春風ヒロの短編小説劇場 -5ページ目

春風ヒロの短編小説劇場

春風ヒロが執筆した短編小説を掲載しています。

「マスターのお気に入りのお店って、あるんですか?」
 私が彼女からそんな質問を受けたのは、ゆったりとした空気の流れる、ある平日の深夜のことだった。彼女のほかに客はなく、BGMとして掛け続けているLP盤のスロージャズだけが店内の空気を彩っていた。
「お店っていうのは、飲み屋のことですか?」
 私は清潔なクロスでグラスを磨きながら問い返す。カウンターの向こうでは、小柄な女性が黒髪を揺らしながらうなずいていた。
「そうそう、もちろん。……あ、よそのお店に浮気するみたいな話って、NGだったかしら?」
 彼女はそう言って、いたずらっぽく笑う。
「いやあ、そんなことないですよ。むしろ、イベントで応援に行ったり、ヘルプに来てもらったりすることもあるし、店同士でお客さんを紹介したりすることもありますからね。ジャンジャン聞いてもらって構いませんよ。でも……、実は美和さんのほうが、詳しいんじゃないですか? それこそ、ライブやったりしておられるでしょう?」
「あはは、BGM代わりにピアノを弾いてるだけで、ライブだなんて、そんな大層なものじゃないですよ」
 そう笑いながら手を振る。暖色系の照明を浴びながら、いかにもピアニストらしい細く長い指がヒラヒラと動く様子は、珊瑚礁の海を優雅に泳ぐ熱帯魚を連想させた。
「生(ライブ)演奏じゃないですか。この前のイベントでは、『H3』が満席になったって聞きましたよ」
「H3」はMoonlightから数ブロック離れた場所にあるオーセンティックバーだ。床面積だけでもうちの数倍の広さがあり、常時、3人のバーテンダーが接客に当たる。さらに、この店には1台数百万円のグランドピアノが置いてあり、時折、ピアノリサイタルなどを開いていることでも知られていた。
「あらやだ、あれはあのお店が人気だっただけですよ。私のピアノを目当てに来た人なんて、そんなにいなかったと思いますよ。そんなことより、マスターのお勧めのお店、教えてくださいよ」
「うーん……そうですね……」
 個人的につながりが深く、パッと思い浮かぶ店といえば「Blue Moon」と「Marine Blue」だ。しかし、「お気に入りの店」という言い方には、そぐわないような気がした。
 ちょうど美和のグラスが空いたところだった。私は最近行ったある店のことを思い出し、勧めた。
「ああ、そうだ。よかったらお勧めのお酒と料理があるんですけど、それを味わっていただいてもいいですか? どちらも軽くて甘口の一品なんで、気に入っていただけると思います。試食用にサービスしますんで、お気に召したら、それぞれご注文くださいな」
「あ、じゃあ、それをお願いします」
「かしこまりました」

 私が差し出したのは、スプーン1杯のクリームチーズと、テイスティンググラスに少量注いだ自家製のサングリアだ。サングリアは軽めの赤ワインにスライスしたモモとリンゴを漬け込み、アップルブランデーを少量加えて風味を足したもの。そしてクリームチーズは――。
「あ、これ、すごく美味しい! 甘いのは、フルーツですか?」
 美和が驚きの声を上げた。
「そう。マンゴーやパイナップル、レーズンなど、何種類かのドライフルーツを、クリームチーズに漬けてあるんです。チーズの水分でフルーツが柔らかくなるし、チーズにもフルーツの味が移る。ワインのつまみに、ちょうどいいでしょう?」
「それに、こっちのお酒も甘くておいしい! フルーツのカクテルですか?」
「これはサングリアといって、スペインとか、ポルトガルでよく飲まれてるものです。ワインにフルーツを漬け込んで風味をつけたものですよ」
「そうなんだ。うん、これはすごく美味しいから、それぞれ一つずつくださいな」
「気に入っていただいたようで、何よりです。で、実はこれ、私が最近、何度か行ってるお店の人気メニューなんですよ。美味しかったから、うちでもちょっと真似してみたんです」
「へえ、そうだったんですね。そのお店、行ってみたいです」
「ええ、ぜひ行ってみてください。立ち飲み屋なんですけど、女性でも気軽に入れるオシャレな雰囲気の店です。カウンターのすぐ向かいにオープンキッチンがあって、料理しているところを目の前で見ながら飲めるんですよ。立ち飲み屋だから千円か、2千円もあれば、かなり満足できると思います。ぜひ、お一人ででも、彼氏さんとでも、行ってみてくださいな」
「あらやだ、彼氏なんていませんよ。むしろマスター、今度その店に連れて行って下さいよ」
「お誘いありがとうございます。またそのうち、機会がありましたら、ぜひ」
「あらあら、政治家の『前向きに検討する』みたいな、体のいいお断りをされちゃったわね」
「あはは、そんなことないですよ」
「ところでマスター。トウモロコシを使った珍しい飲み物って、何かご存じないですか?」
「トウモロコシを使った珍しい飲み物、ですか……? 酒で言えば、バーボンやコーンウイスキー、中国の白酒(パイチュウ)、焼酎やウオッカの材料にもトウモロコシが使われたりしますが……」
「でも、そういうのは『珍しい』とはちょっと違うでしょう? 少なくとも、日本では知られていないような、トウモロコシの使い方があれば教えてほしいなって思って」
 いたずらっぽく笑う美和。
「じゃあ、Suco de milhoはご存じですか? 私がブラジルで飲んだ、トウモロコシのジュースです」
「えっ、何それ、聞いたことないです」
「ブラジルの高速道路のサービスエリアなどでよく売られているもので、そうですね……、味は、塩を抜いた冷たいコーンポタージュでしょうか。茹でたトウモロコシをフードプロセッサーで滑らかになるまで潰して、砂糖と牛乳を加え、煮込んでから冷やして作るそうです」
「すごーい、おいしそう。私、トウモロコシ大好きだから、飲んでみたいです」
「うーん……。美味しいことは美味しかったですよ。ただ……ちょっと、ね」
 私が苦笑しながら言葉を濁すと、美和は首をかしげた。
「ちょっと……どうかしたんですか?」
「いやあ、トウモロコシのジュースですから、ね。ものすごくお腹がふくれるんですよ。ただでさえブラジルの飲み物って、Mサイズでも日本のLサイズか、LLサイズぐらいのボリュームがあるんです。そんな量のトウモロコシジュースを飲んだら、もうお腹いっぱいです。それに、味がコーンポタージュに似てるから、どうしても舌が塩味を探してしまうんです。だけど、ジュースであってスープじゃないから、塩味も旨味もなく、ただひたすら甘いだけ。あれはよっぽどトウモロコシ好きじゃないと、慣れていない日本人には向かないと思いますね」
「うーん、でもやっぱり飲んでみたいなあ。マスター、作ってくださいよ」
「……前向きに検討させていただきます」
「またそんな政治家みたいなこと言うんだから……」
「じゃあ、政治家から美和さんに1杯、サービスさせていただきますよ。あと、今度またリサイタルをされるときには、ぜひ応援に行かせてくださいな」
「どうせ、『このお店が休みだったら』の話でしょう? 前向きに検討させてもらっておきますね」
「恐れ入りました」
 私は笑いながらカクテルのレシピを整えた。アップルブランデーに、スイートベルモット。そこに少量のアプリコットブランデーとレモン果汁を加える。シェークしてグラスに注げば出来上がりだ。
 グラスに注いだ酒は、細かく、滑らかな気泡を含み、オレンジ色に輝いている。
「気に入っていただけるでしょうか?『チューリップ』というカクテルです」
「うれしい。私、花の中でチューリップが一番好きなんですよ。……ちなみにマスター、オレンジのチューリップの花言葉、ご存じですか?」
 美和はグラスを掲げながら尋ねた。
「オレンジのチューリップの花言葉はね、『照れ屋さん』って言うんですよ」
「あはは、『照れ屋さん』ですか。私が? それとも、美和さんが?」
「さあ、どっちかしらね。照れ屋のチューリップに、乾杯」


【チューリップ】
アップルブランデー 30ml
スイートベルモット 30ml
アプリコットブランデー 1tsp
レモンジュース 1tsp
シェークしてカクテルグラスに注ぎます。

