今日は額縁だけになるけれど、27日から出雲へ車を運転しての一人旅だった。
神戸を出たのが午前10時丁度。楽しみの米子道、蒜山SAでジャージー牛乳入りのソフトクリームを食べた。恒例の行事となったが、もうかなりの人達に知られていて、見る人見る人小さなトーチのようなソフトクリームを嘗めながら歩いている。
私が知った頃は走りの頃で、まだまだその味は珍しかった。
出雲空港に着いたのが午後3時前だったと思う。横浜からの4人を出迎える事になっている。毎年そうして来た。定員300人程のJALは3時45分の到着予定だったが、55分になるとの表示を見た。
土産物を見たりぶらぶらしたりしていると、その位の時間はすぐに経つ。
3階窓越しにジェット機の着陸を見届けると、1階のロビーに戻った。暫くして、妹の顔が見えた。向こうも探しているようだったが、すぐに気付いた。その後から旦那に悠介そして彼の弟が出て来た。
久々の顔は、これからの出来事の期待感で輝いていた。
挨拶などの堅苦しい事はしなくて、握手で久々の出会いを喜び合った。熱い出雲の風と湧き上がる雲の下を車に乗り込んだ。車の中も燃えていた。クーラーの風をガンガンに引き込むと、暫くして涼しくなった。
家までは6キロ程である。横浜と出雲の風土の違いに、皆景色に見惚れているようだった。斐伊川を渡る時には、殊更にその首が右左に泳いだ。橋の端から端まで400メートルあるが、それは私が出雲に住んでいる頃にスクーターのメーターで計った記憶だ。
家に着くと、皆懐かしい自分の家のように上がって行った。出雲の妹とも、「やー」で済む。あの部屋、あのソファー、あのテーブル。座る位置も決まっているかのように、自分の定位置に座る。あの箸の束、あの醤油注し、あの鉛筆や鋏。
言葉を重ね合い、夕食は途中吉野家で買って行った鰻弁当と豚丼。皆鰻が好きだし、年に1度の事だし、明後日29日は土用の丑の日だし。豚丼1人前は出雲の妹のものだ。皮がどうしても食べられないと言う。これって不幸な事なのか幸せな事なのか。厭なものを食べないのは幸せな事だろうと思う。
夜は更け、いよいよ酒時間。この晩妹2人はアルコール以外のものを飲んだ。旦那と悠介は殆ど飲めないし、弟は飲まない。けれど、私だけ「金麦」で、後はノンアルコールビールでの乾杯。その後は持ち込みの焼酎を飲んだ。私は水で割って氷を入れ、他はグラスに焼酎を数ミリ入れ水と氷で満たしてレモンを搾って入れた。私特製の「きっと飲める酔わない焼酎?」に仕立てた。焼酎の味すらしなかった事だろう。
その日の内に寝る事はないが、この時も2時になったり3時になったりしていた。
5日目の31日は慌ただしく、午前10時半過ぎに2台の車で家を出て、出雲空港に向かった。車を降りると、相変わらず熱気の型に嵌められているようだった。
2階の土産物売り場をうろうろしていると、搭乗の時間が迫っていた。12時に離陸予定だ。握手をして別れ、妹と100円ずつ入れて送迎のテラスに出た。日陰は何処にもなかった。
来た時と同じ機種のジェット機は搭乗を待ち、小さな双発機は落ち着きなく滑走路に出て、向きを変えると一気に空へ駆け上った。横浜の4人家族は通路からこちらを見て手を振った。爪先立ちになってやっと、ジェット機に乗り込むすぐ手前の空間が少し見えるだけだったが、そのシルエットは分かった。
来た時は西の湖から着陸したが、離陸は東から西の湖に向かって上昇する。そして上空で旋回して消えて行く。滑走からはあっと言う間だった。
空港で昼食にして、2時からはお月見コンサート(9月23日)のピアノ伴奏をして貰う事になっているUさんと音を合わせる事になっている。4時までの約束である。
一度帰り、妹とすぐに出かけた。4曲伴奏して貰うが、1度でも練習しておかないと大変な事になる。当然やっておいて良かったが、当日はどうなるか分からない。
このガラス張りの広い空間は、上に葡萄が生っている。Kさんは小振りでマスカット色の葡萄の房を千切って来て、それはナイアガラと言う甘い葡萄だと言った。
