まっすぐな道で寂しい | 広島大学病院乳腺外科ブログ ~広島の乳がん医療に取り組みます~

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広島大学病院乳腺外科スタッフが、乳がんのこと、日常のこと、感じたことなどを交代で綴っていきます。ぜひ、気軽にコメントもいただければうれしいです!
注:このブログは広島大学公式ブログではありません。発言内容は個人の見解であり、広島大学とは一切関係ありません。

こんにちは

広島大学病院乳腺外科の角舎です
 
暑い日が続きますね
一年で最も暑いこの日、わたしはこの曲がりくねった道の端に佇んでいます
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今日は水曜日
午前、午後と関連病院の診療支援に行く曜日です
午前は呉、午後は東広島と移動しますが、ここはその途中にいつも寄るセブンイレブンの交差点です
 
田舎に行くとのどかな道が続いています
どの道通っても、目的地に着くようなそんな田舎
ぼんやり運転してると、ふと
「こっちの道をいってみたらその先はどうなんだろう?」
と思うことはないでしょうか?
 
私は、何箇所か好きな道、「お気に入りの道」というのがあって、そこに来ると、この先に続く道や住んでる人はどんな人なんだろう、と勝手に想像してみたりします
 
 
こんな田んぼの中の曲がった道なんかいいですよね?曲がった先には何があるんだろう?曲がっててその先は見えませんが。
皆さんはどうですか?
えっ?何も感じない?
それもまた人それぞれですけど。
 
今日のタイトルの
「まっすぐな道で寂しい」
は、言うまでもなく種田山頭火の有名な句です。
この句の背景やら解説について、以下のように書かれています。
「種田山頭火は旅に生きた修行僧です。しかし、芭蕉の旅のように芸術を追究したわけではありません。旅から旅へ托鉢をしながら、もらったお布施で酒を買い、飲んだくれる破戒坊主です。

彼の自由律俳句の特徴は一切の技巧や約束事を排除して、自分自身の生の気持ちを表現するところにあります。
世間体やら名声やら評価やら、そんなものをすべて捨て去って「一切放下」してしまったところの境地です。

この俳句も、一般の人は「道がまっすぐであ
る」ことと「さみしい」ことの間に因果関係を感じ取って解釈しようとします。

つまり、「まっすぐな道だからさみしい」と読んでしまうのです。しかし、山頭火は「まっすぐな道でさみしい」としか言っていません。
なぜなら、彼は「たとえ道が曲がっていてもさみしい」からです。

また、一般の人は「道」=「人生」の比喩、と読み取ろうとします。それも山頭火を理解することにつながりません。


彼は、人生の何であるかを追究するために歩いたのではないのです。

「どうしようもない私が歩いている」

自分自身がどうしようもないから、歩く以外のことは思いつかなかったのです。つまり歩くことには
何の意味もない。

山頭火のすごさは、そこまで自分自身を捨て去ったことにあります。「人生には何の意味もない」、そう言い切ってしまえば、我々はいろんな束縛から解放されるのではないでしょうか。 」
 
解説をみると、全てを捨てた山頭火が曲がった道をみて感じることと自分の感じることは、同じ曲がった道を見ても違います。
やはり俗っぽく、
「まっすぐな道だと、先が見えてしまうから面白くない」
という気持ちです。
 
昨日、m3.comという医療情報サイトの取材を受けました。このサイトは、医師がよくみている医療情報サイトですが、NPOひろしまピンクリボンプロジェクトの活動に興味を持ってこられたようでした。
 
初めは、賀出さんと2人でサロンの場所を探し回ったこと、今のNPOスタッフと知り合った経緯、その後の活動の広がりなど、興味を持って取材していただきました。
その中であった質問ですが、
「病院で患者さん相手に治療するだけでも十分なのに、どうしてサロンをするんですか?」
 
確かにそうなんですけど
病院で患者さんの治療だけでもいいんですけど、それだけだと患者さんの不安が拭えないのは明らかなんです。だから、サロンを作って足りない時間を補うんです
 
「サロン以外にも色んな活動して大変じゃないですか?」
 
どの活動も大変かもしれないですけど、楽しいですよ
 
当たり前のこと、先が見えてることやったって楽しくない。
この先に何があるかわからないけど興味をもった道を選んで行きたい。
その先に何があるのか?
やっぱりまっすぐ行っておけば良かったって思うかもしれない
 
それでもやっぱり
「まっすぐな道は寂しい」
 
大変そうだけど、正しいと思う道に進んで行きたいですね