春風ヒロの短編小説劇場 -8ページ目

春風ヒロの短編小説劇場

春風ヒロが執筆した短編小説を掲載しています。

 真っ白な天井をボンヤリと見上げながら、カズヤは何度目かのため息をついた。
 自分の身に起こったことについては、これまで何度も繰り返された検査と、医者からの説明、そして何より、指や舌先など、自分の体に表れている症状を考えれば、十分に把握できた。
 それを受け入れるしかないという現状は、まだ二十歳を過ぎたばかりのカズヤにとって重たすぎるものだった。しかし、今のため息は、自分に向けたものではない。
 これからしばらくの間だけ、気持ちの重さも、痛みも、つらさも忘れなければならない。

 ……そうしないと、彼女が悲しむから。

「ウソつくの、苦手なんだよな……」
 苦笑しながら独りごちる。しかも、これからウソをつかねばならない相手は、物心ついた時からずっと一緒にいた幼なじみなのだ。よほど頑張らないと、すぐに彼女は自分のウソを見破るだろう。
 でも、ウソをつき通さなければならない。
 それが、彼女のため。
 自分が彼女にできる、最後の愛の形。
 彼女の記憶に残る自分は、泣き顔でも、苦悩する顔でもなく、笑顔でなくては。

 ……だから。

 消毒薬の匂いのするベッドに横たわり、ひたすら天井を見上げながら、カズヤは笑顔の練習を続けた。
「カズピー、入院ってどういうことなの!?」
 パタパタと大きな足音を立てて、リョウコがベッドに駆け寄ってきた。
「リョウコ、ここは病院なんだから。他の患者さんの迷惑になるから、もっと静かにしなきゃダメだよ」
 予想以上に元気な声が出せた。そのことに自分でも少し驚きながら、カズヤはニッコリ笑ってたしなめる。
「バカ! でも、そんなことが言えるぐらいなら、まだ大丈夫なの?」
 大鍋いっぱいの不安と心配を三日ほど煮込んで、凝縮させたエキスを音声化したら、きっとこんな声になるんだろうな。リョウコの声に、カズヤはふとそんなことを思う。
「大丈夫に決まってるじゃない。リョウコは昔から、心配性すぎるんだよ」
「だって……だって……っ!」
「あーもう、いきなりメソメソしない。って、お見舞いにきた人が入院患者に慰められてるって、おかしくない? ねえ」
 ゆっくりと右手を上げ、リョウコの手にふれた。
「……もう!」
 リョウコの柔らかな手が、そっと自分の手を包み込んでくる。
「リョウコ、オレは大丈夫だから。すぐに退院して、またたくさんご飯作ってあげるさ。だから、心配しなくていいよ。どうしてもガマンできないって言うのなら、オレのレシピノートあげるさ」
「わ……分かった。でも、その代わり、約束守ってくれなかったら許さないんだからね!」
「分かってる。オレがこれまで、リョウコとの約束を破ったことがあった?」
「うん、そうね。なかったよね。カズピーは真面目だもんね」
「だから、今回も大丈夫。安心して」
 自分の言葉は、本当に彼女を安心させているだろうか。まったく自信はなかったが、少なくともリョウコの顔から不安は消えたように見えた。そのまま、大学のことや、必修科目のレポートのことなど、他愛のない雑談に花を咲かせる。
「あ、いけない。そろそろ帰らないと、バイトの時間に間に合わなくなっちゃう」
 ふとリョウコは腕時計に目を落とし、慌てた様子で立ち上がった。
「長居しちゃってゴメンね、カズピー。また来るね。ゆっくり休んで、早く元気になってね。おやすみなさい」
「ありがとう」
 精いっぱいの笑顔で、リョウコを見送る。そして、別れ際の彼女の笑顔を、しっかり目に焼き付けた。

 ……ゴメンね。最後にウソついちゃって。

 ゆっくり息を吸うと、言葉にできない謝罪をため息に乗せて吐き出した。
 まいったなぁ……。ほんのちょっとおしゃべりしただけで、こんなに疲れるなんて
 指先は、しびれてすっかり硬直していた。口の中も、高熱に浮かされている時のようにパサつき、舌がほとんど動かなくなっている。目の前は紫色に染まり、焦点を定めることさえ難しい。

 よくこの状態で、普通におしゃべりができたなぁ。我ながら感心するよ。でも、もう少ししたら、まともにしゃべることもできなくなるだろうね。
 ゴメンね、リョウコ。
 オレ……もう、リョウコに料理を作ってあげること、できないんだ。
 これまでずっと書き溜めてきたレシピノート、全部あげるから許してね。

 オレに残された時間は、あと、どれぐらいだろう。
 ゴメンね、リョウコ……。


本作は某コミュニティサイト内で投稿されたお題をもとに執筆したものです。

本作のお題は「入院、紫、おやすみなさい」でした。

 いつもの昼下がり。いつもの自分の部屋。いつもの「ここにしか咲かない花」の着信メロディ。
「もしもしー」
「カズピー、今から買い物行こっ!」
 通話ボタンを押したカズヤの耳に響いたのは、いつものリョウコの声だった。
「……はいはい。今日は何を買いたいの?」
「マクラ! 低反発枕!」
「こないだ新しい枕、買ったばっかりじゃなかったっけ?」
「うん。で、あまりに寝心地が良かったから、もう一つ買って、カズピーの部屋に置いとこうと思って」
「俺の部屋に置く必要ないじゃん」
「だってカズピーの部屋、枕一つしかないじゃない!」
「お、俺の部屋に泊まりに来るつもりなの!? いくら何でも、親がいるのに……それはまずいと思うよ?」
「ち、違うわよっ、ナニ考えてるのよバカァッ! 昼寝するときに自分用の枕がほしいのよ!」
「はぁ……わざわざ俺の部屋まで来て昼寝しなけりゃいいじゃない」
「やだ。カズピーの部屋で寝るのがいいんじゃない」
「俺の枕じゃダメなの?」
「……か、カズピーの枕もいいんだけどね! でも、いつも使ってたら……ホラ、アレだから」
「……どれだよ」
「と、とにかくっ! いまから行くから、支度しといてね!」
「……はいはい」
 ノーと言っても押し切られるのは、いつものことだ。軽くため息をつくと、カズヤはコートを手にとった。