本作は知人より頂いたお題を元に執筆したものです。
本作のお題は「とうもろこし」「チューリップ」「海」でした。

 チ……チチチ……ピピッ、チチュピピッ……
 近くの木の梢から、小鳥たちの鳴き声が降り注いでくる。
 最初は気の早い一、二羽がさえずるだけだったが、周囲が明るさを増すにつれて、徐々に鳥たちの歌声はボリュームを増し、いまでは大合唱といってもいいほどに騒がしくなっていた。
 三笠山(みかさやま)から顔を出したばかりの太陽が、ひんやりした空気を貫いて飛火野(とびひの)の芝生に差し込んできた。うっすらとたなびく朝もやが金色に輝く。その中を、数頭の鹿が歩いていた。一頭だけ小柄なところを見ると、親子なのだろう。
 私はカメラを構え、夢中でシャッターを切った。
 奈良公園の夜が、いま、明けつつあった。

 奈良に住んでいて奈良公園を知らないのは、生まれたばかりの赤ちゃんくらいのものだろう。奈良県民にとって、奈良公園という場所はそれほどなじみ深く、親しみのある場所だと思う。
 奈良公園でデートする時の待ち合わせは近鉄奈良駅の行基(ぎょうき)像前。
 子供のころ、鹿せんべいの屋台や土産物屋の軒先にぶら下げられているカラフルなビニール製の鹿のおもちゃを買ってもらったり、おねだりしたことがある。
 鹿せんべいは自分で買うものではなく、せんべいを上げようとして、鹿の大群に襲われる観光客を「ああ、かわいそうに……」と遠くから眺めるためのもの。
 芝生の上を歩くときは鹿のふんを踏まないように注意するが、そのうち面倒くさくなって気にしなくなる。
 有名な国宝の寺社仏閣がありすぎて、重要文化財に指定されている建造物を素通りする。
 これらは、奈良県民なら誰もが一度は経験することだと思う。

 そんな馴染みの深い奈良公園の撮影を、私がライフワークとしているのは訳がある。
 奈良で生まれ育ち、奈良の寺社仏閣や仏像、大和路の風景を生涯かけて撮影した写真家、入江泰吉(いりえ・たいきち)。興福寺の阿修羅像や新薬師寺の十二神将像、猿沢池と興福寺の伽藍(がらん)、芝生の上にたたずむ親子の鹿など、奈良の観光案内パンフレットなどで誰もが一度は目にしたことのある写真を撮影した、日本を代表する写真家の一人だ。
 光と影の配置や、構図を計算し尽くし、たった一枚のために何時間でも費やす。そうして撮影された入江泰吉の写真は、まさに圧倒的な力で見る者の心を鷲掴みにする。
 私も、そんな写真を撮りたい。
 おこがましいかも知れないが、入江泰吉に憧れ、少しでも彼の足跡をたどりたくて、生涯の撮影地として私の選んだのが奈良公園だった。

 この公園は、四季折々に全く異なる表情を見せる。
 木々も地面も、明るい新緑に染まる春。降り注ぐ光と葉陰のコントラストが強烈な夏。色とりどりの紅葉に彩られる秋。灰色のモノトーンに包まれる冬。
 また「なら燈花会」や「なら瑠璃絵」といった季節ごとのイベントもあり、楽しみは尽きない。
 それぞれの景色に味わいがあり、魅力がある。入江泰吉の後を追うつもりで始めた撮影だったが、いつしか、私はこの地にすっかり魅せられていた。

 この場所で撮影をしていて、ふと気づいたことがある。
 それは、万葉人たちもこの場所で、この景色を見ていたのだ、ということ。
 春日や三笠の山々一つをとっても、ふもとは道路が整備され、住宅が建ち並ぶようになったが、町を見下ろす山のなだらかな稜線は一千年以上前から変わっていない。
 また、この地に住まい、行き交う人々の営みも変わっていない。そのことに気づいたのは、奈良の各地が歌の題材に取り上げられていると知って、興味半分に読み始めた『万葉集』がきっかけだった。

「今更 何乎可将念 打靡 情者君尓 縁尓之物乎」
(今更に 何をか思はむ 打ちなびく 心は君に 寄りにしものを)

「吾命之 将全牟限 忘目八 弥日異者 念益十万」
(わが命の またけむ限り 忘れめや いや日に異には 思い増すとも)

「夢之相者 苦有家里 覚而 掻探友 手二毛不所触者」
(夢の逢いは 苦しかりけり 驚きて 掻き探れども 手にも触れねば)

 離れた場所にいる大切な人を思い、切なさに胸を痛める気持ちは、いつの時代も変わらない。この歌を歌った人々はもう一千年以上も昔に死んでしまっているが、残された言葉は、いまも切なく胸を打つ。

「願わくは……」
 私はシャッターを切りながら、ふと思う。
 奈良の「現在」を記録する私の写真が、私の死後、百年、二百年たっても変わることなく、人々の記憶に残り続けることができたら――それは、どんなに幸せなことだろう。
 私の作品。それは、「私が生きた証」にほかならない。私という存在が消えてしまっても、私の作品が残り続けるなら、それは私の存在が歴史に刻まれるのと同じことだ。
 永遠。口に出せば陳腐な言葉だが、決して夢物語などではない。少なくとも、私はそう信じたい。この世界は絶え間なく変わり続けているからこそ、その中にいつまでも変わらないものがある。そう、『万葉集』に記されたあの歌のように。
 そんなことを考えながら、私は今日もこの大和の地でシャッターを切る。
 どうやら、今日も暑くなりそうだ。


本作はある知人より頂いたリクエストを元に執筆したものです。

本作のお題は「言葉、永遠、奈良。奈良を舞台とした、終わらない物語」でした。

 カーテンの隙間から差し込む光で目を覚ます。
 時刻は午前11時過ぎ。いつも通りの朝だ。
 平日のこの時間といえば、会社勤めをしているサラリーマンは忙しく仕事をしている時間帯だろう。しかし、未明まであくせく働き、夜明けとともに眠る私のような人間からすれば、この時間帯は"早朝"と言って差支えなかった。
 今日は馴染みの酒問屋へ、在庫の少なくなった酒の買い出しに出かける予定だった。同じ種類の酒を追加するだけであれば、電話一本で話は終わる。しかし、店主と新入荷商品や蔵元の様子、新酒の出来栄えなどについて情報交換をするため、私はできるだけ、店に足を運ぶようにしていた。
 身支度を整え、朝食代わりのスポーツドリンクを飲み干し、愛用の自転車にまたがる。頬に刺さる風の冷たさを、ペダルを踏む時に生まれる熱で中和しながら、私は街をひた走った。


 問屋での仕入れは、あっけないほど順調に終わった。在庫の減っていた酒のほかにも何種類か、新しい酒を買い付けることができた。ディスティラリー(蒸留所)の出す特別限定版のボトルなども何本か仕入れることができ、私は大満足で店を出た。
 問屋街を抜けると、飲食店の並んでいるエリアがある。いくつもの店から食欲を刺激する匂いが流れてくる。ちょうどランチタイムのピークを越え、どの店も空席が目立ち始めるタイミングだった。
「腹が……減ったな」
 道路の両側にズラリと並ぶ飲食店を前に、私は足を止めた。
「オレはいま、何が食べたい……? オレの胃袋は何を求めている……?」
 漂う香りを吸い込みながら、自分に向かって問いかける。そのとき、私の鼻が異国情緒あふれるスパイスの香りを捉えた。
 香りの源を探して視線をさまよわせると、金色の象の置物を飾っている店が目に入った。
「……これだ!」
 私は足早にその店へ向かうのだった。