そこにはピアノが置かれていて、この宴会の出来そうな土の空間は、お月見コンンサートを仕切るKさんの所有だ。隣りの店では、野菜から陶器までを商っている。いつも帰りにお土産を頂き恐縮するばかりのオーナーではある。
今回もカップのアイスを頂き、帰りには「絶対に止めて」と言っていたのにまたお土産を頂いた。とても美味しそうなうどん。それに、ご自分で育て上げた何色ものバラの花。どうしてこんなにして頂くのか分からない。この親切に感謝したい。
「お金はないけど、気持ちはああけん」
と言って。
途中雨が降った。Uさんがすぐに家に電話をしたが繋がらず、洗濯物が台無し。ここに来るまで雷が鳴っていて怖かったと言っていた。私の数枚のTシャツもびしょ濡れだ。空はこんなに晴れているのに、何処から黒雲がやって来たのだろう。お互いに洗濯物は諦めた。空港からの帰りも間断的にフロントガラスが濡れたので驚いていたのだ。
4時に練習を終え、Uさんは帰り、妹はKさんの店で野菜を買った。私は、南瓜を買った。でっかい徳利のような南瓜で、一番美味いと薦めてくれた。
家に着くと妹と一息吐いてから、私は眠った。毎日3時間位しか寝ていなかったから、その眠さは半端ではなかったのだ。妹もかなりの寝不足のようであった。1時間眠ったと言っていたが、私は2時間眠っていて、午後9時に夢を見て目が覚めた。
それから遅い夕食で、私の好きなもの3品と味噌汁が用意された。この3品は出雲での定番と言っていい。牛肉をフライパンで甘辛く炒めたもので、そのままでもピーマンなどと一緒でもいい。次が厚く巻いた玉子焼きで、葱が入っている。それから茄子の味噌炒めと言う訳だ。
味噌汁は何でもいいが、シジミの味噌汁。大根と油揚げの味噌汁。ジャガイモの味噌汁は格別である。
9時に出る積もりが、10時を回った。暗い道を、左手に宍道湖を見ながら走る。対岸の家屋の明かりが疎らに見えるだけで、他に見えるものと言えば店と車の明かりだ。
何度もSAで仮眠を取った。途中の睡魔には勝てない。どこのSAも、車も数台がばらばらに止まっていると言った状況だった。
追い越そうなどの気持ちは起こらない。それどころか、80キロの制限速度でも100キロ位は皆出しているが、私は80キロを下回っていても気にならなかった。後続車の明かりがどんどん近づき、追い越して行った。
CDを聴いていたからだろう。帰りは千住真理子のヴァイオリンやチャイコフスキー、ショパンをボリュームを上げて聴いていたからだろう。ショパンのノクターンが鳴っている頃、辺りが薄桃色になった。だんだんオレンジ色になり、ちらっと朝日が頭を出した時が5時18分で、それから少しの間朝焼けが始まった。加古川の辺だ。
太陽はつるつるして見えたが、眩しい光は瞬間しか見られなかった。それより、古代から人類が見つめ続けて来た太陽に、感謝と畏敬の念が同居して湧き上がった。
未明の3時には家に着く計算だったが、とっくに朝になっていて、着いて間もなく、いつも目覚ましにしている携帯が音楽を奏でる6時15分が来た。
月も替わって8月になっている。額縁だけのブログだが、絵の方は後々アップしたいと思う。
寝ようと思ったが眠れずに、もう11時半になろうとしている。まだ手こずっている「Let It Go!」を練習しなくっちゃあと思う。
出雲への一人旅が、2.5kgの太り旅になってしまっていた。
神戸を出たのが午前10時丁度。楽しみの米子道、蒜山SAでジャージー牛乳入りのソフトクリームを食べた。恒例の行事となったが、もうかなりの人達に知られていて、見る人見る人小さなトーチのようなソフトクリームを嘗めながら歩いている。
私が知った頃は走りの頃で、まだまだその味は珍しかった。
出雲空港に着いたのが午後3時前だったと思う。横浜からの4人を出迎える事になっている。毎年そうして来た。定員300人程のJALは3時45分の到着予定だったが、55分になるとの表示を見た。
土産物を見たりぶらぶらしたりしていると、その位の時間はすぐに経つ。
3階窓越しにジェット機の着陸を見届けると、1階のロビーに戻った。暫くして、妹の顔が見えた。向こうも探しているようだったが、すぐに気付いた。その後から旦那に悠介そして彼の弟が出て来た。
久々の顔は、これからの出来事の期待感で輝いていた。