 外に出ると、冷たい木枯らしが前髪を跳ね上げた。
「さすがに寒いな」
 コートのポケットに両手を突っ込み、玄関前でリョウコを待つ。
「さっむーい! 急に寒くなったよね!」
 駆け寄ってきたリョウコの頬は、木枯らしにさらされてリンゴのように真っ赤になっていた。
「カズピー、手貸して、手!」
 言うなりリョウコは、カズヤのコートのポケットに手を突っ込んだ。
「うわ冷たっ!」悲鳴を上げるカズヤに、
「はー、カズピーの手、あったかぁい」リョウコは満面の笑みで応える。
「手、手を離してっ」
「やだよー。このまま手つないで買い物行くのっ」
「じゃあちゃんとポケットから手を出すから!」
「ダメー。ポケットから手を出したら寒いじゃない。このままでいーの!」
「あーもう、歩きにくい上にバカップル丸出しじゃんか……」
「いいでしょ、そういうのが好きなんだからっ」
「はいはい……」
 不自然な体勢のまま、リョウコは強引にカズヤを引っ張って歩き出した。
「そういえばさ、この時期になるとテレビで『今年の10大ニュース』特集なんてのをやったりするじゃない」
「……やってるねぇ」
「カズピーの今年の10大ニュースは何?」
「そんな急に聞かれても、10個も答えられるわけないじゃん」
「じゃあ一つだけでもいいよ?」
「恥ずかしいから言わない」
「ダメ。言わなきゃ許さないわよ」
「じゃあ……、『いつも聞いてるラジオ番組で、初めてハガキが読まれたこと』かな
「……ふーん」
「うっわ、なにその冷たいリアクション。せっかく恥ずかしいの我慢して答えたのにー」
「べっつにー」
「リョウコさーん、怒ったの?」
「怒ってなんかないもん」
「そのわりには、口調にトゲがあるんですけど?」
「怒ってないもんっ」
「怒ってるじゃん」
「怒ってな……むぐ」
 文句を言い続けるリョウコの口を、自分の唇でふさぐ。簡単に逃げられないよう、しっかりと抱きしめながら。
「ぷは……ばかぁ」
「『リョウコと付き合いだしたこと』は永久不動の1位だから心配しなくていいよ」
「ば、バカ。……ありがと」
「ほら、さっさと買い物して、温かいコーヒーでも飲もうよ。スタバでホリデーシーズン限定のラテとケーキが出てるはずだよ」
「じゃ、じゃあ、今日はちょっと気分がいいから、リョウコさんがおごってあげます!」
 真っ赤な顔をしたリョウコに、「ああ、やっぱり可愛いな」と思うカズヤなのだった。
 始まったばかりの冬も、吹き止まない木枯らしも、二人の気持ちを冷ますことはできないだろう。

本作は2008年12月、某コミュニティサイト内で投稿されたお題をもとに執筆したものです。

本作のお題は「ニュース、手をつなぐ二人、低反発枕」でした。

 冷たい風が、窓の隙間から入ってくる。
 カズヤは窓をピッタリと閉めなおすと、イヤホンを耳に差し込み、ラジオのスイッチを入れた。
「――こんばんは、『マナの深夜特別区』、パーソナリティの西山真菜です。受験勉強中の人も、まだお仕事だって人も、これからオヤスミする人も、週末の深夜のひと時を、マナと一緒に楽しく過ごしましょうネッ♪」
「時間ピッタリ、だな」
 軽快なBGMに乗って聞こえてくる、ハツラツとした女性の声。カズヤは目を閉じると、椅子に深く座りなおした。若手の女性声優がパーソナリティを務めるラジオ番組は、受験勉強にいそしむ彼にとって、数少ない楽しみだった。
 女性声優は、リスナーからのメールを読み上げながら、最近の出演アニメについての思いを語っている。ほとんどアニメを見ないカズヤにとって、その話題は特段の関心を引くものではなかった。それでも、一生懸命仕事に取り組んでいる彼女を、カズヤはファンの一人として応援していた。
「――では、次は『アナタへの花束』。このコーナーではリスナーの皆さんから送られてきた、大事な人へのメッセージを紹介しています。
 最初のお便りは、○県にお住まいの『春風の旅人』さんからです」
 ドックン! 不意に自分のペンネームが読まれ、心臓が飛び上がった。
「幼なじみのRへ」
 ゆったりとした、ちょっと切ないメロディに乗せて、メッセージが読み上げられる。憧れの声優が自分の文章を読んでくれているという事態に、顔は火照り、体も震えだしていた。

 いつもワガママで、ヤキモチやきで、まるで子供みたいなキミ。初めて出会ったのがいつのことか、ボク自身、はっきり覚えていません。ただ、いつもボクの隣にはキミがいて、ハチャメチャな、だけど楽しくて仕方のない毎日を積み重ねてきましたね
 ボクは思います。
 キミに出会えたことが、どれほど大きな奇跡なのだろう、と。
 この銀河系だけでも、何億という星があって、この地球が誕生してからも、何億年という時間が流れてきました。そう考えると、同じ地球に生まれたのも、同じ時代に生まれたのも、何億分の一、何十億分の一の奇跡なんですね。たとえ同じ地球に、同じ時代に生まれても、この世界には50億の人間がいるんだから、やっぱりキミと出会えたのは、ものすごい奇跡のように思うんです。
 離れていても、この夜空を見上げれば同じ月の光を目にすることができます。二人きりのムードに浸るには、ちょっと大きすぎる屋根かもしれないけど、それでもボクは、キミと同じ空の下にいます。心はいつも、キミの隣にいます。
 誰よりも大事な人へ。人生のクライマックスには、まだまだほど遠いのかもしれないけれど、キミに出会えた奇跡を抱きしめながら、一緒に歩いていけたらうれしいです。
 春風の旅人より。