「サワディーカー(こんにちは)」
 入店した私を迎えてくれたのは、彫りが深く、一目で東南アジア出身と分かる女性店員だった。
「サワディークラップ(こんにちは)」
 反射的にタイ語であいさつを返してから、別にタイ語を使う必然性がなかったことに気付いて苦笑する。しかし、女性店員はパッと顔を輝かせ、
「タイ語であいさつできるお客さん、少ないんですよ。空いてる席、どこでも好きなところに座ってくださいね」
と、店内を指し示した。
 空いているテーブルに座り、メニューを開く。真っ先にアルコール飲料のスペースに目を通すのは、もうすっかり習慣になった"職業病"のようなものだ。
「シンハーにリオ、チャーン……。メコンウィスキーもあるのか。なかなか本格的だな」
 シンハー、リオ、チャーンは、いずれもタイのビール。そしてメコンウィスキーは、米で作られたタイのウィスキーだ。さすがに自転車で来ている今日は酒を飲むわけにいかないが、そのうち飲みに来るのもいいだろう。
 もちろん、店の酒に手をつければ、世界中の酒をいくらでも味わうことはできる。しかし、自分の店で飲む酒と、よその店で客として飲む酒は、やはり味わいが違うものだ。
 料理のラインナップにしばらく目を通し、私は手を上げて店員を呼んだ。
「お待たせですー。何にしますかー?」
「ゲーン・キャオ・ワーン(グリーンカレー)とソムタム(青パパイヤのサラダ)を」
「ありがとうございます。ナーン(パン)とカオ(ご飯)がありますが、どちらになさいますか?」
「カオでお願いします」
「はーい。少々お待ちくださいー」
 店員が注文を伝えに行くと、店内を見渡す余裕ができた。
 店内の随所に金色の象の置物や、派手な色彩の仏画が飾られている。タイといえばゾウの国であり、仏教の国。店の内装がその雰囲気を余すことなく伝えていた。壁際に置かれた香炉からは、かすかに煙が上がり、控えめな香りを漂わせている。厨房から流れてくるスパイスの香りと合わさって、店内の空気はすっかりタイの色に染まっていた。


 壁に張られた料理メニューをぼんやり眺めながら待っていると、料理が運ばれてきた。
「お待たせしましたー。ゲーン・キャオ・ワーンとソムタムです」
 ゲーン・キャオ・ワーンはやや緑がかった白いスープに、鶏肉、タケノコ、ナス、パプリカなどの具が入っている。ココナツミルクの甘い香りが、湯気と一緒に鼻に飛び込んできた。
「さてさて……ではまず、グリーンカレーから行くか」
 カオ(ご飯)は細長いタイ米だ。パラパラした米をスプーンですくい、スープに浸して口へ運ぶ。口いっぱいに広がる、ココナツミルクの香り。甘い。そして、砂糖の甘味が舌の上に広がる。一瞬、脳が菓子を食べたような錯覚を起こして混乱する。続いてやってくるしょっぱい魚介類の味わいは、ナンプラーだろうか。独特の旨味に、脳の混乱が加速する。そして次の瞬間――
(辛い……ッ!)
 喉の奥から、ドシンとした衝撃を伴ってこみ上げてくる、圧倒的な辛さ。胃袋から舌まで、スープの通り抜けた場所に火がついたようだ。
「辛さがビッグバンを起こしてる……後から後から辛味が湧いてくるぞ」
 しかし、辛さを感じるのはほんのわずかな時間だけだった。灼熱が通りすぎると、後にはココナツの甘い香りと魚介、鶏肉の旨味、シャキシャキしたタケノコや、とろけるナスの食感の舌触り、そしてかすかな痺れが残るだけだ。その後味に、舌が、喉が、胃袋が、次の一口を求める。つまり、ひと言で言ってしまえば――
「美味い」
のだ。
この甘さと辛さのギャップが麻薬的快感をもたらし、額に汗をにじませながらも、スプーンを動かす手を止められなくするのだ。
 立て続けに数口、ゲーンを食べたところで、私は手を止め、ソムタムに箸を伸ばした。
 ソムタムは細切りの青パパイヤ、インゲン、ニンジンなどを盛り付けた上から砕いたピーナッツを散らし、パクチーを乗せている。皿の底には、ナンプラーをベースにしたソースがたっぷり貯まっていた。
 一口食べると、レモングラスとパクチーの鮮烈な緑の香り、スルメイカのようなナンプラーの匂いが口から鼻へ抜けていく。そしてライム果汁の酸味と、唐辛子の辛味が舌全体に広がった。噛みしめるたび、パパイヤの線維がシャキシャキ、カリカリと音を立てて歯の間で壊れていく。同時にピーナッツがコツコツと歯を叩き、軽快なアクセントをもたらしていた。
 酸っぱくて辛い。そして、甘くてしょっぱい。不思議な味だが、食べ始めたらこちらも手が止められない。
「食べれば食べるほど、食欲が刺激されて空腹感が増加していくようだ。胃袋に宇宙が広がっていくぞ」
 唐辛子の刺激で全身の毛穴が開き、頭全体からタラタラと汗が流れ出すのが分かる。おしぼりで汗をぬぐい、ときどき水を飲んで口の中をクールダウンしながら、黙々と料理を口に運んでいく。気がつけば、ゲーンもソムタムも、半分近くが胃袋に消えていた。それでも、火がついた食欲は簡単に収まりそうにない。
「うーむ……。胃袋にもう少しガツンと入れたいな。そう、ムエタイのキックのように……」
 そんなことをつぶやきながら、壁のメニューに視線を向ける。
「ガイ・ヤーン……タイ風焼き鳥か。すみません、ガイ・ヤーン一つ」
「はぁい、少々お待ちくださーい」
 しばらくして出てきたのは、まさに焼き鳥だった。大ぶりに切った鶏肉が、皿に山盛りになっている。その一つひとつがニンニクとパクチーを利かせた醤油風のタレをまとい、ツヤツヤと輝きながら、甘く香ばしい香りを放っていた。
「パクチーがダメな人間は、タイに住むことができないな……」
 鶏肉はタレに漬け込んであり、中までしっかり味が入っている。そのまま食べるには少し味が濃いようだ。
「こりゃ酒のツマミか、ご飯のおかずだな。すみません、カオのお替わりを」
「ああ、お客さん、ガイ・ヤーンに合わせるなら、カオ・ニャオがいいですよ。一人分、すぐ用意できますよ」
「そうですか、じゃあそれで」
 あえて詳細を確かめず、店員に勧められるまま注文する。どんなものが出てくるのか分からない、その不安と期待を楽しむのも、一人飯の醍醐味だろう。
「どうぞー、カオ・ニャオです。一口ずつ、手で丸めて食べてくださーい」
 出てきたのは小さなせいろだった。中には蒸したもち米がギッシリと入っている。パラパラしたカオと違い、赤飯のようにモッチリとしたもち米は、口の中でガイ・ヤーンのタレをしっかりと受け止めてくれた。
「うん、悪くない。このタレをちょいとつけると、なんだか不思議な味の団子を食べてるみたいな気がする」
 しかし、食べ始めてすぐに、一つ気付いたことがあった。
「かなりもち米が重たいな……。油断するとすぐに満腹になりそうだ」
 タイの国技であり、立ち技最強の格闘技との呼び声が高いムエタイ。しかし実際の試合は、パンチやキックの打ち合いよりも、地味な首相撲の応酬の末、判定にもつれこむことが多い。派手なKOで相手を倒すよりも、首相撲でいかに相手の動きを封じ、自分に有利な体勢を作るかが、何より重視されるのだ。
「美味さに油断しちゃダメだ……。この重さに引きずられることなく、自分のペースで着実に入れていく。そう、一口一口を大切に……」
 満腹KOされたら負け。気持ちよく、カオ・ニャオを完食できれば勝ち。四角いテーブルの上で繰り広げられる孤独で美味な戦いに、私は没頭した。


