7月24日から27日までの実際の物語。
私は、何をし、何を見、何を食べ、何を思い出したか。
神戸から出雲へ。出雲から神戸へ。その幕が開けられ、幕が閉じた一瞬の出来事だった。

24日(月)

朝10時半頃、垂水駅の西口ロータリーに車を走らせた。K君が宝塚から来て待っていた。ここから出雲まで、285キロの旅が始まった。時間は決まっていない。

米子道に入ると、先ずは蒜山を目指す。必ず入るSA蒜山がある。彼も私も目的は1つ。大山の濃いジャージー牛乳で作られたソフトクリームを食べる事だった。もう有名になったこの一角。何人かはいつも並んでいるが、今もそうだった。

有名になれば値段が上がろうと人は食べようとする。380円はちと高い気もした。気合いと気持ちで食べるから、何だか美味さも増し加わっているようだった。

2人共、お昼ご飯は余り食べたくもなかったが、肉うどんを食べる事にした。何だかんだ言っても、結局私など出汁は最後の1滴まで飲み干した。美味い出汁は必ず最後まで飲む。今までに、余り不味い出汁に出会った事がなかった。

青々とした景色を見ながら、話も止む事がなく出雲へと向かう。出雲市駅の裏、つまり、南側に建てられている出雲グリーンホテルモーリスへ彼を下すと、そこで別れ、私は上の妹のいる家に着いた。3時半頃だったと思う。折角仕事を休んでくれているので、昔話をしたりした。周りの田んぼは青々として心も洗われる。私もK君も、この地では高校生の終わりまで住んでいたのだった。

ゆっくりしてから、私と上の妹Kuは別々の車を出雲縁結び空港へと走らせた。略6キロの道程で、着いたのは6時25分前だった。横浜の下の妹の家族が4人、この飛行場に着く。予定は30分。電光掲示板には5分遅れが表示してあった。

私が4人を乗せて帰れば1台で済むが、妹は私に2階の売店で見せたいものがあったのだ。それがノドグロの開きで、大き目のもので2,700円で売られていた。如何に高価なものかを見せたかったのだ。

納得しながら1階のお迎えのスペースに行った。どんどん下りて来るが、大抵最後の方になる。やっと顔を見て旦那と悠介と弟のKeiの3人が私の車に乗り、下の妹TaはKuの車に乗った。

もう7時になる。直接、毎年必ず寄る大きな食堂に直接行った。

6人全員が違ったメニューを注文した。Keiは毎年うな重を食べる。彼が最高高値のものになるが、明日25日は土曜の丑の日だ。しかし、私は手が出せない。けれど、トンカツ定食は美味しかった。

帰りはスーパーに寄って、妹達はジーマを買い、私はビールとノンアルコールのビールを買った。家では乾杯をする。男は私を除くとアルコール飲料は少ししか飲めないので、私がやっと考えたのがノンアルコールだったのだ。これなら、気分は皆ビール色だ。

夜中も2時頃までだった。話より眠りが勝った。Kuは皆の持て成しで遅く寝て早く起きる。私もそれに倣うのが常だった。

7月25日(火)

8時半過ぎにはTaが起きて来て、10時頃には悠介だったりKeiだったりする。旦那はその後で下りて来る。

午前中に行くべき所に行こうと決めて了解していても、殆ど午前中に行けた事はない。この日は島根ワイナリーと出雲大社に行く事になっていたので、私は折角だから日御碕神社にも行く事を提案した。

昨夜の雷は凄まじいものがあったようだが、私はその時は既に寝てしまっていたので何にも感じないでいた。

朝雷鳴があり、こんなのが幾つもあったのかと思った。確かにこちらに近付いたら怖いだろうと思った。やっぱり午後の出発となったが、雨の途切れた頃に車に乗ったので、誰1人傘を持って来なかった。途中から激しい雨となり、2台の車はワイパーを最速にしなければならなかった。

何故か誰も心配した様子もなく、「着いたら止むよ」と口走ったり、それを疑う様子もなかった。

出雲大社の駐車場に着くと、雨は綺麗に止んだ。これはラッキーだったが、皆は「神様が歓迎している」と真面目に思っていた。それにしても、こんな事があるとそう思わずにはいられない体質があるのだろう。

神楽殿と本殿で2礼4拍手1礼をして、一回りすると車に乗って、日御碕へと向かった。上り坂、ヘアピンカーブの上り道。日御碕灯台はパスして、そのすぐ手前の日御碕神社に詣でた。天照大神と素戔嗚尊が下と石段の上とに祀られている。朱塗りの美しい神社だ。

普通のおみくじ50円。金色の小さな稲穂やカエルなどの入ったおみくじが200円。皆私に倣って、このおみくじにした。私は何年もこれで、今回は初めての真ん中を射た的が入っていた。おみくじは末吉だったが、要は「感謝の気持ちで努力を重ね、謙虚に生きるべし」と言ったような事だった。それは大切な事だと私も思う。