「――いいですねー。こんな風に自分を大事にしてくれる人と出会えたRちゃんは幸せですね。春風の旅人さん、素敵な幼なじみのRちゃんを、大事にしてあげましょうねー。ワガママな子だからって、ケンカしちゃダメですよ♪」
 ドキドキと早鐘を打つ心臓を落ち着かせようと、カズヤは窓を開け、夜気を部屋いっぱいに取り込んだ。
 窓の外には、明るすぎるほどの月光が降り注いでいる。
 リョウコは、この月を見てるかな。もう寝てるかな。
 そんなことを考えながら、大きく深呼吸をした。
「――では、今夜も最後のリクエストの時間になりました。今夜は大阪府のねぇさんからのリクエスト、H2Oの『想い出がいっぱい』でお別れします。来週もまた、この時間にお耳にかかりましょう♪」
 声優の声がフェードアウトし、代わりに透明感のある歌声がラジオから流れてきた

  古いアルバムの中に 隠れて想い出がいっぱい
  無邪気な笑顔の下の
  日付は はるかなメモリー

  時は無限のつながりで 終わりを思いもしないね
  手に届く宇宙は 限りなく澄んで 君を包んでいた

  大人の階段登る 君はまだシンデレラさ
  幸せは誰かがきっと 運んでくれると信じてるね
  少女だったといつの日か 思うときがくるのさ……



本作は某コミュニティサイト内で投稿されたお題をもとに執筆したものです。

本作のお題は「クライマックス、階段、銀河」でした。

「何もない場所だけれど、ここにしか咲かない花がある~♪」
 ある日曜の朝。心地よい眠りに包まれていたカズヤの携帯から、コブクロのヒット曲の着うたが鳴り響いた。
 サブディスプレイを見なくても、リョウコからの電話だと分かる。この曲を着信音として登録している相手は一人しかいない。布団の中から手を伸ばし、枕もとの携帯を手に取った。
「……ふぁぁぁあ。なに?」
 相手が気心知れた幼なじみの彼女だと分かっているからこそできる、アクビ交じりの声。寝ぼけきったカズヤと対照的に、電話の向こうのリョウコはハイテンションそのものだった。
「カズピー、香川行こ! 香川!」
 あまりのボリュームに、思わず携帯を数センチ、耳から遠ざける。
「……いきなりどうしたの?」
「讃岐うどん食べたい! 食べに行こ! ねー、か・が・わ、行こっ♪」
 ああ、そういうことか。カズヤは昨日の新聞のテレビ欄を思い出しながら、軽くため息をついた。午後9時からFテレビ系列で放送された、香川県を舞台にした映画。タイトルは……
「『UDON』、見たからだね?」
 質問ではなく、確認。そして、返ってきたのは予想通りの答えだった。
「そう! あれ見たアタシは讃岐うどん食べに行かなきゃダメな運命に飲み込まれたの! 生醤油温玉がアタシを呼んでる!」
「……リョウコって、『セブン・イヤーズ・イン・チベット』を見たらダライ・ラマに会うためにチベットまで行きそうだね」
「んー、でもホラ、チベットに行くのはいろいろと大変じゃない! でも香川なら電車で行けるでしょ♪」
「確かに電車で行けるけど……」。皮肉を言ったつもりが、まったく通じていなかったことに、ため息が込み上げた。
「分かった。いまから香川まで行くのは無理だけど、卒業旅行ってことで行こう。ね
「いや!」
 即答。リョウコらしいといえば、リョウコらしい。
「無理」
 思わずムキになり、即答で返す。
「じゃあカズピー、讃岐うどん作って! 食べに行くから!」
 それは、ある程度予想できた答えだった。そしてカズヤは、昨日、テレビ欄に「UDON」の文字を見つけてから、即座に行動を起こしていた自分を褒めたくなった。
「そう言うと思って、うどん粉、買ってあるよ。どうせなら一緒に作らない?」
「ホント!? って、カズピー、用意良すぎるんじゃないの?」
「それぐらい予想できるよ。昨日のテレビ欄を見て、たぶんリョウコがうどんの話をすると思ったんだよ。道具は元から揃ってるし、粉と塩と水さえあれば、うどんは作れるからね」
「じゃあ、これからカズピーの家に行くからね!」
 こちらの返事を聞く前に電話が切れた。カズヤは苦笑しながら携帯を閉じると、グッと伸びをして全身に血を行き渡らせた。
 リョウコのことだから、2、30分もしないうちにやってくるだろう。それまでに材料や道具を用意しておかねばならない。台所へ向かおうとして、ふと着うたに使っている歌の歌詞を思い出した。
「何もない場所だけれど、ここにしか咲かない花がある。心にくくりつけた荷物を静かに降ろせる場所」
 おそらく、自分たちが作るうどんは、本場の讃岐うどんには遠く及ばないものでしかないだろう。しかし「二人で作った」うどんは、ここでしか食べられない。自分にとってリョウコが「ここにしか咲かない花」であるように、リョウコにとって自分も「ここにしか咲かない花」であり続けたい。ふとそんなことを考え、無性に照れくさくなった。
「本場にはかなわなくても、せめて、ちょっといいダシ作っておこうかな。イリコは頭とワタを取り除いて、昆布とカツオと丸大豆醤油と……」
 照れ隠しの独り言をつぶやきながら、カズヤは急いで着替えを手に取った。
 もうすぐリョウコがやってくる。「よく聴けば波の音でした」というには、ちょっと騒々しすぎる笑い声を携えて。 