 ガイ・ヤーンとカオ・ニャオをほとんど片付けたところで、
「これ、よかったらどうぞー。サービスのブアローイですー」
と、店員から温かく、甘い湯気を上げる椀を差し出された。
「これは……ココナツミルクの白玉ぜんざい、みたいなものか……?」
 スプーンでかき混ぜると、ピンクや黄色、紫など、カラフルな粒が、真っ白なココナツミルクの海を泳いでいるのが分かる。ツルツルの白玉を一口食べれば、もちもちした歯ごたえと、コッテリしたココナツミルクの甘さが口いっぱいに広がった。
「満腹以上の満腹なのに、胃袋に吸い込まれていくようだ。唐辛子で傷ついた舌がこの甘さと温かさに癒やされるな……」
 スルスルと白玉を食べ、最後の一滴までココナツミルクを飲み干す。
「ふう……、ごちそうさまでした」
 たっぷりとした昼食を終え、私は椅子の上で満足のため息をついた。血圧と血糖値が跳ね上がり、血管を通って体の隅々までカロリーが運ばれていくのを感じる。まさに至福の瞬間だった。
 生物の持つ三大欲求のうち、食欲だけは、生まれてから死ぬまでずっと自覚し続けるものだと言われている。生まれた直後の乳児であっても、腹が減れば泣いて母乳を求めるのだ。
 生きることは、すなわち食べること。美味い物で心ゆくまで腹を満たすのは、自分の生命を豊かにすること。事務的に、栄養補給のためだけに物を胃袋に詰め込むほど、寂しいことはない。人間には、ビタミン剤やサプリメントだけでは絶対に満たされないものがあるのだ。
 私がグラス一杯に注ぐ酒は、まさにその最たるものだろう。酒を飲まなくても人は生きていける。しかし、グラス一杯の酒に幸せを、歓びを感じる人が存在するのも、また真実なのだ。その人が来店する限り、私は酒を注ぎ続けるだろう。


 ほどよく満腹感が落ち着いてきたところで、私は席を立った。そろそろ店に戻って今日の仕込みに取りかかるとしよう。
 今夜、店を訪れる誰かのために――。



本作は某コミュニティサイト内で投稿されたお題をもとに執筆したものです。

本作のお題は「ビッグバン、宇宙、生きる」でした。

「ひまわりの花を見てると、なんだか懐かしい気持ちになるんだ」
 唐突な僕の言葉に、隣にいた恋人は目をぱちくりさせて、なんと答えればいいのか考えているようだった。
 そろそろ、正午に差し掛かる時刻。真夏の日差しは大輪のひまわりの上に容赦なく降り注ぎ、花弁の一つひとつをまばゆく、真っ黄色に輝かせていた。


 当時、私は高校二年。あの日は一学期の期末テスト最終日だった。ようやくテスト期間が終わり、もうすぐ夏休みが始まって羽を伸ばせるという解放感から、
「ちょっと寄り道していかない?」
と、僕は制服デートを提案した。少し前から気になっていた場所へ、彼女と二人で行ってみたくなったのだ。

 その場所というのは、市営公園の小さな遊歩道。歩道の両側にひまわりがずらりと並んで植えられており、「ひまわりの道」という安直な名前がつけられていた。しばらく前に市の広報紙で写真を見て以来、ずっと僕の心に引っかかって、一度行かなきゃいけないと思っていた場所だった。


 ひまわりの花の黄色と、葉の緑。空の青。そして入道雲の白。セミの声のほかに聞こえてくるのは、近くのグラウンドで野球の練習に励む少年たちの掛け声だけ。ほかに遊歩道を歩いている人影はない。のんびりと歩く僕たちを、ひまわりだけが見下ろしている。そんなシンプルな世界にいると、なんとも形容しがたい、不思議な気持ちがこみ上げてきた。
 その気持ちこそが、僕をこの場所へ駆り立てていた原因なのだと、僕には分かっていた。
 訳も分からず、ただ懐かしい。
 記憶さえ定かでない、乳幼児の頃の思い出。
 不思議そうな顔をして僕を見ている彼女に、もう少し説明したほうがいいと思い、
「僕の一番古い記憶なんだ。……僕は、おそらくお母さんの背中におんぶをされていて、いまみたいな青空の下、真っ黄色なひまわりを見上げている。もちろん赤ちゃんのころの記憶だから、ひまわりだと認識しているわけじゃない。ただ……そう、何となくだけど、あの鮮やかな黄色の花と、背景の青空の色だけは覚えているんだ」
 そんなことを話した。


 あの時、彼女はどう答えただろう。
 僕は思い出そうとするのだが、「当時の彼女と、そんなやり取りをした」ということは記憶に残っていても、その時、彼女がどんな反応をしたのかは思い出すことができなかった。彼女が着ていた夏用制服の、まぶしいほどの白さは今でもはっきり覚えているというのに。
 おそらく、彼女はどう答えればいいのか分からず、あいまいに笑っていただけではないだろうか。


 当時、彼女には言わなかったが、その記憶には少しだけ続きがあった。
 それは、近くに父親でも母親でもない誰かがいた、ということ。そして、僕はその誰かを、「お姉ちゃん」だと認識していた、ということ。男ばかり三人兄弟の長男に生まれて、「姉」という存在には無縁の人生だったにも関わらず、だ。
 ただそれだけなのだが、その「お姉ちゃん」が僕に笑いかけてくれていて、僕はとても温かい気持ちになっていた。ひまわりを見ると、その時の気持ちが胸によみがえり、なんとも言えない懐かしさと、幸せな感覚が湧きあがってくるのだ。
 残念ながら、当時の僕はその感覚をうまく言葉にして伝えることができず、彼女を困惑させたままフラフラと歩き続けるしかなかった。結局、遊歩道の途中にあった自動販売機で買った一本のスプライトを、木陰のベンチに座りながら二人で分け合って飲み、しばらく取りとめのない話をして、僕らは帰宅した。
 彼女から別れを告げられたのは、それからほどなくのことだった。男が未練がましい態度を見せるのはみっともないと、僕は「そっか、分かった」とだけ答え、それきりで短い恋は終わった。


 その後、毎年、ひまわりの咲く季節になると、僕は必ず「ひまわりの道」を歩くようになった。
 大学の友達と数人で。
 その時、付き合っていた恋人を連れて。
 たった一人で。
 その年によって、誰とこの道を歩くかは違っていたが、毎年、大輪のひまわりが咲く時期になると、僕はこの場所を訪れた。
 何のために。自分でも、はっきりとした理由は分からない。
 ただ、あの頃と変わらないひまわりを見つめながら、変わっていく自分を確かめたいのかもしれない。
 いつか、誰とも知れない記憶の中の人と、どこかでめぐり会えたら、その人と、この道を歩いてみたいと思う。
 その願いがかなったとき、僕はこの道を訪れなくなるのだろうと、漠然と考えている。



本作は某コミュニティサイト内で投稿されたお題をもとに執筆したものです。

本作のお題は「ひまわり、赤ちゃん、制服」でした。

「もう、終わりにしよう」
 言いにくそうに、あなたが切りだす。
「……え?」
 一瞬、心臓が動きを止め、そしてジワジワと早鐘を打ち始めた。
 さっきまで騒がしいほど耳に響いていた行き交う人々の声が、どこか遠くの世界へ消え去ってしまったかのように、現実感をなくしていた。


 その日は、久々の楽しいデートのはずだった。
 仕事が終わってからいつもの場所で待ち合わせ、レストランで夕食を食べる。そして、軽くドライブをして買い物をしてから彼の家へ……というのが、最近の週末デートの流れだった。
 しかし、ここ1カ月近くというもの、週末のたびに彼に会議や出張が入り、デートをする時間が取れずにいた。
「ゴメン! 今度こそ、ちゃんと週末空けておくから! 今週だけはゴメン!」
 そんなメールを受け取るたび、物分かりのいい女を装い、「ううん、大丈夫だよ。また会えるのを楽しみにしてるからね」と返信する。本当は寂しくて、切なくてたまらないのに。
「ほんのちょっとだけ、声聞きたいから電話してもいいかな?」
 そんなメールを書いては、送信せずに削除する。何度も同じことを繰り返すうち、寂しさと切なさと自己嫌悪が入り乱れて気持ちがグチャグチャになった。


 一週間。そして、また一週間。
 会えない時間が積み重なるうち、切なさは疑惑に塗り替えられた。
「もしかしたら……誰か、ほかに好きな人ができたんじゃないのかな……?」
「会議や出張って言って、実はどこかで浮気してるんじゃないの……?」
 最初はごく小さかった疑惑は、不安と寂しさの後押しを受けて加速度的に大きさを増していった。
 彼に限ってそんなことはない。絶対にあり得ない。何度、自分に言い聞かせようとしても、不安は後から後から波のように寄せては返し、返しては寄せ、私の心を蝕んでいく。
 せめて1時間でもいい。会って一緒に過ごすことができたら、抱きしめてくれたら、こんな不安はすぐに消し飛んでしまうのに。
 そんなことばかり考えていた矢先、彼から連絡が入った。
「今週末は会えるから、7時にいつもの場所で待ってて。いい店を見つけたから、楽しみにしててね」
 久しぶりに彼に会える。
 それはとても嬉しいことのはずなのに、なぜか不安にかられ、素直に喜べない私がいた。


