安室美人って、そんな名前の人いないと思う。私が11月12日から飲み出した薬の名前。こうして覚えれば人の前でさっと言えて、どのようにして覚えたかなど、誰も知る余地はない。血圧降下剤の名前で、アムロビジン、いやいや「アムロジビン」と言う。

私は母も血圧は高かったので、当たり前のようにして過ごしていた。ジョギングもしたし、卓球もした。家では勿論、外へもランニングシャツとトックリ姿、裸足にサンダルと言ういで立ちで買い物に行ったりした。今でも裸足にサンダルの時が多い。去年は足の指が凍傷に近い状態になって、それ以後は靴下を着けて、ランニングシューズを履いていた。

そんな私の血圧が高血圧と言われ、白内障の手術はこのままでは出来ないと言われた。内科医師の受診と言う羽目になった。

160台と90台の数値をそれぞれが行ったり来たりしていた。何故か病院の眼科で計った時、190と113。これには私も驚いたが、何とかして数値を下げる事が出来ないか、あれこれやってみた。姿勢が余り良くないので、血管を圧迫しているのではないか、そう思って飛び切りいい姿勢をし、おまけに両手を上に組み、これでもかと背伸びをした。そうして計ってみると、上も下も20以上低くなった。私は裏技を発見した気分だった。

だが、眼科は内科の血圧測定を課した。それで、宛先のない依頼状を書いて、家の近くの医院に行く事になった。どこで受診するか考えていなかったので、宛名はない。当然、どうしてこの医院にしたかを聞かれた。この問答には難なくパスした。

私は頻りに裏技を使った。その医院で計ったら、私としては上々の148と95だった。これなら白内障の手術は出来るのではないかと思った。私としては、絶対降圧剤なんか飲みたくなかった。大した事もなく、ジョギングで4キロを3年以上走っても、何ともなかったからだ。

「薬を飲まなければ駄目です」

と言われた時は、希望を失う気がした。医者の前で、何とか大丈夫と言わせたかった。私のガン子は、ずっと一緒にいてくれるものと信じていた。

次の日から家庭用の血圧測定器で、毎朝計る事になった。1週間して、医院に行った。裏技を行使した所為か、平均して上が160台、下が90台後半だった。朝食後に薬を飲んだが、12日の朝起きてすぐに計った時は197と99。前日が188と104。下が100を超えるなんて、本当になかった話だ。

医者は、自分も血圧が高く、10年前から飲んでいると言った。医者の養生を耳にして、私は飲む決意をしたのだった。と言っても、苦渋の選択だった。そんな時、ガン子と諍いが起こる。

心筋梗塞や狭心症などは勿論の事、合併症が怖いと言った。紙一重の危険が今分かって良かった、とも言った。それでも、実感はなかった。

2週間「アムロジビン」を飲み続けた。10日間は左程下がらなかった。後4日は上は130台の真ん中辺、下は平均85位だった。自分ではかなりいいと思っていたが、

「薬をちょっと強いヤツに変えてみましょう」

と言って、「アイミックス配合錠LD」になった。

「早く気が付いて、良かったですね」

と言った。ガン子が離れて行った事で、失われたと思った希望が、また湧いて来たのだから不思議だ。ガン子と入れ違いに、すな男が私と友達になった。

2週間「アイミックス配合錠LD」を飲み続け、そして今日。

大体130台と80台。後半の1週間は、下に就いて言えば、82か83になっていた。

受診の前に血圧測定を、看護師さんがする。

「117と78です。これなら大丈夫ですね」

と優しい声がした。それと共に、耳を疑った。私にしてみれば、こんな数値この世のものではない。朝と昼近くの数値が違う事くらい分かっているが、これが、今計った私の、正真正銘の数値なのだった。

医師に呼ばれた。

「安定して来ましたね。この薬を続けてみましょう。今度いつ手術ですか」

「来年の6月以降になると思います」

「それなら大丈夫でしょう。こんな機会があって良かったですね。こんな事がなかったら、大変でした。気が付いて良かった。本当に、様様ですよ」

と、N大学で学んだこの医師は、にこやかな顔を私に向けた。

「ありがとうございます。本当ですね」

と返した。

「では、長目の30日間の薬を出しておきますからね。よいお年を」

私は咄嗟に言葉が浮かばなかった。「先生こそ」と言えば気が利いていたのだろうが、口を吐いた言葉は、

「ありがとうございます」

だった。「先生こそ」と言う言葉は数歩の間発する事が出来ず、無残にも崩れ落ちるのがドアを閉めるのと同時だった。

また一つ、何かが私からガン子を引き離し、命を救ってくれたのだと思う。不思議なタイミングで、体に変化が現れていないだけに放って置いた可能性は大だが、このような事に出くわした事は、感謝しなければなるまい。これからは、すな男といる限り、私に何か告げてくれるに違いない。

隣りの薬局に行った。3回目だ。3~4人は薬剤師や事務職員がいると思うのだが、いつもこの人で、ずっと見ていたい程の笑顔で応対してくれる。会計の時、

「どうですか」

と必ず聞いて来る。私は饒舌になり、自分の血圧と薬の効果を話す。

「よかったですね」

とそれだけ言って微笑む。何と弱電流の流れる事よ。聞いて欲しくない人だっているのに、同じ事を聞かれてもとても新鮮で安らぐ。安室美人じゃなくて、胸のネームプレートを見るとM美人だが、冷たい美人は好きになれない。私に取っての美人は、自分が感じる美人だから、一般的に言う美人でないかも知れないのだけれど。

1キロちょいの道を歩いて帰りながら、踏み込んで考えてしまった。深い意味も好きも嫌いもない。ただ、ショートして火花が散ったり、電気が通じなかったりする事がよくある中で、M美人にはそれが当たり前の所作であるにしても、私はほんのちょっとした、過去世での袖擦り合った仲ではなかったかと考えてしまった。弱電流は、しっかり感じ取らなければ分からない。

かさかさと、冬の枯葉を踏み拉きながら、その15分間は、私のふんだんに考える事の出来る道なのだった。

すな男、どうなんだ?