本作は某コミュニティサイト内で投稿されたお題をもとに執筆したものです。

本作のお題は「うどん、映画、コブクロ」でした。

「ね、カズピーはいつごろから、アタシのこと好きになったの?」
 コタツで湯豆腐をつつきながら、リョウコが唐突に尋ねた。
 先日のドライブ以来、リョウコはすっかりカズヤの家に入り浸るようになっていた。そして今日もまた「受験勉強の邪魔になるから」と渋るカズヤを強引に押し切り、夜食を作らせて部屋に押しかけたのだった。
「何を言い出すんだよ、リョウコ」
「ホラ、やっぱり『彼女』としては聞いておきたいじゃない?」
 ニヤニヤと笑うリョウコに、カズヤはぶっきらぼうに「覚えてない」とそっぽを向いた。
「えー、なんで覚えてないのぉ? カズピーの愛はその程度のモノだったの!? アタシ悲しいっ! シクシク……」
「『シクシク』って自分で言わない。それから、食べ終わったら出口はアッチよ、お客さん」
「ちょっとカズピー、ホントに冷たくない? せっかくの湯豆腐が冷えちゃいそうだわ」
「だから、勉強したいんだってば! リョウコはもう大学生だから気にならないんだろうけど、この時期は追い込みでマジ大変なんだって!」
 いら立ちが抑えきれず、言葉が荒くなる。少しおびえたようなリョウコの表情に、カズヤはため息をついた。
「……ゴメン、言いすぎた。最近、勉強がうまく進まなくてイライラしてるんだ」
「そっか……。ゴメンね、カズピー」
 コタツを出たリョウコは、おもむろにカズヤの隣へ歩み寄ると、彼の頭を自分の胸に抱きかかえた。
「りょ、リョウコ!?」
「ゴメンね。こんなに近くにいるのに、カズピーの大変さ、全然分かってあげられなくて。カノジョ失格だね……」
 カズヤの頭を、抱きしめたままリョウコは話し続けた。
「アタシね。カズピーのこと『好きだ』って思った日のこと、まだハッキリ覚えてるんだよ。ちょうど10年前の今ぐらいの時期に、神社に遊びに行ったことがあったでしょ? 境内で遊んでたら、アタシの頭にイモムシが落ちてきたの」
「……そんなこともあったね」
 リョウコは驚きと恐怖で完全に硬直していた。カズヤは反射的にそのイモムシを手で払い落とし、放心状態になっていたリョウコを「大丈夫! もう大丈夫だから!」と、夢中で抱きしめたのだった。
「あの時のカズピーは、子供とは思えないぐらいオマセだったよね。でも、本当に恐くてパニックになってたから、カズピーに抱きしめられて、『コイツ年下のチビのオコチャマのくせに、結構ヤルじゃない』って思ったのよ」
 そこで一呼吸。ぐっと顔を近づけ、耳打ちする。
「あの時からね。アタシは、カズピーのこと、ずっと好きなんだよ」
 ちゅ。
 カズヤの耳に、軽くキスをする。
 カズヤは体をピクッと震わせると、ゆっくり上げた両腕をリョウコの体に回した。
「……とう」。小声でつぶやく。
「んー? 何て言ったの?」
「ありがとう、リョウコ」。今度は顔を上げ、しっかりとリョウコの目を見て言う。
「アタシはワガママな甘えんぼだから……カズピーの優しさに、つい甘えちゃうのよ。近くにいたら会いたくなるし、会えなければ声が聞きたい。メールだけでもほしい。『アタシはいま、こんなに寂しいの!』って、つい、自分のことばっかり考えちゃう……」
 カズヤに迷惑をかけているのではないか。自分の存在が、負担になっているのではないか。実際、毎日深夜まで受験勉強に取り組んでいるカズヤのところに入り浸り、夜食を作らせるのは、彼にとって迷惑以外の何物でもないだろう。
「……迷惑なんかじゃないよ」
 カズヤは、リョウコの心を読み取ったように言うと、彼女に回した両腕に力を込めた。
「リョウコに会えたら、オレも嬉しいからね。でも、こっちの都合もちょっと考えてくれたら嬉しいな」
「ん。ありがとう♪」
 リョウコは密着していた体を離し、不意にニヤニヤと笑い出した。
「……で、どうだった?」
「?? どう、って何が?」
「ほらぁ~。リョウコさんの胸が顔いっぱいに当たって気持ちよくて幸せでムラムラしちゃったんじゃないの? ん~? 今夜はいまの感触を思い出してイケナイことしちゃったりして~? んっふふふふ~」
 カズヤは「やれやれ……」と、ため息混じりにつぶやいた。
「リョウコさんが子供っぽいのは、中身だけじゃなかったんですね。もう少しボリュームがあると嬉しかったんですけど」
「ばっ……!」
 リョウコ、絶句する。
「ばかぁぁぁぁぁぁっ!」
 平手一閃。
 カズヤのメガネが吹っ飛び、頬に見事な紅葉マークが残った。
「貧乳はステータスだ! 希少価値だ! うわぁぁぁぁん」
 捨て台詞を残し、部屋を飛び出すリョウコ。その後ろ姿に、カズヤはツッコまずにいられなかった。
「……なんでそんなエロゲのセリフ知ってるんだよ!」
 カズヤはこの時の発言が元で、リョウコからさんざん嫌味を言われ、料理を作らされることになるのだが、それは、また後の話である……。


本作は某コミュニティサイト内で投稿されたお題をもとに執筆したものです。

本作のお題は「湯豆腐、神社、紅葉」でした。

 2月というのに、ひどく暖かい夜だった。
 つい数日前、大雪が降ったことが信じられないほどの暖かさに、私は店内の暖房を止めたものかどうか、悩んでいた。暖房をつけたままにしていたのは、「そのほうが冷たいカクテルが売れるから」という、純粋な打算によるところが大きかった。
 そんなわけで、彼女が来店したとき、私はバーテンダーベストの内側をしっとりと汗で濡らす羽目になっていた。
 彼女というのは、私の目の前のカウンターで、座ったままうつむいている女性のことだ。つい先ほどまで賑やかな男性客数人のオーダーに追われていたため、彼女は来店してからしばらく、待ちぼうけを食わされていた。
 しかし結果としては、それが彼女にとって良かったのかもしれない。なぜなら彼女は、着席してもずっとうつむいたままで、私が差し出したおしぼりさえ、使わずにいたのだから。彼女の下のカウンターが涙に濡れていることは、想像に難くなかった。