 そこは、瀟洒なレストランだった。
 間接光とランプの炎を組み合わせた照明が、ホタルのように柔らかく店内を満たしている。本を読んだり、手紙を書いたりするには不向きなほど暗いけれど、一緒にいる人の顔を見つめたり、料理の香りを楽しんだりするには最適の明るさだった。
 独創的な、しかし決して個性の強すぎない料理の数々。どれも、「食べる」という行為が楽しいものなんだと思い出させてくれるような品ばかりだった。
 しかし、私も彼も、料理を心から楽しむことはできなかった。
 彼は店に入った時からずっとそわそわしており、食事中も非常に居心地が悪そうで、何かを言いだそうとしては口をつぐむことを繰り返していた。そんな様子をずっと見ていれば、私だって落ちついて食事を楽しむことなんてできなくなる。
「いったい、どうしたんだろう……?」
 疑惑が再び、胸をよぎる。しかし、彼から答えを聞きだすことはできなかった。
 当たり障りのない会話に終始したままデザートを食べ終わり、食後のコーヒーを飲んで、私たちは店を出ることになった。


 この日は、食事の後もいつもと違っていた。
 いつもなら食事の後は、買い物をしてまっすぐ彼の家へ行くのがお決まりだったのに、彼は「少し、寄り道をするよ」と、いつもと違う道にハンドルを切った。
「……どこへ行くの?」
「まあ、いいからついてきて」
 私の質問に、彼は言葉少なに答えるだけで、後はほとんど何もしゃべらなかった。
 しばらくして彼が車を止めたのは、東京湾に面した見晴らしの良い公園の駐車場だった。夜空に向かって東京スカイツリーがそびえ立ち、緩やかな光を投げかけているのが見える。週末とあって、夜景を見に来たカップルで公園はかなりにぎわっていた。
 彼は月明かりに照らされた園内をしばらく歩き、やがてベンチに腰を下ろした。私も押し黙ったまま彼の隣に座る。
 彼は指をモジモジと組んだり、ほどいたり、落ち着きのない様子をしばらく繰り返していた。
「ねえ……。今日、どうかしたの? なんだか変だよ。何か言いたいことがあるんじゃないの?」
 私が問い掛ける。彼は何度か深呼吸をすると、言いにくそうに口を開いた。


「もう、終わりにしよう」
「……え?」
「いままでのような、恋人関係を終わりにしたい」


 一瞬止まった心臓が、すぐにドキドキと音を立てて動きだす。耳の奥にうるさいほどの鼓動が響き、周囲のざわめきをかき消していた。


 ほかに好きな人ができた。
 もう、会うのはこれで終わり。
 さよなら。


 そんな言葉が次から次へ、頭の中に浮かんでは消えていく。


 いやだ。いやだいやだいやだ。
 別れたくない。サヨナラなんて絶対にいやだ。


 そう言いたいけれど、頭の中がゴチャゴチャになってうまく言葉が出てこない。
 ただ、目頭が熱くなって、涙がこぼれそうになっていることだけは分かっていた。

「……だから、新しい関係を始めたいんだ」
「はぇ?」
 その瞬間、私はよほど間の抜けた声を出してしまったのだろう。彼は「ブフッ!」と吹き出し、そのままお腹を抱えてゲラゲラと笑いだした。
 何が何だか分からない。
 確かに変な声を出してしまったことは認めるが、そんなに笑うなんて失礼にもほどがある。
 ムッとして、私は彼を睨みつける。
「あはは、いやゴメンゴメン。……これ、受け取ってくれるかな」
 彼が差し出したのは、ビロード張りが施された小箱。
「指輪……?」
「新しい関係――家族に、なりたい。受け取ってくれるかな?」
「えっと、つまり……」
 急な展開に、まだ頭がついてこない。
「まあつまり、ひと言で言ってしまえばプロポーズなんだけど。受け取ってもらえるかな。この指輪を買うために出張して残業増やして、必然的に会議も増えちゃって。全然会えなくてごめんね」

 再び、涙があふれて目の前の景色がにじんだ。しかし今度の涙は、幸せで心地よいものだった。



本作は某コミュニティサイト内で投稿されたお題をもとに執筆したものです。

本作のお題は「ホタル、月明かり、スカイツリー」でした。

「あんたみたいな若い人は知らないかもしれんけど、昔はね、東京にも蛍がいたんだよ。そこの川も、いまよりずっときれいで、夏にはたくさんの蛍が飛び交ってたもんさ」
 都内某所。ある雑貨屋の風通しのよい店先で、老婆は団扇をパタパタと仰ぎながら話してくれました。
 それは数年前の夏の、そう、今日みたいに暑い日のことでした。


 あの日、私はある情報について確認を取るため、取材に出ていました。現地で聞き込みを続けるうち、「そういう話なら、○○屋のばあさんに聞くのがいいよ」というアドバイスを受け、その店を訪ねたのです。
 私がデスクから確認を命じられたのは、ある大学のボート部の話でした。
 その大学ボート部は、練習場として少し離れた場所にある川を使っていたというのです。しかし現在、住宅街のど真ん中を流れるその川は、幅数メートルの「水路」のようになっており、とてもボートを漕げるような場所ではない。当時の現地の状況も含め、真相を確かめてくるように、というのがデスクの指示でした。
 レガッタと呼ばれる手漕ぎボートのレース競技は、戦前から都内のいくつかの大学でクラブ活動が行われていました。なかでも有名なのは早稲田大学と慶応大学の対抗戦、「早慶レガッタ」でしょう。しかし、私が確認を命じられたその大学のボート部は現存せず、大学関係者に尋ねてみても「さあ……ちょっと、昔のことは分からないですねぇ」といった返事しか得られなかったのです。大学の資料室を訪ね、かろうじて古い記録の「倶楽部活動一覧」の項目の中に、「競艇部」の記述を見つけることができたものの、どこでどんな活動をしていたのかは、さっぱり分からなかったのでした。
 そこで、私は現地調査をすべく、町へ繰り出したのです。


「まあ、せっかくだからちょっと待ってなよ。頂きもののスイカがあるのさ。爺さんと二人だけじゃ、どうしても食べきれないからね」
 上がり框(かまち)の置かれた、冷たい麦茶のコップはダラダラと汗をかいて、すでに畳の上に小さな水たまりを作っています。私はその麦茶をグイと飲み干すとハンカチでコップを拭い、畳の水たまりも一緒に拭き取りました。
 雑貨屋の前を流れる川に目をやります。コンクリートの護岸に挟まれた水路を、音もなく、黒々とした水が流れているだけの、何の変哲もない川。その向こうに立ち並ぶ住宅の屋根の上には、東京タワーがすっくと青空を突き刺しているのが見えます。
 こんな都心に近い場所で、蛍が飛び交い、大学生がボートを漕いでいた時代が本当にあったのだろうか……?
 ノートにメモを取りながら、そんなことをぼんやり考えていると、老婆が戻ってきました。お盆の上には、食べやすい大きさに切ったスイカと食塩のビンが載っています。
「兄さん、のど渇くだろ。食べなよ。食べながら聞いたらいいさ」
 私は勧められるまま一切れのスイカを手に取り、軽く塩を振って頬張りました。その様子を目を細めて眺めながら、老婆は再び話し始めました。


「あのころは良かった、なんて繰り言を言うつもりはないんだけどね。それでも昔は、この川の周りも田んぼばっかりだったんだ。夕暮れ時になると、タヌキに化かされるから早く帰れ、なんてよく言われたものさ。それどころか、本当にタヌキに化かされたって人も珍しくなかったさね」
 老婆は自分も一切れのスイカに軽く塩を振ると、モグモグと食べながら話を再開しました。
 タヌキがどうやって人を化かすか。化かされた人はどうなるのか。化かされないためには、どうすればよいのか。そんなことを、老婆はほのぼのとした口調で語り続けます。
 年寄りの話は、回り道が多いものです。ここで気を焦らせて話をさえぎり、質問を投げかけるようでは記者は務まりません。まずはじっくりと相手の話に耳を傾け、要点を押さえながら、最終的に自分の聞きたい情報にたどり着ければ、それでいいのです。それに時々、一見関係ないと思うような雑談から、思いがけない情報が聞き出せたりすることもあるのです。


