三田市は遠い所にあると思い込んでいる。今日はそこのデイサービスの施設にお邪魔した。
カーナビを設定すると40キロメートル程で、その近さは意外だった。高速を利用すれば1時間は掛からずに着く予定になっている。しかし、だからと言って交通事情は分からないから、渋滞などの時間的な心配はある。遅刻しては不味いので、1時間半以上を予定して車を走らせた。
状況を見ると混んでいる事もなく、ゆっくり走れそうだ。阪神高速道路7号北神戸線を入ると、時々制限速度表示がが変わる。60㎞/hになったり70km/hになったり80km/hになったりする。早く着き過ぎるのを懸念して、私はキープレフトを守ろうと思った。前の安全運転をしている車に従ったりもした。
足の先が冷たい。そちらに温風の出口を変えてみたが、あんまり効果はなさそうだ。車に表示された気温は4度を示している。中は暖房が効いて暑くもなるが、粉雪がフロントグラスを掠めるようになった。雪だ。嬉しくなる。
段々降り頻る雪に代わり、無数の雪片が乱舞する。出雲に帰っていた頃は、凍った路面にチェーンがスリップをガードしながら走り、一色の雪景色の中をそれは吹雪に見舞われたかのようだった。そんな体験はしょっちゅうで、今の状況が懐かしさを誘発した。外の温度は2度になっている。
冬の出雲への行程は、周りが墨絵のような独特の世界になっていた。今こうして雪の夥しい程の妖精の乱れ飛ぶ様は、私に湧き上がる感動を齎した。左側を走っている数台の車は、ゆっくりと、しかも前照灯を点けていて、規則正しい走りをしていた。私も、その仲間に加わった。制限速度を越える事はなく、大袈裟だがブリザードの中を走り行く、まるで探検隊のようだった。
一瞬過ぎったのが、三田に行ったら雪が積もって、ちゃんと帰れるかと言う事だった。だが、この程度では路面に雪が積もり、凍る事はない。今まだ、午前中なのだ。
暫くして西宮山口東を出る頃には、もう雪のゆの字もなかった。あれは一体何だったのだろうか。雪が見たかった私に、一瞬それをプレゼントしてくれたように思えた。殆ど見なかった雪が、こうして今日に限って吹雪に近い短い間を楽しませてくれたのだった。
介護施設「ひなたぼっこ」は何度かお邪魔している。私を知っている方々もいるのでは、と想像していた。昨日の酒がまだ残っているような気がした。昨夜7時からは一切飲んでいない。それでも、多分泡盛が効いていたのだろう。決して二日酔いではないが、迂闊ではあった。しかし、動かし難い事実でもあったのだから仕方がない。
演奏をする時は持参するものが結構あり、そこは慎重に注意力が発揮されなければならない。必要に応じてラジカセだの伴奏CDだの、楽譜、それにオカリナ。これは、必要なオカリナをアタッシュケースに入れ替えたりしなければならない。その中は定員に溢れてしまう事もある。枠をこしらえて1個ずつ納まるように改造されているが、11個が枠内同居を入れての定員である。軽重はあっても、この中のどれを忘れても全く具合が悪い。
オカリナを忘れた時は、土下座では済まないだろう。卓球の全日本選手権で石川佳純を下して優勝したまだ10代の平野美宇が、3歳位の頃お母さんに負けて大泣きして言った言葉と同じだ。「うわ~ん、もうお終いだぁ」。それが映像から強く残り、重なる。
だが、矢張り1つだけ忘れていた。譜面台だ。最近、全部を暗譜する事が出来なくなったから、それも必需品になっている。それはそれ、スタッフの方達が、途中でも迅速に私の要求を満たしてくれた。楽譜を見なければならない場合は、小さなテーブルに分厚い何かの全集のようなものを横にして立て、そこに譜面の入ったファイルを広げて立てた。斜めになるので、おじゃみを滑り止めを置いてくれたりした。
その時は座って吹けばよくなった。だが、人前で座って演奏したのはこれが初めてだった。
私を知っていると言ったおばあちゃんがいた。何人か私も会っているような気がしていた。20人以上の方々であったが、男性は隅に2人いるだけ。大半の皆さんとても元気で、話にも反応して、言葉が跳ね返ってくる。10時半から11時半の時間だったが、11時45分まではいいと言って貰えた。喋り過ぎていたから、俄然私も元気になった。
真ん中辺では歌を歌って貰った。依頼されていた曲は模造紙に歌詞が書かれ、ホワイトボードに貼られた。時間が押しているようなので5曲を4曲にした。私が拍手した位、皆さんとても元気だ。これが本当にデイサービスの利用者さんかと思える人達もいた。1人など演歌も好きで、「糸」などはしょっちゅうカラオケで歌っているようだった。
ここの方々は、歌がとっても好きと言う事だった。最初に利用者の皆さんが手に文字を書いたカードを持って歓迎して貰い、帰りには代表にからお土産を頂いた。立って渡そうとされたがそれは制止し、「ありがとうございます」と言って握手をした。細かったが、ここまで生きて来た重みのある、おばあちゃんの手だった。
「皆さんに言える事は1つです。大切なのは『今』だと思っています。昨日の事はもう過ぎ去った事。こうして演奏を聴いて貰ったのももう終わりました。明日の事は分かりませんが、今を楽しく明るく生きる事で、素敵な明日が来ると思います。私も頑張ります。ありがとうございました」
私には私の「今」の課題がある。何処でも精一杯に演奏する事。体調をよく管理して演奏に臨む事。忘れ物をしない事。
帰りに目に入った予定に、今日の私のオカリナの演奏と、1週間先にはトランペットの演奏がある事が予告されていた。荷物を車に入れてもう1度戻り、コーヒーを頂いて帰途に就いた。帰りはゆっくり地道を通るルートを採用した。
私が演奏している時も、知っている歌は口遊んでいる人がいた。そんなに元気一杯の人ではなかったが、スタッフの1人が、数人横のその人を温かな目で見ていた。私が想像するに、余り歌を歌ったりしない人だったのではと。
そんな1人ひとりの顔を思い浮かべながら、雪も全く見る事のない道をのんびりと走った。
お土産? 創業享保元年で、三百年が経った老舗「笹屋伊織」の京菓子、お手作り最中。当主は十代目だ。2つ最中に餡子を詰めて食べたが、御所の御用として仰せつかった程の貴重な最中として味わわせて頂いた。代表の銘菓は毎月20・21・22日の限定販売となる「どら焼」だと書いてある。これも一度食べてみたいと思った。
終わった事は猛スピードで遠ざかって行くが、これから起こる出来事が、また呼び込まれて行く。