「すみません、お待たせしました。何にいたしましょう?」
 涙が流れ尽くしたと思われるタイミングを見計らって、私はそっと声をかけた。
 彼女が顔を上げた。丸顔に施された品のいい化粧は、やはり涙でひどく乱れていた
「……ごめんなさい。注文よりも先に、お手洗いをお借りします」
「ええ、どうぞ。ごゆっくり」
 化粧を直し、カウンターに戻ってきた彼女は、すっかり元気とまではいかないものの、いくらか生気を取り戻していた。
 あらためて注文を聞く。
「ミントの、さわやかなお酒をお願いします」
「かしこまりました」

 冷凍庫で凍らせておいたコリンズ・グラスを取り出し、店の隅の植木鉢でこっそりと栽培しているミントの葉を数枚、ちぎってグラスに入れる。砂糖を加えたら、ソーダ水を注ぎながらミントの葉をつぶすようにかき混ぜる。
 砕いた氷をたっぷりとグラスに詰め、「オールド・フォレスター」を注いでステア。ミントの葉とレッド・チェリーを飾り、雪に見立てたパウダーシュガーを振りかける。「ミント・ジュレップ」の完成だ。

「お待たせいたしました」
 差し出したグラスから、ふわりとミントの香りが上る。いくら暖かい夜とはいえ、2月には少し、涼しすぎるカクテルかもしれない。これなら、強すぎるほどの暖房も彼女にはちょうどいいだろう。
「ありがとう、いただきます」
 ストローでゆっくりとカクテルを飲むぽるかに、私は静かに語りかけた。
「このカクテルはミント・ジュレップといいます。ベースに使ったのは、『オールド・フォレスター』というバーボンです――」

「オールド・フォレスター」は19世紀のアメリカで生まれた。
 当時のアメリカでは、ウィスキーは樽詰めのまま売買されていたため、混ぜものなどで水増しをすることも容易だった。
 ブラウン・フォアマン社の創業者、ジョージ・G・ブラウンは粗悪なウィスキーが横行する中、初めて瓶詰めし、密栓で封じたウィスキーを発売した。これが「オールド・フォレスター」の始まりである。

「このラベルを見ていただけますか? 英語でメッセージが書いてあるでしょう。『There is nothing better in the market』……市場にこれに勝るものなし。G・ブラウンは絶大なる自信をもって、この酒を送りだしました。そして販売開始から200年以上過ぎた今なお、この約束を守り続けているんです――」

 ――あなたに何があったかは分かりません。しかし、混じりけのない気持ちを守り続ければ、きっとnothing betterな出会いもある。そんな純粋な気持ちを踏みにじるような男は、その程度の価値しかなかったということですよ。

 ……少々、説教臭かっただろうか。若干の気恥ずかしさを覚えながら、私はさらに言葉を重ねた。

「『ジュレップ』とはもともと、苦い薬を飲んだ後の口直しの飲み物という意味でした。どんな苦い気持ちも、ジュレップで飲み干してしまえば、後に残るのはさわやかな香りと、甘みだけです」
「……そうですね」
「よろしければ、お代わりはいかがですか? サービスしますよ」
「じゃあ、お願いします」
 にっこりと笑った彼女の顔に、もう涙の跡は残っていなかった。

 女性を送り出し、静けさが戻ってきた店内に、どこからともなく夜風が吹き込んだ。
 湿気と、芽吹き始めたばかりの新緑の匂い。
 命の輝く季節――春が、近付きつつある。

【ミント・ジュレップ】
バーボン・ウイスキー 60ml
水、もしくはソーダ水 20ml
ミントリーフ 3、4枚
砂糖 2tsp
マラスキーノ・チェリー 1個

ミントリーフと砂糖をタンブラーに入れ、20mlの水を加えてミントリーフを潰してから砂糖を溶かす。次に、クラッシュド・アイスを詰め、バーボン・ウイスキーを注ぎ、霧がグラスの表面につくまで充分にステアします。ミントリーフとマラスキーノ・チェリーを添え、仕上げにパウダーシュガーを振りかける。


本作は2010年2月、某コミュニティサイト内で発表したものです。

 クリスマス・イルミネーションが街を彩る季節がやってきた。
 普段は季節感と無縁の店だが、この季節だけは、カウンターの隅に小さなクリスマスツリーを飾っている。数年前、客の一人から「あまりにも店に色気がない」と、半ば押しつけるように手渡されたものだ。
 コードをつなぎ、スイッチを入れると、ツリーに巻きつけられたLEDがチカチカと点滅する。これにボサノヴァ・アレンジを施したクリスマスソングのLP盤と、上品なシャンパーニュがあれば、男一人のこの店には十分すぎる演出だろう。
 ふと思い出し、時計を見上げた。水曜日の午後10時。そろそろ彼女の来る時間だった。
「こんばんは、ヒロさん」
「やあ、いちごさん、いらっしゃい」
 響くドアベル。明るい髪の女性が、いつもの奥のカウンター席に座った。