「――そんなわけでさ、アタシが爺さんと結婚してこの店を始めたころは、ここらもまだまだのどかだったのさ。○○大学の学生が、学校の近くには何もないからって、わざわざうちまで来て買い物したりしたもんだよ」
 ○○大学! それこそ、私が確認したかった大学の名前でした。私はさり気なく、質問を投げかけます。
「へえ、○○大学ですか。実は私ね、その大学の競艇部のことについて、ちょっと調べてるんですけどね。どうもその競艇部は、この川で練習していたっていう話なんですが、何かご存じないですか?」
「競艇……ボートクラブのことかい? あっはははは、うん、まああれも競艇といえば競艇かもしれないねぇ、ふふふ……」
 老婆の笑い方は、どうも意味深です。私は雲行きが怪しくなるのを感じながら、話の続きを待ちました。
「あのさ、兄さん。たしかにあの大学には、ボートクラブがあってね、この川でよくボートを漕いでいたのさ。だけど、あの子たちがやっていたのは、競艇なんて言えるようなものじゃなかったねぇ」
「それは……どういうことなんですか?」
「あの大学のボートクラブはね、当時には珍しい男女混合のクラブだったんだ。そんなに人数がいたわけじゃないよ。男女合わせてせいぜい5、6人くらいの小さなクラブでね。ボートは2艘あったけど、そんな少人数のクラブだから、競争なんて出来やしないわけさ。だから女の子を乗せて、男の子が漕いで、毎日競争ごっこをやってたのさ、フフフ」
「はあ……なるほど。その当時、川はそんなに広かったんですね」
「そうさ。いまは流れが変わったうえ、埋め立てと護岸工事のおかげで見る影もなくなっちゃったけどね」
「そのクラブは、いつごろまでこの川で練習してたんですか?」
「どうだったかねぇ……。戦争が始まる前には、『男女が一つの船に乗るとは、ふしだらでけしからん』って理由で解散させられたらしいから、そう長くはなかったかねぇ」
 ……なるほど。大学に詳しい資料が残っていなかった理由が、何となく分かったような気がしました。当局から「ふしだらだ」と言われたクラブ活動は、その記録さえも残しておくまいとする、大学側の「配慮」があったのでしょう。


 その後も私は、彼女から聞けるだけの話を聞きだしました。冷たかった麦茶がすっかりぬるくなり、皿に山盛りだったスイカもなくなったころ、
「兄さん、すっかり遅くなっちゃったねぇ。ご苦労さん。年寄りの退屈な話に付き合わされて大変だったね」
「いえいえ、とんでもない。興味深いお話をたくさん聞けて良かったです。またぜひ、いろいろお聞かせください。今日は長時間お付き合いいただいて、ありがとうございました」
と、私は席を立って深く頭を下げました。
 老婆に見送られながら店を後にした私は、記事の方向性をどうするか、あれこれ考えながら夕暮れの下町を歩きました。
 川沿いの道を歩きながら、かつてこの辺りを飛び交っていた蛍や、ボートのことをイメージしてみます。しかし、当時を想像するきっかけになりそうなものさえ見つからなくては、とてもイメージはふくらみそうにありません。
「戦前のこの辺りの地図や、風景写真集を探してみるか……」
 そんなことをつぶやきながら、私は行きつけの居酒屋でキンキンに冷やしたホッピーを飲んで、少しでもレトロ気分に浸って帰ろうと考えるのでした。


本作は某コミュニティサイト内で投稿されたお題をもとに執筆したものです。

本作のお題は「東京タワー、蛍、ボート」でした。

なお、本作は「私」の体験談のように書いていますが、あくまでフィクションであり実在の人物や団体などとは一切関係がありません。悪しからずご了承ください。

 蚊取り線香の匂いって、どうしてこんなに懐かしいんだろう。
 夏休みの昼下がり。セミの声と一緒に、窓の外から不意に流れてきた蚊取り線香の匂いに、私は少し首をかしげた。
 私が生まれたころには、蚊取り器といえば既に液体タイプのものが主流だった。もう少し時代をさかのぼれば、マット式の蚊取り器が使われていて、そこからさらにさかのぼって、ようやく蚊取り線香の時代になる。そんな私に、蚊取り線香の匂いなんて馴染みはないはずなのに。
「サヤカー。ボーっとして、なに考えてるの?」
 すぐ隣から聞こえるユミの声で、私は現実に立ち返った。ユミは首筋をポリポリとかきながら、空になった炭酸飲料のペットボトルをもてあそんでいる。
「……うん。あのさ、蚊取り線香の匂いって、妙に懐かしい感じがするなーって思わない?」
「あー、なんか分かるかも。うちら子供のころから蚊取り線香なんて滅多に使わなかったのに、あの独特の匂いをかぐと、なんか懐かしくなるんだよねー」
「あれかな、子供の頃の夏休み、おじいちゃんの家に行ったときの匂いって感じ?」
「それだ! きっとそうよ。じいちゃんとか、ばあちゃんの家の匂いを思い出すからだよ」
 ユミはうんうんとうなずきながら、まだ首筋をかいている。
「首、蚊に刺された? 真っ赤になってるよ?」
「いやー、なんか日焼け止めが足りなかったみたいでさー。首筋だけ、日焼けしちゃってすごくかゆいのよ……」
「あっちゃー。でも、あんまりかいてたら肌荒れしちゃうよ? ローションか何か持ってこようか?」
「あー、ごめん。お願いー。ついでに何か食べるもの持ってきてくれたら嬉しいなー、なんて」
 私はハイハイ、と言いながら部屋を出て、洗面所に向かった。たしか、お母さんに買ってもらったアロエか何かのローションがあったはずだった。


 私とユミは家が近所で、親同士も仲が良かったので、物心ついた頃からずっと一緒に過ごしてきた。
 もちろん、ただの幼馴染というだけで、ここまで長い付き合いにはなれない。
 なんていうか、ユミと私はフィーリングが合うのだ。それも、ものすごく。遊びに行く場所や服、音楽、食べ物、マンガやゲームなど、ユミと私の好みは不思議なほどに共通していて、「好きな物について」というテーマだけで軽く数時間、ノンストップで話し続けられるほどだ。もちろん、ほかの友達とも話せないわけではないのだけれど、さすがに二人きりで数時間、ノンストップで話し続けるのは難しい。
 ユミとケンカしたことは何度もあるし、「もう絶交だ!」なんて言ったこともある。だけど、怪我をしてもしばらくすればかさぶたができて、そのかさぶたがはがれれば傷跡もきれいになくなってしまうように、しばらくすればどちらからともなく「ごめんなさい」を言い合い、また自然と一緒に遊ぶようになっていた。
 こういう関係を、親友って言うんだろう。


 私は洗面所でアロエローションを取ると、キッチンの戸棚から買い置きのポテトチップを取り出した。
「あんまりオヤツばっかり食べてると、夕飯入らなくなるわよ? それから、ユミちゃんに夕飯食べていくか聞いておいてね」
 母さんの言葉にハイハイ、と適当に答えて部屋に戻る。
「ほら、アロエローション持ってきたから塗りなよ。あとポテチ。のり塩でいいよね」
「むしろ、のり塩がいいです! って、アタシの好み知ってるじゃない」
「まあねー。ところで夕飯どうする? 食べてく?」
「じゃあ、久しぶりにおばさんのご飯食べて帰ろうかな。よろしくー」
「りょーかい」
 私はすぐにキッチンへ折り返し、母さんに夕飯のことを伝える。部屋に戻ると、ユミはポテトチップを既に食べ始めていた。
「あ、ちょっと、なに先に食べてるのよ。こういうのは家主が先と決まってるじゃない!」
 私は慌ててポテトチップに手を伸ばす。
「いいじゃない、リクエストしたのアタシなんだし、減るもんじゃないんだし」パリパリ
「良くないわー! それに減るわー! 現に今、見る見るうちに減っていってるわー!」パリパリ
「サヤカ……。そんな小さいこと、気にしちゃいけないよ」パリパリ
「一回ブン殴るぞこのヤロー」パリパリ
 殺伐とした会話の合間に、1枚でも多くポテトチップを食べようと奪い合う。せっかくの大好きなのり塩味なのに、ゆっくり味わうヒマもあったものじゃない。
 それでも、ただポテトチップを食べているだけのこの時間が、なんだか無性に楽しい。


