その時から、心は揺れていた。自分が決断し諦めなければ、その揺らぎは波が押し寄せる時のように高まり、また引く時のように静まり、それは繰り返すだけだろう。

半分は安堵し、するとそれが異なった情感を引き出し、昂りの中で瞑想を余儀なくさせるのだった。

S君が娘を貰いたいと言って来た。何度か娘が家に連れて来て、取って置きのカレーを作ったり他のものも作って食べて貰った事もある。だが、三十路をとっくに過ぎた娘は、当たり前のように私達と同居し続けて行くものだと思っていたし、その折々にはいい相手が見付かればいいと空想した事もあったようだった。

その時は、6月に現実的に起こってしまった。その時から、良かったと言う感情と娘がこの家を去り行くと言う寂寥が交互に襲って来た。ただ救われたのは、S君がとても好青年だった事だ。あちこち交流関係を広げて行く娘とよく行動も似ていて、ポジティブで明るかった。

私に取っての娘は、長女だが、これが最後の結婚となる。先に結婚した2人の娘がいても特に感情の起伏はなかった。それは後にまだこの娘がいたし、結婚などすぐにするとは考えてもいなかったから、当たり前のように娘と暮らしていた。別れる哀しさではなく、この家にはもういないと思う事の方が、否定しようと思っても抑える術のない現実として心臓を支配した。

私がオカリナを吹いていても、隣りの部屋で聴いていて時々聴いたままを伝えに顔を覗かせる。もう、そんな日が訪れる事はないと言う幾ら否定しても実感しなければならない感情が、閉じ込め切れずにすり抜けて行くのだ。

ご両親ともお会いしたが、私には何の不足もない素敵な方だったから、それも注文を付ける所など何処にもない。

11月1日に向けて、娘とS君の準備が始められた。2人は有り余るお金のない中で、色々工夫もし工面もしなければならなかった。最後の最後まで、時間は足らない程だった。

9月が過ぎ、まだ2ケ月はあると思った。10月になると、もうこの月しか一緒におれる時はないと思った。1週間前になるとまだ7日あると思い、3日前になると指を折ってみた。前日は彼も泊まっていて、午後4時過ぎには六甲山ホテルへと向かった。私達も5時を回ってから、出掛けた。

7時から嫁の親戚と会食をし、9時を過ぎると私は自分の妹達とその家族の部屋で話したりした。10時を回った頃にS君が私達のいる部屋に来て挨拶をすると冗談を言ったり面白い事を言ったり、笑いそうになるようなアクションを起こしたり歌ったりした。明日が結婚式だと言う実感があったのだろう。それに、今日は何と言っても独身最後の日だ。私とはまた違う複雑な感情が襲って来ているようだった。すぐに皆と打ち解けるなどは、彼の持ち前の特性だったと思われる。

明日11月1日は雨だとの予報があった。娘は心配していたが、降る時には降ると私は言った。その時の顔以外は、終始晴れ晴れとした笑顔を絶やさないでいた。

雨の降る闇を通して見える夜景は、掬星台から見るものとは違い十分とは言えないにしても、綺麗だと思う微弱な感動は与えてくれたと思う。


1日の朝は小降りの雨だった。もう止まないだろうと、それ以後気にも留めていなかった。バイキング形式の朝食を終えると、10時半からリハーサルがあるのでチャペルに来て欲しいと、係の人が部屋まで言いに来た。感情は極めて冷静さを装っていた。

ホテルの新館からチャペルまでは少しの道程だけ、雨に打たれずには済まない並木道がある。だが、何だか雨は止んだように感じた。それよりも、濡れずに通じる通路がないのが懸念された。式に出席する人達が濡れはしないかと心配だったからだ。

娘と神父さんの前まで歩くと言う練習は終わった。嘗て2度経験しているから、歩幅と速度を注意すれば済む事である。娘と腕を組んで1歩1歩進んで行った。

11時が来る前になると、既に披露宴に招かれている人達の中の人もこのチャペルに入って来たものだから、20人近くは立ち席になった。

本番が始まった。指輪の交換があったが、リングボーイは次女Rの小2の子が先陣を切って務めた。ウエディングドレスの裾は三女Mの子が持った。そのリングは、新郎が作った真心の籠ったものだった。

誓約や本人や立会人のサインが終わると牧師の話や聖歌隊による讃美歌が歌われた。と言っても2人だが、その声の美しさには感動した。チャペルを出る時に、素敵だったと言うと微笑みを返した。

沢山招く事も大変だったようで、結婚披露宴には全部で67名だった。けれど、それは何と感動出来る素敵な披露宴だった事か。主賓や親友の挨拶がどれもいい話だったり、男と女の孫がシェフの帽子を被り、シェフの恰好をして2人で手押し車に乗せたウエディングケーキを新郎新婦に届ける可愛さが堪らなかったり、幾つものサプライズめいたものがあった。