「今日は何にする?」
 毎週、お決まりのやり取り。返ってくる言葉を予想し、ディタ・モーニのレシピを手元に引き寄せようとする。しかし今夜のいちごは、
「モエのロゼを。女の一人飲みだから、ボトルはハーフでいいですよ」と、いたずらっぽく笑って言った。
「特別な夜には、特別なお酒を。いつだったか、ヒロさんが言ってたでしょ」
「さて、そんなこと言ったかなぁ……? 覚えておりませんなぁ」
 小悪魔っぽい笑いを浮かべたまま話すいちごに、白々しいウソをつきながら、私はワインクーラーへ向かった。
 整理の行き届いたクーラーから、1本のボトルを取り出し、グラスを添える。
「お待たせいたしました。『モエ・エ・シャンドン ロゼ・アンペリアル』。ハーフボトルです」。
 銘酒「ドン・ペリニヨン」で知られるモエ・エ・シャンドン社が、自らの社名を冠して送り出したシャンパーニュ。シンプルだが、特別な夜を演出するには十分な飲み物だ。
 ポン、と軽快な音を立ててコルク栓を抜き、明るいピンクの液体をグラスに注ぐ。
「お誕生日おめでとう。いちごさん」

 明るいピンクのグラスを前に、私は、追憶のページをたどる。
 その夜も、客は彼女一人きりだった。
「ヒロさんてば、相変わらずヒマそうですねー」
 いちごが憎まれ口を叩きながら、大きな紙袋を床に置き、コートを脱いで壁のフックにぶら下げる。コートの肩が細かな水滴でキラキラ光っているところを見ると、外は雪が降っているのだろう。
「ヒマだからこそ、いちの相手をゆっくりできるんじゃない」
 私は茶化すように答える。
「こんないいお店が全然流行らないのは、きっと色気が足りないせいですよ。バーテンダーは男一人きりだし、飾り気だってないし。もう少し華やかさとか、季節感を取り入れましょーよ」
「……前向きに検討しときましょ」
「あ、やる気のない顔してる。ダメですよー、そんなどこかの政治家みたいな言い方
「……」
『前向きに検討』など、全くするつもりがないことを見透かされ、私は返す言葉を失う。
「まったくー。そんなことだろうと思って、ホラ、ヒロさんにプレゼントですよ。開けてください」
 大きな紙袋から取り出したのは、丁寧に包装された箱。促されるままに開封する。出てきたのは、30センチほどのクリスマス・ツリーだった。
「コンセントをつなぐと、このイルミネーションがキラキラ光るんですよ。これぐらいの大きさなら、カウンターの隅に置いても邪魔にならないでしょう?」
「……やれやれ、準備のよろしいことで」
「ちゃんと飾ってくれないとダメですよ。毎週、確かめに来ますからね」
 私は、苦笑するしかなかった。

「でね、今夜はもう一つ、ワガママを聞いてもらいたいんですよ」
 彼女が紙袋から取り出したのは、ケーキの箱。
「もうすぐ誕生日なんですけど、マスターに一緒にお祝いしてもらおうと思って。持ち込みがルール違反なのは知ってるけど、『特別な夜』ってことで、大目に見てもらえません?」
 箱には、彼女の名にふさわしく、つややかなイチゴをいくつも乗せたケーキが二人分入っている。普段なら一蹴するところだが、彼女から向けられる期待のこもった視線を、無下にすることはできなかった。
「『特別な夜』……ね」
 たまには、気まぐれを起こすのもいいだろう。私は肩をすくめると、ワインクーラーへ向かった。
「特別な夜には、特別な酒が必要でしょう。これは私からのプレゼントです」
 私が差し出したのは、「モエ・エ・シャンドン ロゼ・アンペリアル」。いちごを思わせる、華やかなピンクのシャンパーニュだった。
「特別な夜に、乾杯」


本作は2009年12月に、某コミュニティサイト内でクリスマス特集として執筆したものです。

 トボトボと小雨の降る、静かな夜だった。
 客は一人もいない。
 私はレコードプレーヤーのボリュームを邪魔にならない程度に絞り、キッチンの隅のスツールに腰を下ろした。
 こんな夜は、アガサ・クリスティのミステリでも読もう。そう思い、調理カウンターの隅にこっそり隠し置いていた文庫本を取り出す。
「私の灰色の脳細胞が活動を始めた――」
 エルキュール・ポアロの気分にどっぷりと浸っていたところで、ドアにかかったベルが鳴り、現実へと引き戻される。
「いらっしゃいませ、のりこさん。今夜は少し遅かったんですね」
「ええ。ちょっとね。ヒロさん、マルガリータを」
「かしこまりました」

 レシピが完成して半世紀以上の歴史を持つカクテル、マルガリータ。
 テキーラとホワイト・キュラソー、ライムジュースをシェイク。縁を塩で飾った「スノー・スタイル」のグラスに注ぐ。
 このカクテルは、ロサンゼルスのバーテンダーが、狩猟中の事故で死亡した恋人をしのんで作ったのだとも、メキシコのバーテンダーがどんな酒も塩を舐めながら飲む恋人のために作ったのだとも言われる。
 どちらの話にも共通するのが、恋人の名前が「マルガリータ」だったということ。
「スノー・スタイル」は、恋人を想うバーテンダーの涙なのだとも言われている。

「……何か、あったんですか?」
 そう尋ねずにいられなかったのは、彼女の表情があまりにも何かを思い詰めたものだったからだろう。
 あまりおしゃべりすぎるバーマンは褒められたものではない。しかし、今夜ののりこのように、誰かと話していないと、重みで胸を押し潰されそうになっている場合は別だった。
 ポアロではないが、灰色の脳細胞を活動させれば、多少なりとも客の心情を察することはできるのだ。
 のりこは黙ったまま、しばらくグラスを見つめていた。やがてポツリ、ポツリと話しだした。
「……あのね。私、すごく仲のいい『友達』がいるの。子供みたいなところもあるんだけど、すごくしっかりしてて、いつも私の側にいて、元気をくれる。落ち込んだときには励ましてくれたり、叱ってくれたりする。多分、私にとって、一番大事な『友達』なの」
「『彼氏』じゃなくて?」
「友達」を強調するのりこに尋ねる。
「そう、『友達』。もしかしたら、彼も私のことを好きでいてくれるのかもしれない。でも、私は彼のこと、好きになっちゃいけない気がするの」
「どうして?」
「彼はいま、自分の夢をかなえるために仕事をしてるの。そして、もうすぐその夢に手が届く。そしたら、彼は遠くに行ってしまうの」
「のりこさんの中に、彼についていって、その夢を一緒にかなえるという選択肢はないの?」
「それも考えたよ。でも、これまで歩いてきた道が違いすぎて、彼の世界に、私は入っていけない。私は、彼についていけないの」
「……」
「ずっとずっと、『今』が続けばいい。それじゃダメなのは分かってるけど、私がケーキを作って、彼が『美味しい』って言ってくれて、一緒に笑っていられる『今』が、ずっと続いてほしい」
 のりこが顔を伏せる。ポタリ、ポタリとカウンターに涙のしずくが落ちた。
「彼の前では、泣けないの。彼の心残りになりたくないから。彼には、泣いてる私じゃなくて、笑顔の私を覚えていてほしいの。だから……」
 後は、言葉にならなかった。

