昨日は飲んでいる事を理由に、私のどうでもいいような詞を載せた。私は自分自身、力量も才能もなく、まるで小学生の特に1、2年生の作文のように稚拙だった。
低学年の小学生は、10歳にもならない成長段階で書く作文である。その段階に立って読むと、それはきらきらとダイヤのように輝いている。ピチピチと縦横に跳ね回っている。語彙や作法や経験が少ないのは当たり前の世界の中で、思う存分にエネルギーを発散する。
だから、私の詞が小学生の低学年のように稚拙だと書く事は、例えも悪いし、尤も理に叶っていない。これから学んで行く子供達の文章と比べ、しかも表現レベルでは飽く迄低いと思われる、それでも自分を作文と同一線上に置いたのだった。稚拙を、そんな言い方でしか表現出来ない私の方こそ稚拙なのだ。
子供の作文に感動するのは、そこに感性が光っているからだ。もう私にはない、羨ましい程の瑞々しさと感受性の泉が、絶え間なく湧き出している。
沢木耕太郎と藤圭子の実名入りの対話が390ページで終わっている作品「流星ひとつ」(新潮文庫)、沢木耕太郎著の中に、作詞とそれを歌う藤圭子の気持ちの現れている所があった。あの全盛期を過ぎた頃の事だったろうか。
阿木燿子が作詞し宇崎竜童が作曲して初めて藤圭子に書き下ろした「面影平野」に就いて、話が進んでいる。ウオッカ・トニックを何杯も飲みながら、もう2人の延々と続く話だが、それでもインタヴューなのだろう。
その1番の歌詞が載せられている。
女一人の住まいにしては 私の部屋には色がない
薄いグレーの絨毯の上 赤いお酒をこぼしてみよか
波紋のように足許に 涙のあとが広がって
酔えないよ 酔えないよ
六畳一間の 面影平野 (阿木燿子作詞 面影平野一番より)
こんな詞がよく書けるなと感心する。凄いセンスと文章力だ。それが、以前の歌の様にはヒットしなかった。それは、詞や曲が悪かったからではないと、話は進んで行く。確かに、こんなに素敵に書かれた詞に、ヒットしない理由はなかった。
ここから、本文の引用をする。飛び飛びにだが、対話の部分も全て沢木耕太郎の「流星ひとつ」からの文章である。
「あなたは、あの曲が好きじゃなかったのか・・」
「好きとか嫌いとかいうより、わからないんだよ、あの歌が」
「わからない? あの詞が?」
「そうじゃないんだ。すごくいい詞だと思う。やっぱり阿木燿子さんてすごいなって思う。でもね、そのすごいなっていうのは、よく理解できる、書かれている情景はよくわかる、そんな情景をどうしてこんなにうまく描けるんだろう、すごいなっていう感じで、すごいんだよ。たとえば、三番の歌詞なんて、普通の人には書けないと思う。
最後の夜に吹き荒れてった いさかいの後の割れガラス
修理もせずに季節がずれた 頬に冷たいすきま風
虫の音さえも身に染みる 思い出ばかりが群がって
切ないよ 切ないよ
六畳一間の 面影平野 (阿木燿子作詞 面影平野三番より)
特にさ、修理もせずに季節がずれた、なんて、やっぱりすごいよ」
「わからないって、さっきあなたが言ったのは、どういう意味なの?」
「心がわからないの」
「心?」
「歌の心っていうのかな。その歌が持っている心みたいなものがわからないの、あたしには。あたしの心が熱くなるようなものがないの。だから、曲に乗せて歌っても、人の心の中に入っていける、という自信を持って歌えないんだ。すごい表現力だなっていうことはわかるんだけど、理由もなくズキンとくるものがないの。結局わからないんだよ、この歌が、あたしには、ね」
以上で引用は終わるが、藤圭子の気持ちが、私には分かりかけた気がした。山が高くなるように、海が深くなるように、その高度深度の位置で心の度合いも理解度も違って来るとは思う。それならまだ分かるが、「結局分からない」と言う事は、気持ちが混沌としている事だと考えてもいいだろう。
心、そう、心だ。それが感じていなければ、どんなに素敵だと思われる詞でもメロディーでも、響く事はない。
阿木燿子のここまで考えられた詞でも、その詞の凄さを分かっている藤圭子にして「心がわからないの」と言わしめる。私の歌詞に何の新鮮味もない言葉がボロ布のように繋ぎ合わされただけのものが、心などと口に出す事さえ烏滸がましいのだった。