雨は降らなかった。それから島根ワイナリーで皆はお土産を買ったりした。赤ワインの塩、白ワインの塩、ロゼの塩。赤ワインの塩が目に付いた。特に赤ワインの味がすると言うのでもなかったが、悠介も私も面白くてそれを買った。瓶は 1,000円近くする。なので、セロファン紙に入った100円の塩にした。赤と白。赤と言っても赤に近い紫色の塩だ。

それから雨はぴたりと止んだが、あの激しい雨は何だっただろうか。歓迎の雨。そうだったら嬉しいのだが、兎に角信じられない程の大雨に濡れることなく出雲大社と日御碕神社が回れたのが何よりだった。

K君と一緒に帰ったのには訳があって、私が帰るとミニ同窓会を開いてくれる仲間がいて、K君も参加する事になっていたのだ。

7時から、同級生が営んでいる飲み屋「輝子」で集まった。私は何度来たのだろうか。ここのママも入れて女性が4名、男性が4名となった。飲んで騒いで丘には登らなかったが話は途切れない。私に態々会いに来てくれたD君がいて驚くやら嬉しいやら。だが彼はこの日来る予定でもなくすぐに帰ったが、つい先日胃を全部切ったと言っていた。何も食べられないのが残念だ。

暫くしてカラオケを歌い出した。ここの音響は歌っていて気持が良い。私は歌う気など更々なかったのに、「昴」を誰かが入れていて歌わなければならず、それからは数曲歌ってしまった。

誰かが「オカリナを吹いて」と言った。鞄に一応は入れていたので、伴奏なしで3曲も吹いた。指はオカリナを吹く時は痛くない。ややスピードは落ちるけれども。他のお客も聴いてくれていた。カセットデッキを持って行って吹いた事もあるが、今回は要望がなかったら吹かない事にしていたのだ。

ではまたと握手をしながら別れたが、11時前だった。Kuに迎えに来て貰った。

帰ると皆起きていて、それからまたビールと焼酎、ジーマとノンアルコールビールで乾杯。出題者が20問単語を決めて、後の者は只管20問を記憶する。全部言い終わったら紙に書いて行くのだ。昔は自信があったものだが、今でも自信があると思っていた。が、若い分悠介が15、6問覚えていたのには恐れ入った。

次は出題者が代わった。私の記憶はがた落ちだ。今こうしてブログを書いていて分かった事だが、他の者は酔っていない。私は、飲んで飲まれてまた飲んで、そんな中での記憶力テスト。こりゃあ駄目だったと納得だ。来年と言っても、飲まずにやれる訳がない。まあ、爺さんは爺さんらしく、蝉のようにジイジイ鳴いていたらいいと思う。

7月26日(水)

朝はからりと晴れていた。でも、いつもの事で起きるのが遅い。私とKuは、いつも早く起きて持て余している。いやいや、Kuは皆の為に恐ろしく美味い料理を作ってくれているのだ。

今朝と言っても皆が食べ始めたのが10時をとっくに過ぎていたから、朝昼兼用となる。私は出雲に帰ってこれが食べられたら最高に幸せなので、それを恐ろしいで表現している。私のセレクト3種の神器はこれだ。ナスの味噌炒め。玉子焼き。牛肉の甘辛煮、または牛肉ピーマンの・・。

これに味噌汁が付く。味噌が美味いのだろうが、タマネギと豆腐を入れると言ったので、ジャガイモも入れて貰った。昨夜は、蜆の味噌汁だったと思う。皆が食べ終わったのが11時半頃だった。これなら兼用と言うより、単に昼食と言った方がいいのだろう。

11時出発と言っていたメインの美保関は、とうとう2時前になった。

松江市内だが、半島の先。それは67キロ先になる。鳥取県との県境にある。最初に美保神社に行くと決めた。それは閑静な、鄙びた、心の鎮まるような境内だった。造りは出雲大社によく似ている。それもそうだろう。大国主命の息子、事代主神(ゑびす様)がお祀りしてあり、それはゑびす様の総本宮でもある。三穂津姫命の2柱が祀られている。

青畳石通りがあり、随分寂れた感じだが不思議な雰囲気を醸し出し、19年前には貴乃花も参拝しており、その他有名人もやって来ている。もう1度来ようと思っている。美保湾が美しい。

それから美保関の灯台に寄った。ここは航海の安全を祈願して、たくさんのお地蔵さん祭られていた事から、地蔵埼と呼ばれている。山陰一の最古の石造りで、1898年(明治31年)に地蔵埼灯台として建設されている。光源は石油で1等レンズ(内径1.8メートル、高さ2.8メートル)が使用され、光度は67,500カンデラだったそうだ。

各地に地蔵埼の名称があり、大正11年に美保関灯台と改称された。今は460,000カンデラと言う。地上から頂部まで14メートルとかなり低い。が、日本の灯台50選の5位以内に入っている。世界の歴史的灯台100選にも入っているのだ。