 しばらく時が過ぎ、のりこの様子が落ち着いたところで、私は声をかけた。
「人生には、後悔がつきものです。『やればよかった』という後悔もあれば、『やらなきゃよかった』という後悔もある」
 そう言って、私はグラスを差し出した。
「どうぞ、『エンジェル・キッス』。今夜だけのサービスです」
 リキュールグラスにカカオリキュールを注ぎ、その上に生クリームを浮かせたカクテル。グラスにはカクテル・ピンに刺したマラスキーノ・チェリーを飾っている。
「一番大事なのは、自分の気持ちに正直になることですよ。これでも飲んで、よく考えてみてくださいな」
「ヒロさん……ありがとう」

 その後、のりこと彼女の「友達」がどうなったか、私は知らない。
 のりこは時折、店にやってきて、「可愛らしいカクテル」をオーダーする。あの小雨の降る夜のことは、まったく話題にしない。
 あの日、私が差し出したカクテルは、日本では「エンジェル・キッス」として知られる。しかし、海外では、「エンジェル・ティップ」と呼ばれている。
 グラスに飾ったチェリーは、天使の矢に射抜かれたハート。
 若者たちの恋愛の成就を図るポアロのように、切ない恋の成就を願う天使からの心づけ(ティップ)は届いただろうか――。

【エンジェル・キッス】(エンジェル・ティップ)
クレーム・ド・カカオ 30ml
生クリーム 15ml
カカオをリキュール・グラスに入れ、生クリームをその上にフロート。マラスキーノ・チェリーをカクテル・ピンに串刺しにして、グラスの上に飾る。

 BARというのは、不思議な空間だ。
 酒を飲む、ただそれだけが目的の場所。しかし、そこに人は何らかの「特別」を求める。
 それが少し特別な夜なら、なおさらのこと――。


「マスター、今夜はカクテルが飲みたいな」
 いつも、騒々しいぐらい元気に店を訪れるりこから、思いがけないオーダーを受けたのは、すっかり風が冷たくなった夜のことだった。
「おや、珍しい。今日はビールじゃないんですね」
「いいじゃない。たまには、違うものが飲みたくなるの」
「うちには、まだりこさんが飲んでいない酒が、ビールだけでも何十種類もありますよ?」
「今夜はカクテルな気分なの! 何かこう……秋の夜に似合う、ロマンチックな気分になれるカクテルがいいな」
「どんな味がいいとか、リクエストはありますか?」
「マスターの得意なもので」
「……かしこまりました」
 私は苦笑しながらシェーカーを取り出した。


 ドライ・ジン「ボンベイ・サファイア」、ヴァイオレット・リキュール「パルフェタムール」、レモンジュース。サクサクとシェーカーで混ぜ合わせ、カクテルグラスに注ぐ。
「お待たせいたしました。『ブルー・ムーン』です」
 グラスに注いだ酒は、薄紫色の輝きを放ちながら、表面をユラユラと波打たせている。何百とあるスタンダード・カクテルの中でも、特に色合いの美しさで定評のあるこのカクテルは、「ムーンライト」と並び、私の得意とするレシピの一つだった。
 何しろ、バーテンダーの修業をしていた店の名前が「BlueMoon」。店の看板カクテルとして、徹底的に練習させられたカクテルなのだから。
「きれい。……で、このカクテルは、どうロマンチックなのかな」
「月の満ち欠けは、だいたい29日半で満月から新月、そして再び満月へ、という周期を繰り返しています。月を基準にした太陰暦を使っていた時代は、『十五夜』って言葉にもあるみたいに、満月は月の中ごろに一度だけ見られるものだったんです」
「ふむふむ」
「ところが、太陽暦を使うようになると、月の満ち欠けと1カ月の周期にズレが生じます。滅多にあることじゃないんですが、月初めに満月の日があると、月末にも再び満月の日がやってくる。この二度目の満月を、『ブルー・ムーン』と呼んで、幸運の象徴とするようになったんです」
「へー。それはなかなか、ロマンチックな話よね」
「ちなみに、滅多に見られない現象ですが、火山の噴火や隕石の落下など、大気中のガスやチリの影響で、本当に月が青く見えることもあるんですよ。だから、英語では『滅多にない』ということを"once in a blue moon"って言うんです」
「へええ。これは勉強になった」
「それから、これを見てください」
 私が差し出したのは、その名の通り、サファイアのように薄い水色をした「ボンベイ・サファイア」のボトル。
「私が『ブルー・ムーン』を作るとき、ベースには必ずこのジンを使うんです。華やかな香りと、このボトルの色が、幸運の象徴たる『ブルー・ムーン』にはピッタリなんじゃないかと思うんですよ。ちょうど、今月の誕生石でもありますしね」


