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新人小説家の彩瀬まる氏は、最悪の運命ともいうべき、311の「あの日、あのとき」、
正に渦中に、「そこ」にいた。
表紙の写真は、当時著者が乗車していたJR常磐線の車両。
著者がこの本に込めた文章と相俟って、
こんなに残酷で、ぞっとするほど美しい写真はないと思う。
2011年3月11日、ふらりと出掛けた東北への一人旅の途中、福島県JR常磐線新地駅で
『あの日、あのとき』の最悪の災害に遭遇し、絶対的な闇と濁流の渦に飲み込まれながら、
人の命と運命を残酷に飲み込んだ濁流の中にも微かに落ちる
『星々』のきらめきに導かれるようして、地獄の渦中の五日間を生き延びた手記は、
雑誌「新潮」に 『川と星』 と題して載せられ反響を得た。
その後、被災を共にした東北の地と、そこにいる人々と、ボランティアとして訪れ再会したエピソード、
『すぐそこにある 彼方の町』 と共に一冊になったものが、この 『暗い夜、星を数えて』。
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「3・11」という『題材』 は、今やあらゆるメディアから
まるで猛禽に食らい尽くされるかのように『消費』されている感がある。
だけど、この本だけは、そうした多くの『メディアの中の3・11』とは
一線を画すものがある気がするし、今後も多くの形で『題材として消費』されるだろう
「3・11という物語」の全ての中でも、この物語を超えるものはきっと出ない、という気がする。
最悪の災害の闇の中、その中でも決して消えない「星々」のきらめきを見つめ続けた
著者の澄んだ眼差しこそが、あの日、あの時
世界を覆ったかのような絶望の濁流と闇をも透過して差し込む星々の光という希望を伝える。
何かコトが起きたときというのは、本当にピンポイントな「渦中」を同心円状にするように、
その周りに色違いの様々な「非当事者」の存在が生まれる。
そして、好むと好まざるとに関わらず、そうした「渦中」から同心円状に波紋のように広がる
「非当事者」たちの存在の様々な色違いの「理解の齟齬」は、「差別」という言葉に現される
無知なる行為へと容易に還元される。
「絆」を、と声高に叫ばれ始めたときには、きっとすでに、渦中の当事者と非当事者との
差異と差別性、理解の齟齬、「あの瞬間」からの段差は、生じてしまっていたのかもしれない。
絆を、と叫ぶ前に、そこにいた彼らは、互いの命の灯火を闇の中に微かに瞬く星のように目印にして、
確かに寄り添っていた。
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著者が如何に、「あの日の渦中の当事者」になったといったって、
著者は他に住む地のある通りすがりの旅行者であり、現地人ではない、
という 「当事者と非当事者の眼差しの差異から生まれる差別体験・差別性」は、
否応なく自然発生してしまう。
福島での、地震、津波、原発爆発、地球上最大最悪の複合災害の渦中にいた著者が記した
この本の中には、「東電」と政府の、被災地での、正に「あの瞬間、そこに」いなければ、
決して見られなかっただろう、ある「所業」が記されている。
その一節だけでも、本が一冊書けてしまうような情報であり、「題材」だ。
それをいうなら、この本の文章の多く淡々と記述している一節一節が、
掘り下げればもっと多くの言葉を詰め込み費やしうるもの、
卑しく言えば、『字数を稼げる』はずのものなのに、著者はそれをしない。
著者は、今回の災害への遭遇の自身の立ち位置そのもののように、
まるで通りすがりの旅行者のように、それらにはノーコメントでただ事実として記すのみ。
著者の、多く 「淡々と、抑制された」 と指摘される言葉は、
当事者との一体感を求めるかのような貪欲なのめりこみでもなく、突き放した冷たさでもなく、
その「行間」に、目配せや思わせぶりや含みさえ持たせず、
ただ痛んでいる人の手をそっと握り締めているかのような、ただ共に、そこにいる温もりを感じる。
著者の文章は、抑制されているというより、身も心も凍りつくような極限のギリギリから
発せられた言葉は、氷の温度を持つのかもしれない、と思わせる。
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著者は、自らの存在さえもが、「真の当事者」からすれば「非当事者」であり、
そこから自然発生する差別性を見落とさず、自らの「差別者」たることを見抜く。
著者の、この、「あの日」という激震によって生じた、
今日まで続く波紋の揺れを読み解く澄んだ眼差しは、とても貴重な、「あの日と今日」、
「渦中とそこから広がる波紋」、理解の齟齬・段差、「当事者と非当事者の間の差異・差別性」の、
全てを見抜き見つめる大事な視線だと思う。
そうした著者の眼差しを可能にさせているものは、全てにおいての悪者を探し、
何かを裁かずにはいられない大上段な正義感でもなく、潔癖な道徳観念でもなく、
『この運命的状況に選ばれた「私」が見聞きし体験していることである。』
という歪んだ自己主張でもなく、そうした自意識の臭いが一切しない、
あのとき著者が覗き込んだ、多くの命を飲み込んだ深い絶望の川の底の中にも
きらきらときらめく温かな光を見失わなかった著者の、
闇の中に消え入るように瞬く星の光のように揺れ易く弱弱しいけれど、
最後まで人を信じ肯定している、温かい眼差しだと思う。
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3・11という「題材」は、社会評論家、アーティスト、マスコミ、市民活動家、
あらゆるメディアに「消費」されている。
あの出来事は、超常的でさえあったと思う。
けれど、あの超常さに向き合い表現しうるのは、
猛々しく『表現を武器として現実と戦う表現者』を自認する人たちより、
人よりほんの少し表現の訓練をしていただけの、「ひどい出来事」に易々と心揺れて心砕けてしまう、
普通で優しい感性を持った、決して何かと戦えるほど強くなどあれない弱いひと、
でなければならなかったのではないかと思う。
あの当事者の人口のほとんど全てである、
「普通の人々」と同じ地平からの眼差しを持てるひとであらねばならなかったのだと思う。
それと同時に、あまりの衝撃に口を噤むしかない当事者たちより、
多くのメディアのように、完全な外部から来て、当事者を「代弁」しようという意気込みに燃えていることが
すでに非当事者の態度を明らかにしている者たちより、
あの「出来事」から、ほんの少しだけ部外者の立場だったということ、
当事者でもあり非当事者でもあり、当事者でもなく非当事者でもないという、
伝達者としては絶妙の立ち位置だったと思う。
この物語は、彼ら、そこにいる当事者たちと、ここにいる私たち、非当事者たちの間を分断する冷たい激流に、
揺らぎ、惑い、闇と濁流に飲み込まれそうな光のように瞬きながらも掛けられた、結節点だと思う。
彩瀬まるさんは、不謹慎な言い方だけど、この出来事を書く為に、選ばれた人のようにも見える。
震災、津波、原発、被災者たち、東電、政府対応、
放射能、当事者と非当事者、復興とは、あの日、あの時、飲み込まれたもの、
その全てが眼前に見つめられ描かれていながら、この表紙のように、
この世の終わりのように荒れ狂いながら、それでもなお穏やかな顔を取り戻す、あの日の海と川のように、
あらゆる言葉と痛みと物語を飲み込んで、なお静謐なこの一冊は、
真摯で謙虚な書き手による「あの日」の体験者の貴重なリアルタイムの真実の記録として、
真の3・11のある側面の記録として、静かに人々の記憶の川に沈殿し、永らえていくと思う。
