結論から書こう。
主題はヴァイオリン・リサイタルで、それは午後7時から始まる。
それが終わってから、見る事の出来るものがあった。世界緑内障週間(6~12日)の10日に、神戸ポートタワーが緑色に染まったと、朝日新聞に出ていた。今日(11日)も日没から午後11時半まで緑色になるそうだ。一昨日の、姫路城への投影を観たばかりだが、今日はリサイタルの後三宮から高速バスに乗る事に決めているので、バスの中からまた光が観られると思うと、期待感が体に溢れていた。
日本緑内障学会が神戸港振興協会に依頼した為に、天辺までではないが、ポートタワーを駆け上るかのように緑の帯が出来る。
新聞に依れば、神戸大学大学院の中村誠教授は「緑内障は眼圧が高くなることで視神経が断たれ、最悪の場合は失明する。日本では40歳以上の20人に1人がかかり、9割が無自覚だ」と言う。
冒頭の結論は、ザ・シンフォニーホールから帰る時は、環状線福島駅から大阪駅まで一駅で着いて、そこから三宮迄新快速に乗る。高速バスに乗れば、車窓から十分に観られる筈だった。午後9時50分のバスに乗ろうと思うと、大阪から9時30分に出発する新快速では間に合わない。
次のバスは10時20分で、この寒さで待つのも嫌だし、時間も無駄に過ごす事になる。それで新快速に乗ったまま神戸駅で普通に乗り換えて、垂水まで行ってしまった。それで、緑のポートタワーを観る事が出来なかったのだ。
ヴァイオリンのマウロ・イウラートはトリノのG・ヴェルディ国立音楽院を卒業し、1998年にウィーン国立音楽大学に入学している。国立や国際コンクールでは数々優勝し、この大学のプロジェクトで2003年に来日。その後を羅列すると、徳島文理大学音楽部准教授、アンサンブル神戸首席コンサートマスター、大阪フィルハーモニー交響楽団・オーケストラアンサンブル金沢・兵庫芸術文化センター管弦楽団などのゲストコンサートマスターを任ずる。2015年にはポップデュオ「ゆず」と共演。2015年からは相愛大学音楽部講師、神戸ではヴァイオリン教室を主宰している。
ピアノのジュゼッペ・マリオッティはピアチェンツァ音楽院でピアノ、オルガン、作曲を学ぶ。ウィーン国立音楽大学では、国際的ピアニストとしての評価を受けて卒業した。バッハから現代作曲家まで幅広いレパートリーをこなす。また、ベーゼンドルファー社専属の特別ピアニストとして活躍する異色で多彩な芸術家である。2003年より徳島文理大学音学部客員教授、2007年からはその大学の学部長となる。2008年から2010年3月まで神戸女学院大学客員教授を務めた。
マウロは、特徴はあっても癖のない美しいヴァイオリンの音を奏でる。ジュゼッペのピアノ伴奏は、それはそれは卓越していた。
プログラム (イタリアの情熱とウィーンの優美)
パガニーニ:カンタービレ
レスピーギ:メロディア、レジェンダ(伝説)
平井康三郎(ウニドゥオ編曲):日本古謡「さくらさくら」のパラフレーズ
タルティーニ:悪魔のトリル
休憩(20分)
アルビノーニ:アダージョ
シューベルト:アヴェマリア
シューベルト:3つのピアノ曲D.946-2
クライスラー:美しきロスマリン
愛の悲しみ
愛の喜び
シュトラウスⅡ:ウィーン気質
1階前から5列目の右側の席だから、2人の男性演奏者の顔もしっかりこちらを向いているし、鍵盤を走る手の動きは死角になって見えないものの、表情はしっかり捉える事が出来た。
どちらも上手い。聴いていて気持が良い。
休憩後の2曲はパイプオルガンの伴奏で行われた。2人とも、ステージの上のオルガンのある所に行った。もう1人、ピアノの時もそうだが楽譜捲りの女性が後方に座っていた。それより、またこのホールのパイプオルガンが聴けるのだ。思ってもみなかった。
余り上手くはない日本語で、「次の曲は、シューベルトのアヴェマリアです。今日は11日ですが、沢山の人が犠牲になりました。この曲が、その方々の所に飛んで行くように、心を込めて演奏します」と言って演奏した。
目立たないように椅子に座った女性は、2曲とも、1度だけ立って行って楽譜を捲った。これとて、かなりの人でないと楽譜の何処を、どんなタイミングで捲っていいか分からないと思った。初めて、凄い人なんだと思った。
パイプオルガンとのコラボは初めて聴く。この前パイプオルガンだけの演奏を聴いて感動したばかりだった。今回は、思い切り単独で弾くのではなく、音も抑えながらの伴奏である。何だか勿体ない気がした。どちらも上手いのだが、やっぱりパイプオルガンは、単独の演奏を聴きたい。
