BS11「頑張れ居酒屋」を観ています。喋っている大将や女将さんを見ると、涙が滲む。何だろう、長いと言っていいか短いと言って・・・。そんな今の人生から眺めると、そんな気になってしまう。
どんなドラマを観ても、必ず溢れる涙。何故なんだ。「水戸黄門」や「遠山の金さん」を観ても、必ずどこかでぐっときて、瞳を横に拭う。何故なんだ。
今、確かに焼酎は飲み、ビールも飲み、だからと言って、飲んだから涙が・・、と言う訳ではない。答えは簡単だ。そこに人間がいて、上下の立場はあるが優しい心があるからだ。長いか短いか、そんな人生を歩いて来て、最後に辿り着く所は、人との触れ合いと、そこにある反省の心。自分中心を180度変えてみると、そこに自分が相手の心になっている。
人は、皆一緒だ。同じ事を結局は感じていると言う事を感じる昨今だから。自分を通し過ぎると、何処かに後悔がある。だんまりを決め込んでいると、そこにも後悔がある。
人間は、皆一緒だと言う事。自分が偉い訳でもなく、優越感を持つ必要もなく、葡萄の1房を見ればいい。皆一緒だろう。全く重なっていると言う事は絶対ないが、それこそ個性の表れだと言っていい。自分のキャリアを全て終わった時、そこは裸の世界だ。人は、相手を思い遣りながら、出たり引っ込んだり、そんな接し方でいい。誰が偉いとかそうでないとかなど、考える程馬鹿々々しい。
ハグって、そんな時に生まれるのだろう。自分は自分、他人は他人。何かになろうとか何かをしようとか、それは夫々が考える人生である。素のままフランクに温もりを感じられる瞬間。それがハグだと思った。思いは誰とでも通じると言う真理を、私は感じる。
はっと気が付いて、私は自己中の自分を思った。人間は皆一緒だと思った時、そこから人生がまた始まる。清々しい発見に、哀しいものはない。
私は、オカリナの演奏を依頼される時、オカリナと講演を抱き合わせで頼まれる。それもそうだ。1時間半、オカリナの吹きっ放しで喜んでくれる人など殆どいないと思える。その時私が話すのは、「あかさたな」(笑)。
人は、この5つを心に置いて接するなら、必ず争いのない、喜びに満ちた世界があると話す。自分が思った事を、ただただ話す。この「あかさたな」を持って気を付けていれば、あの葡萄の1房のどれかだと思える喜びが膨らむ。
あ・・愛する、か・・考える、さ・・察する、た・・楽しむ、な・・仲良く。自分で考えた事だが、果たして今の自分に全部備わっているかと言えばそんな事はない。まだまだ反省の連続であるが、私は、自然体で、等身大の自分に、これらの味付けをして歩んでいこうと思った。何でこんな事を書くのだろう。見て貰えなくてもいい。酒が、私にこんな一瞬を齎したのだった。
偉そうに、ごめんなさいまし。何と家族の1人が、この部屋に皿に入ったたった1粒の苺を持って来た。思わず言った。
「えっ、たった1個」
たった1個。それでも自分を誇っている苺だった。私は、しっかりとこの苺と対峙して、ゆっくり味わって食べようと思った。このたった1個の苺は、私に向き合って何を思っているだろう。私は、急にそれを愛おしく思った。小さなたった1つの苺に、芸術と思えるほどの種が沢山模様となって美しい。
このたった1つの苺の命を、私は慈しんでいた。1個1万円などとそんな苺ではない。十数個が500円にも満たない苺に、自分が生きている尊さを教えられた。そして、私は苺に微笑み、美しさを思い、この1つの苺を運んで来てくれた者にも、それを持って行くように指示した者にも、ここに存在したこの苺にも、その出会いと不思議を思い、ありがとうと思う。苺の種の1粒1粒は、まるで私の涙のよう。