 あっという間に一袋のポテトチップを食べ尽くし、ようやくユミはアロエローションを首筋に塗り始めた。
「あー、冷たくて気持ちいい。生き返るわー」
「アンタ今まで死んでたんかい」
「そうそう、暑くて溶けてたから。ポテチ食べてちょっと生き返ったから、今度は冷たい飲み物があると素敵だなあなんて思ったり思わなかったり、いややっぱり思ってみたりなんかして」
「んもー、どっちだよー」
「そりゃもう、飲みたいです。ゴクゴク、ガブガブ飲みまくりたいです」
「リクエストは?」
「やっぱり珈琲牛乳でしょー」
「ハイハイ、分かりましたよお嬢様ー」
 私は苦笑いしながら、再びキッチンへ向かうために部屋を出た。部屋のドアを開けた瞬間、再び窓の外から蚊取り線香の匂いが流れ込んできた。
 やっぱり、なんだか無性に懐かしい。
 ユミと二人で、こんな風に気兼ねなく過ごせる今も、いつか懐かしく振り返る時が来るのだろうか。できればユミとは、懐かしさなんて感じるヒマもないくらいずっと仲良しのまま、いつもいつまでも一緒にいたいのだけれど。
 そんな私たちを見下ろす窓の外の空は、ただひたすら青く、どこまでも透明に広がっていた。


本作は某コミュニティサイト内で投稿されたお題をもとに執筆したものです。

本作のお題は「日焼け、怪我、『やっぱ珈琲牛乳でしょー』」でした。

 お願いだから、しばらくそのまま動かないで。
 私はそんなことを思いながら、一人の同級生の横顔をじっと見つめ、ノートにペンを走らせる。
 卒業に必要な単位を取るためだけに受けている、退屈な生物の授業。真っ白なページが、細胞組織や染色体のことではなく、彼の横顔のスケッチで見る間に埋まっていく。
 細い顔の輪郭。ちょっと長めの髪の隙間から、校則違反のピアスがキラリと光っているのが見える。すっきりと整えた眉。その下の少し眠そうな目。本当はわざわざ見つめなくてもいいくらい、しっかり覚えているのだけれど、やっぱり脳内イメージの彼より、実物を見つめるほうが、ずっと幸せな気持ちになっていられる。
 だけど最近、彼の横顔を見つめると、私は悲しい気持ちになることが増えた。

 原因は分かっている。
 彼の視線が私ではなく、私の友達をずっと追いかけていることに、気付いてしまったから。
 私の友達は、誰が見ても「カワイイ」と思うような人だ。しかも快活でクラスの中心的存在なのに、私みたいな地味で暗い女にも気さくに話をしてくれる。まるで、二次元の世界から抜け出してきたような人だ。
 だから、彼が私ではなく、友達のことを好きになったのは当然だと思う。

 私はうさぎ。自分のテリトリーを決めて、ごく限られた人としか付き合わない、臆病なうさぎ。だから、彼と話をしたこともほとんどない。せいぜい、こうやって授業中、彼の横顔をこっそりスケッチするくらいのことしかできない。もちろん、告白なんてできるはずがなかった。
 だけど、それでいいと思っていた。
 あの人が友達と幸せになるなら、私はそれをずっと見守っていよう。こんな地味子に好きだと言われても迷惑だろうから、海の底でじっと口を閉ざして砂に埋もれる貝のように、私はこの気持ちを誰にも言わないままでおこう。それが私の恋に対する、私なりのけじめだと思ったから。

 だけどそれは、裏を返せば一歩踏み出す勇気を持てない、幼女のように奥手な自分を正当化する、ただの言い訳。
 そう気付いたのは、たまたま彼が友達と話しているのを聞いてしまったから。
「お前、アイツにコクったりしねーの?」
「オレ、そんなキャラじゃないしな。それにアイツ、○○のこと好きらしいじゃん? だったらオレは潔く身を引いて、アイツの幸せを願うほうがいいって思ったんだ」
「お前は、それでイイのか?」
「アイツが幸せになってくれたら、オレはそれで十分なんだよ」
 そのやり取りを聞いて、私は無性に腹立たしくなった。

 あの子のことが好きなら、好きと言えばいいじゃない! 何も行動してないのに、いきなりあの子の元彼みたいに『アイツが幸せになってくれたら』なんて、物分かりのいいフリをしてるワケ? どう見てもアンタ寂しそうじゃん! 切ない顔してんじゃん! 未練タラタラで全然潔くないじゃん!
 ……そんな切ない顔してるあなた、見たくないよ。あなたの幸せを願ってる私の気持ちは、いったいどうなるの?

 そこまで考えたところで、いまのセリフが丸ごと全部、自分に返ってくることに気付いたのだ。
 ……ああ、自己嫌悪。

 私は、どうしたらいいんだろう。
 告白しちゃえばいい。理屈では、そう分かっている。多分、間違いなくフラれちゃうだろうけど、少なくとも行動を起こしたと自分を納得させることはできる。
 だけど、怖い。
 フラれるのが怖いんじゃない。こんな地味子が「告白した」なんて知られたら、きっとクラス中の笑い物になる。
 それが、何より怖い。
 晒し者にされるくらいなら、波風を立てず、ずっと静かな地味子のままでいるほうがいい。

 せめて、もっと自分に自信を持つことができたら、絡まり合った毛糸みたいなこの気持ちを、バッサリ切り捨ててしまうことができるかもしれないのに……。
 私は静かにため息をつくと、ほとんど描き上がっていた彼のスケッチをグシャグシャと真っ黒に塗りつぶした。


本作は某コミュニティサイト内で投稿されたお題をもとに執筆したものです。

本作のお題は「幼女、うさぎ、毛糸」でした。

「ヒロやん、久しぶりに一緒に飲まねぇか?」
 ゴールデンウィーク初日、私はそんな電話を受けました。
 電話の主は、大学時代に所属していた落語研究会の先輩でした。研究会にはほかにも数人のメンバーがいましたが、その先輩とは特に気が合い、住んでいる場所も近かったため、よく一緒に遊んだものでした。
 落語が好きなのは当然ですが、先輩と私は、落語以外の古典芸能も幅広く好きで、休みの日には二人で演芸場巡りをしたり、お芝居を見に行ったり。年に一度か二度は、歌舞伎や人形浄瑠璃を見るための小旅行もしたものです。
 大学を卒業し、お互いに就職すると、さすがに演芸場巡りや旅行はできなくなりました。しかし、連休や年末年始など、お互いに時間があるときには、一緒に飲みに行ったものです。しかし三年前に先輩が結婚し、翌年に子供が生まれてからは、それも沙汰やみとなっていました。
「おぉ、いいですね! ぜひお願いします。連休中なら、私はいつでもいいですよ」
 私は即答し、翌日の夜、近所の居酒屋に出かけることが決まりました。

