土管のようなものを通り抜けてパッと開けた世界は、まるで新しいものに触れたかのように新鮮だった。全く知らないものではなく、今目の前に咲いているポピーやヒナギクや矢車草のような、華やかではないが普通の花たちのいる世界。でも、辛抱して辿り着くのではなく、抜けると言ってもそれは瞬間のようにも思われた。

今ここにいて、同時にそれは昔の懐かしい所にいる。ファンタジーなどとは違い、全て自分が経験した世界だった。ぽろっと真っ暗な土管から零れ落ちると、それは当たり前のように、幼少の頃の多感な、好奇心に満ちた眼差しの注がれる、瑞々しい自分の周りの情景である。

櫻の花は毎年同じ花に見え、生まれ変わった花だと思って見た事はない。私は、ただその美しさを眺めているだけなのだ。人の子は人、蛙の子は蛙であるように、自然の営みは生まれ変わっているものが繋いでいるにも関わらず、同じものとして時代の川を流れているような静けさがある。

黒い画用紙を選んで、綿を千切って、雪が降ったり積もったりしている様を夢中で貼っていった、ワクワクするような小学生の頃の図画の時間。クレパスで描いた赤い屋根の家に、雪を降り積もらせたりしていた。

学校に着いて、長靴の中は隙間から入った雪で濡れている。冷たい水を含んだ靴下を脱ぎ、石炭をくべたストーブに足先を近付ける。ちっとも暖まらない。その指には霜焼けが出来、赤く膨らみ、痒くなる。授業が始まると、慌てて席に着く。窓の外は、見慣れただんべら(ボタン雪)が、極小のハンカチーフのように、静かに舞い降りている。欠伸が出る程単調な雪景色だが、眺めるのは好きだった。

体操の時間と呼んでいた、つまり体育の時間は、外で雪合戦だった。足の冷たさも忘れ、雪を素早く握っては投げる。柔らかいと遠くまで飛ばず、近くで雪の華となる。沢山作り置きをしてから投げようとすると、敵がすぐに寄って来て、雪の玉を容赦なく投げ付ける。そんな事が、いや、どんな事でも楽しい思い出として残っているそんな世界に飛んだ自分を、土管の穴から覗く。

何の躊躇いもない、はち切れそうなボールであるかのような自分に、雀の鳴き声や鳩の鳴き声が聞こえる。鴉やトンビの鳴く声も、春先の猫たちの激しい声や、遠くで吠える犬の声も聞こえて来る。

水仙の花の匂い、梔子の匂い、雨上りの匂い。母の作った鯖のでんぶの匂いまで、土管の先では当たり前の事が、こちら側では懐かしい事だと言うのには、それだけ遠くに流れて来た事に依る。汚れた心は、時たま土管の向こうに行って、純粋な石鹸で洗い流そうとしているようだ。そうして、当たり前だった自分と、何度でも出会うのだった。

ほんのちょっとした、ブログと言う新兵器と向き合う時、感覚や感情は普遍性はあるものの、自分だけにしかない世界を懐かしむ。そしてまた、今をちょっと先に向けて歩いて行こうとする。停まってしまってはお仕舞だからだ。休憩をするのは一向に構わないのだろう。その休憩で、人は成長し大きくなるのだから。

春先なのにまだ寒いこの時期。神戸では今年も雪と戯れる事がなかった。雪と急に遊びたくなって、土管の中を潜り抜けてみた。

それもこれも、そこに自分と関わった人達がいるから戻ってみる事も出来ると言うものだ。今でも、まだまだいい人と巡り会いたいものだと思いながら、K君がくれた「PURODUCT OF USA」の「ROASRED PEANUTS」を頬張っている。好んで食べた事のないピーナッツだが、これは全く他のものとは違い、美味いの何の。止まらないのだ。

テレビで観ていて思わず注文してしまった醤油。誰でもそうだが私にも必需品だ。それが手間暇掛けていると言う。卵かけご飯に掛けるとその違いが良く分かるらしい。和歌山県の湯浅醤油が作っている「魯山人」と言う銘柄だ。聞いて吃驚したが、今は届くのが待ち遠しい。200mlの醤油は普通100円位だそうだ。が、この「魯山人」は同量で略1,500円である。

他愛のない、土管の話だったのに。