「ちょっとほろ苦くて、でも不思議な香りね」
「ジンの苦味と、レモンの酸味。そこにスミレの香りが加わって、色っぽい雰囲気をかもし出してるでしょう」
「んー、なんだか、これを飲んでたら、ちょっとオトナの恋をしたくなりそう」
「あっはっは、いいんじゃないですか?」
「マスター、せっかくだから今度、一緒にイタリア行きません? マスターが新聞記者で、私はどこかの国のお姫様。最後は別れちゃうけど――」
「原付に二人乗りして、ジェラート食べたり、『真実の口』に手を突っ込んで『うわー!』って言ったりするんですか」
「そうそう。素敵なお話だわぁ」
「ま、確かに私の分身は新聞記者やってますけどね」
「……ほぇ?」
「あはは、こっちの話です。……でもね」
 私は苦笑しながら、話を続ける。
「花や宝石に花言葉や、石言葉があるように、カクテルにも特別な意味を持つものがあるんです。そんなに種類は多くないんですけどね」
「ほうほう。で、『ブルー・ムーン』の意味は?」
「『once in a blue moon――滅多にないこと』から転じて、『できない相談』とか『かなわぬ恋』って意味なんですよ」
「えー、それだとアタシ振られることになるじゃない」
「さっきの話だと、最後は私が振られるんですけど?」
「それはいいの。こんなイイ女に振られるなんて、マスターも幸せでしょ?」
「……やれやれ。そういうことにしておきましょう」
「どういうことよっ!」


 楽しい夜は、驚くほど早く過ぎるもの。
 りこを送り、店の外へと出る。前回、彼女が来店したときのように、時刻は既に夜明け前だった。
 西の空へと視線を送る。
 ビルの谷間から、今にも沈みそうな満月が見えた。
「ブルー・ムーン」の夜が、終わろうとしている。



【ブルー・ムーン】
ドライ・ジン 30ml
バイオレット 15ml
レモンジュース 15ml


シェークしてカクテル・グラスに注ぎます。

 波音が、ひときわ大きく聞こえる。
「あの場所」からの帰り道は、いつもそうだった。
 冷たさを増し始めた夜風が頬に吹きつけるだけで、見上げた空に星はない。
 こんな夜は、仕事を忘れて飲むに限る。
 私の足は、「Marine Blue」へ向かっていた。

「いらっしゃーい」
 まりんは相変わらず、カウンターの奥で酒のボトルに埋もれながら小柄な体を動かしていた。
「いつものでいいのかな?」
「……いえ、今夜はアレを」
「ああ、アレね。……5年目だっけ?」
「もう6年になりますね。一日、また一日と時間を積み重ねて、気がついたら6年もの時が流れてしまった。そんな感じです」
「ってことは、まだ『過去』にはできずにいるのかな」
「彼女のことを『過去』にできる日は来ませんよ、きっとね」
「そんなに想われて、彼女は幸せなのかな……?」
「さあ、どうでしょうね。私が一方的に覚えているだけのことですから。もしかしたら、『アタシのことなんて、いい加減に忘れてしまえ』って思ってるかもしれませんね」
「じゃあ――」
「それでも、忘れられない恋があるんですよ」
 その言葉で、まりんは諦めたように小さなため息をつき、シェーカーを取り出した
「女の恋は『上書き保存』。男の恋は『名前をつけて保存』。どれだけ新しい恋を見つけても、男は昔、恋をした相手を記憶から消し去ることはできないんです。ましてや、自分のせいで彼女が命を――」
「ストップ。彼女が亡くなったのは、誰のせいでもないでしょう? もう6年も前の話を蒸し返すのは、良くないわよ」
 薄く濁った琥珀色のカクテルを差し出し、再びため息。
 旧友にこれ以上の心労をかけるのは忍びなく、私は口をつぐんでカクテルグラスを持ち上げた。

 強いラム酒に、ほんの少しレモンとブランデーを混ぜたカクテル。
 一口飲むたび、彼女の声がフラッシュバックする。
 つい昨日、別れたばかりのように――。

「もう少しすれば一緒に住んで、『たまには一人になりたい』って思うようになるんだから」
「新居が決まれば、一緒に引っ越し作業やらないとね」
「住み慣れたこの町も、ヒロ君と結婚して離れてしまったら、そのうち『懐かしい』って思うようになるんだろうなぁ」
「じゃ、また今度の週末ね。世間は連休だけど、ヒロ君はお仕事、頑張ってね」
「あんまりお酒ばっかり飲んでちゃダメだよ。もう、自分だけの生活じゃないんだから――」
 別れ際のキス。
 それが最期のキスになった。

「――事故?」
 交差点で、彼女の乗っていた軽自動車が居眠り運転の大型トラックに追突された。
 その言葉は、どこか異国の言語のように聞こえた。
 電話の向こうで話しているのは、彼女のお父さん。あと2カ月で、「義父」になるはずの人だった。
 仕事を放り出して、彼女の住む町へ駆けつけた。
 つい数日前、笑顔で別れた彼女が、無表情に横たわっている。今にも目を開けて、「おはよう」と微笑んでくれそうな、安らかな顔。しかし、二度と目覚めることのない、冷たい眠り。
 あの時の私は、泣き崩れる義父母の横で、呆然とすることしかできなかった。滂沱の涙を流しながら――。

 あの日、私がたったひと言、「もう少しこっちでゆっくりしていけよ」と言っていれば、彼女はいまも自分の隣にいたのではないか。
 二人で新居を構え、新しい生活を始めていたのではないか。
 後悔と自責に押し潰されそうな日々。彼女のことを忘れようと仕事に没頭した。
 しかし、年に一度だけは店を閉め、盛装して出かけることにしていた。彼女が好きだったバラと、カスミソウの花束を持って。

「忘れるなんて、できるはずがないな。ましてや、新しい恋なんて……」

 空になったグラスに、ほんの数滴、カクテルが残っていた。
 私にはそれが、涙のように見えた。
 私の涙なのか。
 それとも彼女の涙なのか――。
 何度飲んでも変わらない。最後のキスは、ひどく辛口だ。

【ラスト・キッス】
ラム 45ml
ブランデー 1/2tsp
レモンジュース 1/2tsp


シェークしてカクテル・グラスに注ぎます。