終わり近くなって、皆部屋の外で沖縄の歌声を聴いた。20年位歌っていると言う、4人の家族の歌で、何だか小野リサの声を思わせた。

次に娘がアフリカンダンスを踊っている仲間が駆けつけて、太鼓を鳴らしながら入って来た。男女3名ずつで、男はジャンベなどの太鼓、女は動きの激しい踊りを展開した。きっとその中の誰かが、衣装替えをしたとは言ってもウエディングドレスとそんなに変わらない衣装の娘に、誘いの声を掛けたのだと思う。咄嗟の事で、1度は断ったと聞く。娘は靴を脱ぎ、その衣装のままでその誘いに応えて、腰を低くしながら激しく踊り始めた。衣装が絡むのでもなく、その踊りと、そこに出て行って踊った姿に感動した。こんな光景を見たのは初めてだったし、他の人達も、その事に感激していた。

愈々終わりになる前に、新郎新婦の父母はマイクを通して語る娘の言葉を、部屋の後ろで聞いた。その言葉に触れて、涙が出そうになったがそれには何とか堪えた。近くで見た者がいたら2筋の伝った涙を見逃さなかっただろう。

そのバックミュージックで、何か聴いた事のある曲だと思った。暫くして、私のCDの曲だった事に気付いた。「野ぼたん」だったと思う。それを聴いて、娘たちの気持ちの優しさに気付いた。式当日まで、私にオカリナを吹いてくれとは一言も言わなかったのだ。既婚の娘達はどちらも私に吹いてくれと頼んだのに。

司会者がその流れている曲の事を紹介すると、後ろに立っている私に目が注がれた。娘の会社の女社長とその姉の2人は初めて会ったが面白い人で、宴の時に冗談を言い合っていたから、その顔が驚きをもってこちらを向いたのが即座に分かり、ぺこりと頭を下げた。

幸いな事に要所要所では雨が降らず、とてもいい式となった。最後に新郎のお父様が挨拶をし、新郎がお礼の挨拶をした。その前にメイクをする人が娘の顔をコットンかなにかで拭いていた。私も、「ここ拭いて」と言って、涙の筋を指さした。笑いながら拭いてくれた。私は冗談の積もりだったけれど。

それでお開きとなった。出口で私達は並び、娘とS君は小さな蜂蜜の入った綺麗なレースに包まれた瓶を、一人ひとり子供に至るまで手渡していた。式前日まで苦心して包んでいた姿が目に浮かぶ。

遂に終わったその時の余韻を提げて、皆さんとの挨拶もそこそこに、暫くロビーにいて引き上げた。娘達は2次会を予定しているので、2次会場へと向かった。その時は披露宴には呼べなかった人達120人余りが集まってくれたみたいだった。

その時は、私達のサプライズがビデオで流された。以前にアフリカンダンスの女性3人が、私達にインタビューをしてそれを収録編集したものだった。娘に気付かれないように、娘がいない時を見計らって日にちを決めていたのだ。京都からも来てくれていたし、仲間の友情は有り難いものだなとつくづく思った。

嫁は、娘との2人で交わされていた言葉を話したが、3人のインタービュアーは感激して涙を流しながら聞いていた。

「Yちゃんが生まれた時、どう思われましたか」

のインタビューの時私は、

「ああ、生まれたんだな、と思いました」

と言ったのが、当日爆笑を誘っていたそうだ。そんなに面白いのかなあ。

私と娘はまるで友達のようだと思いながら過ごしていた。その娘が、巷の結婚年齢と比較すれば10年近くも遅く結婚してくれたのだと思うと、娘との出会いが特別なもののように感じられて仕方がなかった。そう思うと途端に切なくなり、私の為に婚期を遅らせた訳でもないのに長女でもある所為で、一緒に暮らした年月はどの娘より遥かに長いのだった。

人との出会いや繋がりは、親子であろうとなかろうと、不思議な縁で結ばれているものではないだろうか。それを慈しむようにして日々のある事が、生きている事の意味のように思えてならない。

娘達は2次会以後遅くなって、近くで泊まって帰ると言った。


2日の晩は彼と自分の友達と一緒に帰って来た。会社から1年間香港に出張に行くように言われて行っていたが、そこでも色々な人と友達になっていたようで、その香港絡みの人と私も談笑し飲む事が出来た。

ライティング☆ペインティング王座選手権TVチャンピオンのYさん、キャセイ航空のスチュワーデスのKさん、M商事勤務でプライベートで親しくしていたAさん。Kさんは娘を連れて来ていた。私とは初対面のこの3人と、S君と娘とで飲んだ。差し入れのビールもあり、話が途切れなかった。Kさんの娘さんに抹茶入りのチョコレートを上げたら、喜んで食べていた。

