席に座ってパンフを手にした時、そう読んでしまった。ワンコイン・コンサートをワイン・コンサートと。冗談でも何でもない。ワンコインを、ワインと読むなんて、自分もどこか抜けている。
久し振りのピアノコンサートだった。兵庫県立芸術文化センターの大ホールが略満員状態なのが、私には理解し難かった。ワンコインだから、それなりのものだとの先入観があったのかも知れない。しかし、小ホールではなく大ホールだ。太田糸音(しおん)と言う名前は初めてだった。
コンサートはかなり聴いて来たが、終わったら必ずホール近辺で安く飲める所を探して飲んで帰っていた。最近少し遠退いていた所為もあって、こんな雰囲気の中、ふと飲みながら聴けたらと思った。それで、ワインと早とちりをしてしまったと言う訳だ。
糸音さんを知っている人が結構いたのではないか。プロフィールを観て、驚きの方が大きかった。パンフの最初の部分を引用してみたい。「2000年生まれ。2017年東京音楽大学付属高等学校を2年次で早期終了。飛び入学にて現在東京音楽大学ピアノ演奏家コース・エクセレンス3年、特別特待奨学生として在学中」。勿論小学生時代からコンクールでは数々入賞し、また管弦楽団や交響楽団とのコラボは数多い。まだ19歳か20歳ではないか。
ふんわりとしたドレスのようなスカートは、薄紫色をしていた。私は比較的前の席で、それも左端の辺りだった。ピアニストの腕や指の動きははっきりと見えた。真ん中や右の方だったらまったく見えないこの席は、私に取っては例えようもない特等席だった。
シューマンの「アベッグ変奏曲op.1」の最初の音とその波打つ速さやしなやかな腕から指の先までの連携が、今まで見た事もないような動きだった。驚きからすぐに魅了の世界に転換した。早いパッセージは行き交う指が、目まぐるしく鍵盤を波の様にうねらせていた。
スタインウエイをこれだけの音に変える技の凄さを感じた。音も、澄んでいる。どの曲も、スタインウエイが喜んでいるように思えた。ショパンの「12の練習曲op.10より」最初の6曲が演奏された。午前の部もあったがそれ以外は曲は全部違った。私は午後の部(3時開演)を聴きに来ていた。
「バラード第4番へ短調op.52」「ノクターン第16番変ホ長調op.55-2」も惹き付けられっ放しで、糸音さんがショパンの姿に変わって演奏が繰り広げられているように見えもした。
後2曲はリストの「愛の夢より第3番変イ長調『おお、愛しうる限り愛せ』」と「パガニーニ大練習曲第3番『ラ・カンパネッラ』が続けて演奏された。最初の曲の感動が引き続き、最後の「ラ・カンパネッラ」で大きく渦巻いた。こんな「カンパネラ」を聴いたことがなかった。普段買わないCDを手に入れたかった。
大声援の後アンコールはショパンの「ワルツ第5番変イ長調『大円舞曲』op.42」。月並みな表現だが、ワンコインで約1時間、これだけの演奏が聴けたとは。ワンコインでなくて、午前と午後の部を全部聴きたかった。
CDはどこにも見当たらなかった。どうなっているのかは定かではないが、学生はCDを販売しない了解があるのかも知れないと思った。もし売られていたら、求める長い行列が続いた事だろう。いつかゲットできる日を待っている。
この近辺に、チケットの半券を提示したら最初のドリンクは只と書いてある店があった。釣られて入って行った。ワインではなかったが、ビールとトマト酎ハイを飲んだ。まだ頭をぐるぐる巡っている「ラ・カンパネッラ」を聴きながら、ワイン・コンサートは暫し続いた。
9月6日(金)