「とりあえず生二つ。あと枝豆と唐揚げ、やみつきキャベツ、この『季節のオススメ』のハモの天ぷらと、菜の花のおひたしを」
 私はメニューを見ながら、サクサクと注文を決めました。「先輩の最初の注文は生ビールと枝豆と唐揚げ。それ以外は、私が好きなように注文する」というのが、十年以上前から変わらない、先輩と飲みに行った時の取り決めだったのです。
 私と先輩は、運ばれてきた生ビールを飲みながら、取りとめのない雑談に興じていました。
 お互いの近況報告や、仕事の話などでひとしきり盛り上がったところで、私は先輩に尋ねました。
「先輩は最近、ずいぶん楽しそうですね。やっぱりお子さんが生まれたら、人生、変わるもんですか?」
「変わる。間違いねぇ」
「即答ですか。子育て、楽しいですか?」
「楽しいぜぇ」
「大変じゃないですか?」
「そりゃもう、大変さ。それにな、オラァこう言っちゃなンだけど、子供なんて大して好きじゃなかったンだ。だけど、自分の子供ってなぁ別モンだわ」
 先輩は生ビールをグビグビと飲む合間に、枝豆と唐揚げをヒョイヒョイと口に運び、本当に楽しそうに話を続けました。
「よその子供はな。ワープしちまうンだよ。――あ、スンマセン、生中おかわり」
「……ワープ?」
 先輩のいきなりの言葉に、私は思わず聞き返します。
「ヒロやんさ、久々に会った親戚のおばちゃんから、『ヒロくん、大きくなったなぁ』って言われたことはねぇか?」
「あります。てか、ちょっと前まで言われてましたね」
「あンな、俺の両親はわりと頻繁に孫に会いに来てンだが、それでも月に一度か二度くらいのもんだ。すると、その半月、一カ月の間だけでも、子供は成長してる。ましてや数カ月、数年ぶりに顔を合わせる親戚なら、『大きくなった』と感じるのは当然だ。この前会った時はヨチヨチ歩きしかできなかった子供が、次に会ったら走り回って遊んでたり、小学生の鼻たれ坊主がいつの間にか立派な社会人になってたりする。おばちゃんの中で、ヒロやんはワープして成長しちゃってンだよ」
「……なるほど。言わんとすること、何となくわかります」
「ところが、自分の子ってなぁワープしねぇ。毎日、ちょっとずつ成長すンだ。ある日突然、寝返りを打ったり、起き上がったりする。そういうちょっとずつの変化を、リアルタイムで見ていける。こらぁ、親だけの特権なンだ。――あ、スンマセン。焼酎、ロックで」
 先輩は話しながらビールを飲み干し、空になったジョッキを店員に差し出しました
「あ、こっちも焼酎、お湯割りで」
 私もジョッキに少しだけ残ったビールを飲み干し、店員に渡しました。
 しばらくして運ばれてきた焼酎をチビチビと飲みながら、先輩は静かに言いました
「……しかしな、最近、ちっとばかし心配なンだよ」
「何が心配なんですか?」
「年を取ること……だな。自分が年を取ったと、否応なしに自覚させられることが増えてきてンだ」
 先輩の職場では毎年、勤務者全員が健康診断を受けているそうです。35歳までは身長、体重、血圧の測定と、胸部レントゲンだけだったのですが、35歳以上は全員、血液検査のための採血を受けるとのこと。また、40歳を過ぎると、腹囲測定――いわゆるメタボ検診――を受けなきゃいけないのだとか。
「年齢を重ね、結婚したり子供が生まれたりしたことで、変わってきたのは給料明細の額面だけじゃねぇ。ちょっとずつ腹周りは大きくなってるし、髪の生え際は後退してる。体力だってドンドン落ちてきてンだよ」
「それは確かに……、私も最近、ちょっとずつ体力の衰えを感じることはありますね
「だろぅ? 俺はもうすぐ40になる。10年後、子供が小学校の高学年になったときには50前。成人式にゃ還暦だ。なぁヒロやんよぅ。あの子の未来を、俺はいつまで見続けられるンだろうなぁ……」

 私と先輩は、その後も何時間かひたすらしゃべり続け、さんざん馬鹿笑いをした後、ラーメン屋へ移動。シメのラーメンを食べて終電で帰宅しました。
「あぁ、楽しいなぁ、ヒロやん。まったく人生ってヤツは、たまらなく楽しいぜぇ!
 先輩は上機嫌でそう繰り返していました。しかし私の耳には、先輩の「あの子の未来を、俺はいつまで見続けられるンだろうなぁ……」という言葉がずっと残っていました。


本作は某コミュニティサイト内で投稿されたお題をもとに執筆したものです。

本作のお題は「古典芸能(落語以外)、採血、給料明細」でした。

 私は久々に車を駆って、遠距離恋愛中の彼女の元へと出かけた。平日は仕事が忙しく、一緒に過ごすことができない二人にとって、どちらかの家に泊り込んで過ごす週末は、貴重なものだった。
 彼女を車に乗せ、かねてから予約していたレストランへと向かう。その道中のことだった。ふと、私は車内の暇つぶしに、数日前に知り合いから聞いた話を口にした。
「……オレの知り合いの話なんやけどな。まあ割と合コン行ったりして、彼女とっかえひっかえしてるような男がいてさ。ソイツについ最近、また新しい彼女ができたって言うのね」
「うん。それがどうしたん?」
「どうもその彼女が、これまでにない『束縛したがるタイプの女』らしくて、ソイツはえらく苦労してるらしい」
「……たとえば?」
「その彼女は大の酒嫌いで、彼氏が酒を飲むのも許せない。『仕事の付き合いなどで、やむを得ず飲み会などに出るのは許す。しかし、必ず自分に知らせろ。私に無断で酒を飲むこと、断じてまかりならぬ』と、厳しく言い渡していたらしい」
「ふむふむ」
「ところが、その彼氏は大の酒好き。彼女に隠れて、家で酒飲みまくってたらしい。ま、空きカンや空きビンなんかをきちんと始末しておけば、バレるわけないと安心してたんやね」
「……バレたんや」
「そう。マンションの合鍵を持ってた彼女が、ソイツの仕事中、カレを驚かしてやろうと、プレゼントを持って部屋にコッソリ入って、テーブルの上に置きっぱなしになってた缶ビールを見つけたってワケ」
「あーあ」
「修羅場だったらしいよー。ソイツは彼女に部屋の合鍵を渡すとき、『オレは自分のプライベートな空間を守りたいから、部屋に勝手に入るな。オレの仕事中に部屋に来て、『部屋で待ってるネ♪』なんていうのは、絶対やらないように』と言ってたらしい。『なんで約束破ったの!?』ってメソメソ泣く彼女に、『お前も約束破ったやろ!』とブチ切れたんだとさ」
「どっちもどっちやん。てか、そもそも、合鍵渡さんかったら良かったんとちゃうん?」
「そこらへんの事情は、オレにもよく分からへん。でも、どうやら付き合い始めた頃に、彼女からねだられて渡したっていうのが、真相らしい」
「はあ……」
「で、そこまでだったらケンカして仲直りした、っていう話で終わるんやけど、この話にはちょっと続きがあってな」
「何やの?」
「つい数日前、今度は彼氏のほうが、彼女の家に連絡なしで遊びに行ったんやって。彼女を驚かしてやろうと思ったっていうか、仕返しみたいなもんやね」
「あー、もう何か展開が予想できそうな気がする」
「合鍵使って彼女の部屋に入って、しばらく彼女が帰ってくるのを待ってたんやけど、トイレに行ったついでに、ふと洗面所を見たら、自分の使っている銘柄とは違う洗顔料とか、整髪料なんかの男性用化粧品類が並んでたんだって」
「あー……やっぱり……。でも、前の彼氏の物が残ってた、ってことはないん?」
「ソイツも、最初はそう考えたらしい。でも、ソイツはそれまでに何度も彼女の家に泊まってて、部屋の様子も知ってた。その上、置いてあった化粧品がどれもこれも真新しかった。だから、その時点で、彼女が自分以外の男を部屋に上げてることを、ほぼ確信したんだとさ」
「彼氏を束縛するだけしておいて、自分は浮気って、サイテーやん」
「普通の感覚で言ったら、そうなるよなぁ。で、部屋に帰ってきた彼女を問い詰めたら、『勝手に部屋入った挙句、アタシを疑うなんてありえない!』とブチ切れて部屋を追い出されたんだとさ」
「……ホンマ、どっちもどっちの話やね」
「それまでは、横で見ててもウンザリするぐらいラブラブのカップルやってんけどなぁ。何がきっかけで修羅場になるか、分からんわ……」
 話し終わった私は、長々とため息をついて、タバコに火をつけた。
「……ゴメンな。なんか変な空気になってしもたな。気分切り替えてご飯食べに行こ
「アンタのせいや、アンタの……。ところでさ、一つ聞いていい?
シートの足元に落ちてた、この女物の腕時計は誰の物なん?」


本作は某コミュニティサイト内で投稿されたお題をもとに執筆したものです。

本作のお題は「化粧品、車、時計」でした。

なお、お断りするまでもないとは思いますが、本作はフィクションであり、実在の人物、団体、事件などとは一切関係がありません。