灯台の外から日本海に浮かぶ隠岐の島が見える。左が島前、右が島後だ。与謝野鉄幹、晶子の短歌がある。

「美保関 事代主の御燈にも 烏賊乾しわたす 注連縄張る如く」 晶子

「切石を 敷かぬ方なき 磯の町 三味の音して 水に灯映る」 鉄幹

高浜虚子の俳句にこんなのがあった。

「烏賊の味 忘れで帰る 美保の関」 虚子

烏賊が食べたくなった。

もう皆夜は作る気がないらしい。Taが、[もう1年も食べていないから、それが食べたい」と言って、皆それに靡いた。元の67キロの道を引き返し、出雲の「You Me タウン」に行った。外国のモールのように広いが、そこで先ずケンタッキー・フライド・チキンを買う。

そこから帰りに王将に寄り、チャーハンを人数分買った。これは正解だった。フライドチキンだけだったらお腹は満腹にはならない。チャーハンのお蔭で、満足の夕食となった。ナス炒めも出て来た。また同じパーターンの飲み物で、私は少し酔った。

明日は私は帰るので、早目に寝る事にした。毎晩2時3時までは辛い。本当は27日ではなく、28日に横浜組を飛行場に送ってから帰るのだが、今年は28日にどうしても車が要るらしい。それで、K君の帰る日に一緒に帰る事になった。

7月27日(木)

K君も出雲に生まれ育っていたから友達と会い、結構楽しんでいた。朝電話が掛かったが、私の携帯がとても変だった。ただ、2時半にホテルに迎えに行く約束は出来た。朝は、やっぱり食べなかった。

悠介が起きて来て、彼を出西窯に連れて行った。お世話にこれからなるだろう人に、ご飯茶碗をお土産にすると言う。ここの藍色は素晴らしい。いいものを1つ選んだようだった。ここではコーヒーが飲める。また生姜糖が食べられる。私は買わなかったが、コーヒーと生姜糖は頂いた。

昼前に、ナスと牛肉はなかったが、玉子焼きが出て来た。この大きさなら卵10個は使っていると思う。一切れの貫録たるや凄い。何と、ノドグロが出て来たではないか。もう食べられないと思っていたものが食べられた感動は忘れられない。食べ乍らも食べ終わっても、何か話していた。

後2時間。後1時間。後30分。後15分・・。

「もうそこでいいよ」

と言ったが、道に出て来て皆が送ってくれた。次の再開を祈り、また明日までいた筈がいられない状況を詫び乍ら。しかし、折角の雰囲気のいい別れに、もう1度戻った。このPCを忘れていたからだ。ああそうだ。昨日の夕方はお墓参りをしていた事を記さなくちゃあ。

出雲グリーンホテルモーリスに着くとなんとD君が来てくれていた。高校生になった時同じ学級になった。その時、出雲大社まで歓迎遠足がある。行く道中D君は盛んに私に話をして来た。そして仲良しになったのだった。

もう、去年東京で同窓会をしたのを加えても50年振りだ。彼は胃を切ってしまったが、釣りは大好きで、来年は船で烏賊釣りに行こうと言う事になった。私は、釣り上げてすぐにワサビに醤油を掛け、それで透明の烏賊を食べたかった。彼は本当に釣りが好きなんだなと思ったのは、そのまま切って、海水に浸して食べるのが一番だと言った。もし実現するなら、私は取り敢えずチュウブに入ったワサビと小さな醤油の入った入れ物を隠し持って行く積もりだ。

30分話して、D君と別れた。K君と車に乗ると、只管神戸に向かってアクセルを踏んだ。

最初に寄ったのが、蒜山のSAだった。ソフトクリームが食べたかっただけだ。外は雨後の為か中で売っていた。それは350円で、しかもコーンに盛られていた。なんと濃くて美味い。30円も向こう側の蒜山よりも安くて美味かった。

そして垂水駅を目指した。西口のロータリーで別れ、彼はそこから宝塚へと帰って行った。中国自動車道で福崎 I Cを下りないで真っ直ぐ進んだら宝塚まで行く。でも、垂水駅になった。申し訳ない気もする。

何をし、何を見、何を食べ、何を思い出したか。

それは神社を訪れ、美しい景色を見、茄と卵焼きと牛肉を食べ、全て人との絆の深さと懐かしさを思い出したのだった。人って、何て素晴らしいのだろうかと・・。

人との繋がりを大切に、それを感じさせてくれる偉大なものへの感謝。それを強くした旅だった。だが、それはあっと言う間もなく過去に流されて行った。また会おう。また会いたい。私も、歳を取ったものだ。

皆、出来るだけ元気でいよう。そうして、再会の瞬間を楽しもう。感謝に堪えない4日間だった。あっと言う幕引き。