秋が近づいてきた。
特に私がそのことを実感するのは、スーパーの青果売り場にナシやリンゴ、栗など
「ああ、秋だなあ……」
しみじみと季節の移り変わりを噛みしめていると、つややかな紫色のぶどうが目に
「ぶどう……、あの人が好きだったな……」
線が細く、いつもどこか遠くを見つめているような、彼の姿がふと脳裏に浮かぶ。
もう、あのときの彼はいないというのに。
思いだしてしまうのは、やっぱり昔の彼に未練があるからなのだろうか。
そんなことを思いながら、私は一房のぶどうを手に取った。
彼と出会ったのは、学生時代のことだった。
当時の私は、スポーツをやっていたわけでも、特別な鍛え方をしていたわけでもな
彼は体が弱く、よく入院していた。ゼミの課題やレポートの資料を届けるため、私
「オレは昔から、体が弱かったからね。本ばかり読んでたんだ。太宰治や坂口安吾、
読みかけの本をひざに置き、窓の外をぼんやりと眺めながら、ポツリと言う。その
彼のために私ができるのは、できるだけ足しげく病院へ通い、彼を見舞うこと。そ
彼の好物。それが、ぶどうだった。
巨峰でもデラウェアでもマスカットでも、ぶどうであれば何でも良かった。ひざの
そのころ、私が読んだ本の中に、オー・ヘンリーの『最後の一葉』があった。
「ナポリ湾を描きたい」という夢を持つ若い画家、ジョンジーことジョアンナが、肺
ジョンジーを診察した医者は、彼女の友人のスーにこう話す。
「助かる見込みは ―― そう、十に一つですな」
「で、その見込みはあの子が『生きたい』と思うかどうかにかかっている」
その後、病室を訪ねたスーは、窓の外を一心に見つめるジョンジーの姿を目にする
「もう残っているのは五枚だけね」
「何が五枚なの? スーちゃんに教えてちょうだい」
「葉っぱよ。つたの葉っぱ。 最後の一枚が散るとき、わたしも一緒に行くのよ」
有名すぎるこの場面が、病室で本を読みふける彼の姿に重なった。
「ねぇ、退院したらやってみたいこと、ない?」
ある日、私は彼に尋ねた。
唐突な質問だったが、彼は私の意図をくみ取ったのか、ニヤリと笑ってしばらく考
「そうだな……、ぶどう狩りに行ってみたいな。摘みたてのぶどうを、腹いっぱい食
「もう! またそんなこと言うんだから! でも、約束ね。退院したら必ず、一緒に
「ああ……分かったよ」
彼はいかにも面倒くさそうに答えていたが、その目がキラリと輝くのを、私は見逃
あれから20年の歳月がすぎ、現在。
スーパーから帰り、夕飯の支度をしていると、携帯電話が鳴った。
「もうすぐ帰るよ! 土産あるよ!」
電話の向こうから、テンションの高い夫の声が響く。
その声の大きさに私は軽く辟易し、携帯を耳から少し遠ざける。そのとき、食卓に
死ぬことばかり考えていた、あの人はもういない。
陰鬱な男が好きなわけではなかったが、当時の彼のはかなげな雰囲気や、どこか陰
「ただいま!」
でっぷり太った、やたらとテンションの高い夫が足音も高くリビングに入ってきた
「ぶどう狩りツアーのパンフレット! 旅行代理店回って集めてきた! ぶどう食べ
ええい、騒々しい。アンタのお腹はとっくの昔にワイン樽だ!……と言ってやりた
「おっ、母さん、ぶどう買ってきてくれたんだ! さすが、気が利くね! 素敵だね
と私をおだてながら、無邪気に喜んでいる姿を見ると何も言えなくなった。
もう、あのときの彼はいない。
だが、ずっと陰気なまま、そのうち愛人でもつくって玉川上水に飛び込むんじゃな
食べすぎにだけは、注意しなきゃいけないけど。
本作は某コミュニティサイト内で投稿されたお題をもとに執筆したものです。
本作のお題は「学生時代、約束、ぶどう狩り」でした。