日本の貨幣史 Ⅴ【前】近現代 新貨条例 

 
 

銀行制度

拾円日本銀行兌換銀券

国立銀行

明治政府は不換紙幣である政府紙幣を大量に発行して、1867年から1868年にかけては政府歳入の7割に達していた。この状況を改善するために、イギリス式の中央銀行と、アメリカ式の分権的な銀行を参考に検討をする。結果として、アメリカの国法銀行法英語版)を参考に1872年(明治5年)国立銀行条例を制定した。この条例は民間銀行による兌換紙幣の発行と貨幣価値の安定をはかる内容で、国立銀行とは「国法によって立てられた銀行」を指すもので、実際は民間銀行である[111]。こうして設立された国立銀行は兌換紙幣として銀行券である国立銀行紙幣を発行して、のちに1876年(明治9年)の条例改正で不換紙幣の発行も可能となる。国立銀行は決済手段や金融仲介サービスを提供したが、不換紙幣は解消されずインフレーションを招き、紙幣整理が行われた。1880年(明治13年)までに国立銀行は153行が設立され、現在の銀行の起源となったものも多い[112]。国立銀行のほかに、紙幣の発行はできない私立銀行も多数設立された[113]

中央銀行

1882年(明治15年)に中央銀行として日本銀行が創設された。これ以後は日本銀行が唯一の発券銀行となり、国立銀行紙幣の回収にあたる。そして1885年(明治18年)に最初の日本銀行券にあたる日本銀行兌換銀券が発行された[114]。銀券発行により日本は銀本位制に移行して、物価の安定は達成したが、当時は国際的に金本位制が普及しており円為替レートは1897年(明治30年)までに40パーセント以上切り下がった。円安によって輸出は促進される一方でインフレーションが持続して、金本位制の採用につながる[115]。日本銀行兌換銀券の図柄には、国立銀行紙幣新券の恵比寿に続いて大黒天が採用され、商売繁盛を願うのが理由とされている。「兌換銀券人物描出の件」という閣議決定がなされ、肖像にふさわしい人物として、日本武尊武内宿禰藤原鎌足聖徳太子和気清麻呂坂上田村麻呂菅原道眞があげられた[116]

朝鮮、台湾との関係

当時の日本の政策は、周辺地域の通貨制度にも影響を与えた。李氏朝鮮とのあいだでは1876年に日朝修好条規を結び、日本の通貨が朝鮮の開港場で使用できるように定めた。日本の国立銀行である第一銀行韓国総支店は業務を拡大して、1902年(明治35年)に第一銀行券を発行し、大韓帝国の通貨として流通させた。のちに設立された中央銀行の韓国銀行(朝鮮銀行)は、創立事務を日本政府が行い、重役が日本人であり、韓国銀行券は金貨または日本銀行兌換券と交換できる点など、日本への従属を前提とした金融機関であった[117]台湾は、1895年(明治28年)に日清戦争後の下関条約によって中国のから割譲され、1899年(明治32年)に台湾銀行が設立された[118]

金融恐慌

銀行制度は現在のように整備されておらず、1920年代から銀行の取り付け騒ぎが頻繁するようになった。のちの1927年昭和2年)には昭和金融恐慌を招くことになる。大規模な取り付け騒ぎで紙幣が不足したことから発行された二百円紙幣は、緊急だったため片面だけの印刷で、偽札と間違えられて逮捕された所持人もいた[119]

金本位制

1897年(明治30年)に日清戦争軍事賠償金として得た金額は3億6000万円で、1895年(明治28年)の日本のGNPの2割以上にあたる。この賠償金を金準備金に設定して、金本位制を軸とした貨幣法が施行された。公的には新貨条例から金本位制が定められていたが、この時点までは事実上の銀本位制で、1円=金0.75グラムとされた。金本位制の本格的な採用によって外債の発行が容易となり、日露戦争の戦費調達のために10億円の外債を発行したほか、日露戦争の勝利で対外的な信用が高まって地方債や社債も海外で発行された[120]

金輸出解禁

第一次世界大戦の影響を受けて、日本は1917年大正6年)9月に金輸出の禁止を行い、金本位制を停止した。大戦期のマネーサプライの平均増加率は29パーセントで、大戦期間のインフレ率は年平均15.29パーセントとなった[121]。大戦後の1919年(大正8年)にはアメリカをはじめとして各国が金本位制を再開して、1922年(大正11年)のジェノヴァ会議では、各国に金本位制への再開を求める決議がなされる。日本でも金本位制再開のための金輸出解禁(金解禁)について検討が進むが、1927年(昭和2年)の昭和金融恐慌の影響もあって決定が遅れ、業界団体、新聞の経済部、商工会議所などから金輸出解禁の要望が出された。1929年(昭和4年)には、世界恐慌ののちに金輸出解禁の方針が発表される。世界的な不況のなかで金輸出解禁が適切であるかについては、政策担当者のあいだでも激しい論争があった[122]。金輸出解禁の実施は1930年(昭和5年)1月となり、100円=43ドルから44ドルだった為替レートは旧平価の49ドル85セントに戻された[123]

昭和恐慌