日本の貨幣史 Ⅳ【上】近現代 新貨条例 紙幣の国産化 

 

 

近現代

新貨条例

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一圓金貨(原貨), 一圓銀貨

一圓金貨(原貨), 一圓銀貨

1867年王政復古が宣言されると、維新政府は1868年明治2年)に金座や銀座を貨幣司に吸収した。藩札については、1871年(明治4年)の藩札処分令によって廃止された。同年2月に現在の造幣局にあたる造幣寮が開設されて、5月に新貨条例の制定があり、という単位が正式に採用された[104]。当時はイギリスから広まった国際的な金本位制が普及しており、新貨条例では金本位制が採用され、アメリカ・ドルの1ドル金貨に相当する1円金貨を原貨とする本位貨幣が定められた[105]

貿易専用銀貨として、1円銀貨も発行された。モデルとなったのはメキシコの8レアル銀貨(メキシコドル)で、レアルは貿易決済用として国際的に流通していた洋銀貿易銀)であった。銀貨は貿易専用だったが、貿易銀として国際決済に用いられることが増え、また本位金貨の絶対数不足のため、1878年(明治11年)には貿易銀も本位貨幣扱いとされる。新貨条例は金本位制をとりつつも、事実上は金銀複本位制となった[106]

明治通宝1円紙幣

1868年(慶応4年)から1869年(明治2年)まで、明治政府により太政官札が発行される。戊辰戦争の戦費や殖産興業の費用調達が目的であり、これが初の日本全国で通用する政府紙幣不換紙幣)となった。明治政府は1870年(明治3年)にフランクフルトのドンドルフ・ナウマン社に発注して明治通宝を発行して、1871年(明治4年)7月には現在の国立印刷局にあたる紙幣司が設けられた。新紙幣はドイツで作られたため、ゲルマン紙幣とも呼ばれた。1873年(明治6年)には国立銀行紙幣の旧券が印刷され、天の岩戸開き、蒙古襲来神功皇后などの神話や歴史のテーマが図柄に採用された[107]

紙幣の国産化

政府紙幣(一円券) 1878年(明治11年)

新紙幣の偽造防止のために、当初は「明治通宝」の文字を書家が手書きしていた。しかし、1日あたり約500枚が限界であったために木版に変更となった。押印の手間に加えて、外国で紙幣を製造するコストの高さや、緊急時の発行が問題視された。こうして1874年(明治7年)には紙幣製造の機械と版面がドイツから運ばれ、技術指導の技術者の派遣も決定した[108]

1875年(明治8年)には、ドンドルフ・ナウマン社で働いていたイタリアの版画家エドアルド・キヨッソーネが来日をして、紙幣司で製造にあたった。キヨッソーネは改造紙幣1円札で神功皇后を描き、これが日本初の肖像入り紙幣となる[109]。のちの新券では、富国強兵や殖産興業など当時の政策に合致する水兵や鍛冶屋が採用された[110]

銀行制度