この親子は12時過ぎには寝た。残るは5人である。男3人、女2人だ。この女性がとっても可愛く素敵な性格の香港女性で、母国語は広東語だが日本語はとっても上手く、まるで日本人のように何でも通じた。よく付き合ってくれたし、Yさんは芸術家だが恰好いい人で、私とも気がよく合ったと思っている。とうとう午前2時になり、やっと眠る事になった。


3日の朝は8時半頃から9時頃までに皆起き出して朝食にした。その後はYさんのコラと言う西アフリカが発祥の民族楽器(丸い瓢箪を半分に切り、その直径50センチ位の断面には牛か山羊の皮を張っている。竿は1メートル20センチ位あって、張られた多くの弦は、ハープのような音を出す)と娘のウクレレと私のオカリナでセッションをした。2人はアフリカの音楽を演奏し、私はその音に合わせて即興でオカリナを吹いた。こういうのは好きなので適当に吹き捲ると、Yさんはとても喜んでくれた。

後は「故郷」を吹き、初めて聴く者達はオカリナの音に驚いていた。もう1曲「椰子の実」を。

午前中にYさんとKさんとその娘は先ず東京に行くと言って、Yさんの立派なスバルで帰って行った。「香港に行きましょう」とか「香港に来て下さい」とか言い残して。

Aさんはもう1日いてくれる事になっていた。午後すぐ嫁さんの妹、そしてその息子の家族が5人で来た。お好み焼きで昼食。子供は3歳の男の子Y君と1歳の女の子Sちゃん。その父親である息子と言うのはもう立派に脂が乗り切っているが、小さい時に何度か来た事があり是非我が家をもう一度見たいと言って尋ねてくれた。夫婦とも医者をしている。

子供達は2人の孫ともすぐに打ち解けて楽しく遊んでいたが、3時前には高速バスで5人共帰って行った。今度はゆっくり会いたいと思った。

私達はバス停まで見送りに行った。今日はめまぐるしい忙しさだった。

娘とS君とAさんは車でイケアに行った。夕食は食べて帰るとの連絡があった。私はまた飲もうと、コープでワインやあてを仕入れて来ている。今の内にブログを書いてしまおうと、帰って来るのを書きながら待っている。

Aさんは明日の昼に帰るが、娘達はもう2日は泊まって行くようだ。皆それぞれを中心に、時は回っている。私の都合だけで思い通りになる訳ではないけれど、娘が引き合わせた人とも出会いもその一時を大切にしたいと思っている。

香港のAさんの何とフレンドリーで明るい事か。そう言う人と一緒にいると、私まで楽しくなって来る。今か今かと帰りを待ちながら、「家族に乾杯」の明るいベッキーさんを、娘やAさんと重ね合わせながら観ている。ちょっと食べて飲んで置こうかと言う気持ちに負けそうになりながら、帰りを待っている。

私の一番の願いは、娘が幸せになる事だ。それだけだが、2人が幸せになる事によってその願いも実現するだろう。そうなれば、私の不安定だった心も、次第に平静を保てるようになるだろう。その内娘達がこの家に集まる時、それと共に3人の息子達が揃うだろうし、そうすれば、男4人で飲み明かせる楽しみが待っている。

「今から晩ご飯を食べて帰るわ」

と、結婚前のような声と調子で電話して来た。

「ワインもつまみも買って来てるけど、帰ってからすぐ寝るの? それとも少しは飲めるの?」

「うーん、でも帰るの11時過ぎになるかもね」

と言って、電話が切れた。するとすぐにまた、掛かって来た。

「それなら、ちょっと少なめに食べて、焼き鳥を買って帰るわ」

「それはいいけど、いっぱい食べて帰ったらいいから」

「はーい」

と言う事で、電話が切れた。すぐに再び。

「やっぱり食べずに帰るわ」

「どうして」

「家で食べる事になったから。ご飯ある?」

「2人分位しかないなあ」

「弁当買って帰るから、大丈夫」

と言って切れた。すぐにまた・・。何だろう、と驚く。

「やっぱりご飯炊いといて」

「じゃあ、2合か3合炊いとくよ」

「うん。じゃあね」

そう言うと、もう電話は鳴らなかった。食べて帰るなら今から自分だけで飲んで寝ればいい事だが、食べずに帰って来る事になったので、もう少し待てば一緒に飲める。買って来たあても、皆の帰りを待っている。よくぞ食べずに帰る事にしてくれたと、やっぱり顔が綻びる。

意外と早く帰って来て、夜更かしをしない程度に飲んだが、楽しい時を過ごした。まだ、娘がこの家からいなくなる実感はない。