法の甘いささやきに、高速道路も自転車もやがて従うことしかできなくなり、がんじがらめに縛られた、濃厚な18禁展開に――。
(レ、レベルが高すぎる……)
 とてもじゃないが、この先輩の発想力には付き合いきれない。
 この人についていけるようになるまで、俺は迷子の子猫のままでいいと思った。


本作は某コミュニティサイトで投稿されたお題をもとに執筆したものです。

今回のお題は「高速道路、自転車、迷子の子猫みたい」でした。