1月15日、新日本風土記で21時から22時まで、BS3で奄美大島が放映される。

シマさんは残念ながら観られないとの事で、それならDVDに録画しようと思った。だが、本体には録画されるが、初期化が要るみたいで、それは無理だと知った。結局1時間ほど観たけれど、シマさんが観たら、100パーセント以上分かると思った。

メモしながら観たが、すぐに文字が消える。速記者でもなければ正確に記録することなど出来ない。だが、せめて概略だけでも知って貰おうと、今回はシマさんに向けて書いてみたい。勿論他にも観た人もあろう。不正確ではあろう私の記録でも、読んで頂けると、嬉しい。


「秋名」では、古い行事は旧暦で行われる。ショチョガマが作られる。櫓を組み、稲わらを乗せる。大風や病害虫に悩まされて来たからだ。

儀式の準備は浜辺でなされる。お初米をサンゴで挟んで供える。数珠はお米に見立てたもので、この実がなるようにとの願いがある。

岩に上り、年に1度だけ神を呼び寄せる。ショチョガマにはたくさんの人が上がり、それを揺らし始める。その揺れは、豊かに揺れる稲穂を表すのだ。

倒れるほどに大勢で揺らす。あっという間にそれは崩れ、倒れた。倒れると、豊作間違いなしだと言う。

「名瀬」には末広市場があり、そこにあまみFMラジオ局がある。向かいは魚屋さんで、毎日奄美の様子を訊ねる。このラジオ局は1週間の島の様子を伝えるものだが、シマグチを大切にしており、失われつつあるその魅力を伝えたいのも大きな目的の1つだ。

ふでさん93歳の暮らしを取り上げていた。外の堤防の上に洗濯物を置き、その上に石を乗せる。すぐに乾く。

向かいの山が白くなれば雨が来る。FM放送局のMCさんは、ふでさんに知らせる。雨が来るまでに取り込まなければならない。

ふでさんは84歳まで大島紬を織っていたと言う。そして、「あんまがおかぎ」(お母さんのおかげ)と言った。ハンダマ(野菜)を食べて元気だそうだ。

「浦上」は人口1,000人程の村だ。豊年相撲大会が行われる様子が描かれている。相撲が盛んで、楽しみは相撲だそうだ。150の集落には、すべて土俵がある。

高校生から35歳までの青年団が中心に動く。35歳から49歳までの壮年団は、協力する。赤ちゃんのお披露目もあるそうで、その紅白のまわしを作っていた。

五十代会は縁の下の力持ちで、60歳以上は若返り会と呼ばれる。

相撲の当日は70人の豆力士が登場した。

加計呂麻島は神の宿る島と呼ばれ、木材の伐採はない。石や木にも神が宿っているのである。源氏と平家のゆかりの人々が住んでいる。戦はなく、南の島の源平合戦と言われているそうだ。

「諸鈍」(大屯神社)には平資盛が祀られているが、何も確証はなく、それでも崇められていると言う。その神に捧げられるお神酒を白いサツマイモで2晩寝かせて作るらしい。

「実久」には源実久三次郎がいて、その名の染め抜かれた法被を来た若者たちが、2人1組で、棒を持って踊る。

石垣島から来る家族があった。戦をしないのがいいのだそうだ。それに、夫婦のどちらかが源氏で、もう一方が平家だそうだ。女性の方は車椅子で、階段は家族の4人が持ち上げて上った。

「加計呂麻」にはウナギが住んでいて、「出て来い出て来い大ウナギよ」と川に向かって呼ぶ。そこにはウナギが姿を表す。だが観賞用で、誰も食べない。

「神山」は山は恩人と言う。ソテツがそうで、食べるために大切にされた。終戦後はこればかりだったらしい。餅にする。

奄美はアメリカの統治下で、パスポートがないと出られなかった。

ソテツはやせた土地に強く、特に斜面のものがいい。イモは3か月経たないと食べられないが、ソテツはすぐに食べられる。だがソテツには毒がある。乾燥させてあくを抜く。表皮を深く、なたで切り落とす。それでも、でんぷん質は僅かで、ちょっと食べられるのに10本のソテツを要する。