贅沢な注文をつけてしまったが、その後またステージに下りて来た。次の「3つのピアノ曲」はジュゼッペだけがピアノの独奏をした。指のパッセージと言い、音の強弱と言い、素敵な演奏だった。
ヴァイオリンも、「悪魔のトリル」や「ウイーン気質」などは殊に素晴らしく、全ての曲が心に沁み込んだ。私は全く自然にこのリサイタルを聴けた。それは何故か、と自問してみた。
演奏者が上手くなければ、魚の骨が喉に突っかかったような違和感を感じ、とても染み入るようには聴けない。先ずそれは、自然に聴ける前提条件なのだ。だが、シンフォニーホールで聴くような演奏は大抵上手い。
演奏者が、自分側の迷いとか緊張とかを持たずに、肩の力を抜いて演奏していたからだろう。それを私も即座に感じて、演奏者に対する演奏の心配は全くなかったのだ。私も肩の力が抜けていた。そうして、最後までリラックスして聴け、更に音の心地よい世界へと引き込まれて行ったのだった。
この2人は生まれてこの方ずっと音楽の世界にいて、音楽をする為に生きている感じがしたし、私など外野にいる音楽の何なのかも分からない者とが、分断された河の向こう側にいる人達だと思った。この時ほど、怪物だと思った事はない。
どんな世界でも怪物はいる。音楽に限らず、私には分からない頂点付近で君臨している怪物達がいるものである。囲碁将棋でも、スポーツでも、書や絵画でも、踊りでも、どんな世界にもその怪物はいるのだ。
今日はヴァイオリンとピアノだが、ヴァイオリン1つでもピアノ1つでも取って見ると、その怪物はいる。そして頂点付近で切磋琢磨している。隠れて見えない部分で、多くの時間を生活と共に費やし、ここまで来た。初めから怪物であった訳ではないが、その辛く苦しい部分が解放された姿が怪物達には見られる。それでも尚求め続ける辛く苦しい世界は、少なくとも私などには分かろう筈もない。
同じホールにいて感動したり、あそこがいいとかここがいいとか言っているが、全く次元の違う世界を錯覚して観たり聴いたりしているに過ぎないと思うのだ。同じ人間でありながら、ここまで到達出来ている人に対して、最早項垂れる事もない。今あるのは、心地よい敬意だけだと思った。
アンコールは当然だが、「愛のあいさつ」を弾いた。弦の使い方も年月をかけて体得したものだろう。この音の繊細な美しさは、そのまま受け入れる事が出来た。2人は、プロフィールを見ると接点が幾つもある。仲も良いのだろうと思えた。肩を組みながら、それに近い動作をしてステージ袖に消えて行く。
焦らさないで、すぐに出て来る。またアンコールに応えた。「グノーのアヴェマリア」だった。
もうないと思ったが、「サプライズ」と言ったと思う。流れて来た曲は、「ゴッドファーザーー愛のテーマー」だった。会場が和んだようだった。質は全く違うけれども、それこそ20年前位にオカリナで吹いた懐かしい曲だった。
この怪物達は自分磨きはしていても、最早鎬を削るなどと言う事はないだろうと思った。そんな世界はもう通り過ぎて、更に高い場所で楽しんでいるだろうと思えたのだった。過程はそれぞれにあるが、楽しむ世界にこそ、人の輪が広がるのだと思う。
外は姫路へ行った時ほどではないが、まだ寒い。もう、何かを飲んだり食べたりしている猶予はない。9時も少し過ぎている。
大阪から三宮迄大体23分だ。9時30分に新快速は出発した。どう考えても50分の高速バスに乗れる道理はない。しかし、芦屋で腕時計を見ながら、ひょっとして間に合うのではと思う自分が可笑しかった。
垂水に着き、まだ最終までに3本ある事が分かり並ぶ列から離れてミスタードーナツに足を向けた。なんだ、もうおしまいじゃないか。中に掃除道具が置かれているのが目に入った。また列に戻ると、7、8人だったのがもう25人並んでいた。辛うじて座れる人数に私は位置付いた。昔も、よくこうして人数を数えていた。
彼方に見えたのは首を上げた遠くと更に上を向いた遠くにある、2つの星だった。チカチカ自ら光を放っていたが、あそこにはとてつもない大きな球体があるのだと想像した。今日は綺麗な三日月をシンフォニーホールの空に見ていた事を思い出した。
家を出掛ける前に、もう連載が336回目になる小説「春に散る」を読んだが、毎日が待ち遠しい。その時に見た1面の「折々のことば」(鷲田清一)も336回だが、その中身は八木重吉の詩だった。
帰りの路線バスに乗る前の暗い空に、今2つの星が薄く瞬いている。この詩は行き掛けの高速バスに乗る前に思い出して、私は青い空と雲をを見つめていた。
くものある日は くもは かなしい
くものない日は そらは さびしい
ひょっとして、八木重吉だって怪物なのだと、ふと思ったりした。