江戸時代は主食だったと「南島雑話」にある。作って食べていたが、男性は「味がしない」と言い、女性は「練り羊羹を薄くしたよう」と言った。

大島紬もちょっとだけ顔を覗かせた。テーチ木の幹や根を、鉄分の多い泥に浸ける。昭和28年頃の島を支えた。その時は、養蚕と泥染めと機織りは分業だったと言う。

「屋入」には放浪の唄者と言われた盛島貴男がいた。貧乏だが、食べられたらいいと言っていた。狭い小屋に住んでいて、誰でも使えるようにとスタジオを作っている。こっちの方が広い。

子供の頃出会った盲目の琴奏者里国隆(大正8年~昭和60年)の、普通の半分位のその琴を作って、広めようと思っているそうだ。50歳の頃、その形がよみがえって来たと言う。晩年は、路上で歌いながら過ごしている。

あはがり♪

♪うきよ かりじまに いていがでぃむ いらりゅむぃ なさけあれぃよ 加那 くぬよば うさむぃれぃがでぃ

「花富」に朝崎郁恵と言う人が島唄の心を伝えている。デイゴ並木に軽トラが倒れそうに斜めに止まっている。

嘉義丸の歌を唄う。♪命長むてさりは 拝まんちぃむ拝でぃしりぃり・・・節は同じではなく、変わる。薩摩の役人に聞かれたくない事を、歌を通して伝え合う知恵と手段だったのだ。

鶏飯を作っている女性がいる。ミカンの皮やシイタケを入れて。だが、近所ではイキガミ様と言われている。天照皇大神を祀り、自らはユタ神様として先祖の言葉を伝える。

栄さんと言う方だったか、思い出せない。1人3,000円と塩と酒を頂く。部屋を覗くと酒の山。れんととか弥生とかの焼酎が目に入った。

「阿室」では稲わらで先祖が頂く為の柄杓と箸を作り、神棚とかではなくお供えを玄関の上がる所に置く。先祖がすぐに食べられるようにとの事だそうだ。ミカンや赤飯もあるが、厳しい取り立てに苦しんだ作物のサトウキビが小さく切って数本三宝に乗せられている。

線香は3本を3回立てると言い、消えたらお帰りになると言う話も興味深い。

何百年か前の先祖の芭蕉布の野良着などを、年に1度だけ出して天日干しにする。ぼろぼろになったものもあるが、どんな人が着ていたのだろうと想像すると悲しみも伴って、目が釘付けになる。

「小湊」の11人の小学生が村の神事の為にお月様を迎える。藁を持って村を回る。米一粒に神様が二人住んでいると、祈る心を教える。災いが入って来ないように稲で結界を張る。

曇っていた空が次第に晴れて、そこには鮮やかな美しい満月が上っていた。

奄美の事がこれで分かったとは到底言えないが、それでも奄美の人達が搾取に押し潰されそうになりながらも懸命に生きて来た悲しみの歴史の氷山の一角でも垣間見れただろうか。だが、その深い苦しみの中にあった生き様を、100分の1、いや1,000分の1程も感じる事が出来たかは分からない。

共感や共鳴は出来ても、その中にいない私には、事実を辿るしか理解に至る方法を知らない。それでも瞬間であったとしても、喜びがあっただろうと言う思いに方向を向けてみるのは、間違っているのだろうか。

その前は。そのまた前は。ずっと前は・・。それは苦悶の中の奄美の歴史を見たり想像したりする事でしか分からないと言う事が、何とも心に堪えるのだ。

今を前向きになどと綺麗事を言っても、その重荷は消えないだろう。自分の中で心の重荷を少しでも降ろして行く手立てが考えられないものだろうかとは思う。