挨拶などの堅苦しい事はしなくて、握手で久々の出会いを喜び合った。熱い出雲の風と湧き上がる雲の下を車に乗り込んだ。車の中も燃えていた。クーラーの風をガンガンに引き込むと、暫くして涼しくなった。
家までは6キロ程である。横浜と出雲の風土の違いに、皆景色に見惚れているようだった。斐伊川を渡る時には、殊更にその首が右左に泳いだ。橋の端から端まで400メートルあるが、それは私が出雲に住んでいる頃にスクーターのメーターで計った記憶だ。
家に着くと、皆懐かしい自分の家のように上がって行った。出雲の妹とも、「やー」で済む。あの部屋、あのソファー、あのテーブル。座る位置も決まっているかのように、自分の定位置に座る。あの箸の束、あの醤油注し、あの鉛筆や鋏。
言葉を重ね合い、夕食は途中吉野家で買って行った鰻弁当と豚丼。皆鰻が好きだし、年に1度の事だし、明後日29日は土用の丑の日だし。豚丼1人前は出雲の妹のものだ。皮がどうしても食べられないと言う。これって不幸な事なのか幸せな事なのか。厭なものを食べないのは幸せな事だろうと思う。
夜は更け、いよいよ酒時間。この晩妹2人はアルコール以外のものを飲んだ。旦那と悠介は殆ど飲めないし、弟は飲まない。けれど、私だけ「金麦」で、後はノンアルコールビールでの乾杯。その後は持ち込みの焼酎を飲んだ。私は水で割って氷を入れ、他はグラスに焼酎を数ミリ入れ水と氷で満たしてレモンを搾って入れた。私特製の「きっと飲める酔わない焼酎?」に仕立てた。焼酎の味すらしなかった事だろう。
その日の内に寝る事はないが、この時も2時になったり3時になったりしていた。
5日目の31日は慌ただしく、午前10時半過ぎに2台の車で家を出て、出雲空港に向かった。車を降りると、相変わらず熱気の型に嵌められているようだった。
2階の土産物売り場をうろうろしていると、搭乗の時間が迫っていた。12時に離陸予定だ。握手をして別れ、妹と100円ずつ入れて送迎のテラスに出た。日陰は何処にもなかった。
来た時と同じ機種のジェット機は搭乗を待ち、小さな双発機は落ち着きなく滑走路に出て、向きを変えると一気に空へ駆け上った。横浜の4人家族は通路からこちらを見て手を振った。爪先立ちになってやっと、ジェット機に乗り込むすぐ手前の空間が少し見えるだけだったが、そのシルエットは分かった。
来た時は西の湖から着陸したが、離陸は東から西の湖に向かって上昇する。そして上空で旋回して消えて行く。滑走からはあっと言う間だった。
空港で昼食にして、2時からはお月見コンサート(9月23日)のピアノ伴奏をして貰う事になっているUさんと音を合わせる事になっている。4時までの約束である。
一度帰り、妹とすぐに出かけた。4曲伴奏して貰うが、1度でも練習しておかないと大変な事になる。当然やっておいて良かったが、当日はどうなるか分からない。
このガラス張りの広い空間は、上に葡萄が生っている。Kさんは小振りでマスカット色の葡萄の房を千切って来て、それはナイアガラと言う甘い葡萄だと言った。
そこにはピアノが置かれていて、この宴会の出来そうな土の空間は、お月見コンンサートを仕切るKさんの所有だ。隣りの店では、野菜から陶器までを商っている。いつも帰りにお土産を頂き恐縮するばかりのオーナーではある。
今回もカップのアイスを頂き、帰りには「絶対に止めて」と言っていたのにまたお土産を頂いた。とても美味しそうなうどん。それに、ご自分で育て上げた何色ものバラの花。どうしてこんなにして頂くのか分からない。この親切に感謝したい。
「お金はないけど、気持ちはああけん」
と言って。
途中雨が降った。Uさんがすぐに家に電話をしたが繋がらず、洗濯物が台無し。ここに来るまで雷が鳴っていて怖かったと言っていた。私の数枚のTシャツもびしょ濡れだ。空はこんなに晴れているのに、何処から黒雲がやって来たのだろう。お互いに洗濯物は諦めた。空港からの帰りも間断的にフロントガラスが濡れたので驚いていたのだ。
4時に練習を終え、Uさんは帰り、妹はKさんの店で野菜を買った。私は、南瓜を買った。でっかい徳利のような南瓜で、一番美味いと薦めてくれた。
家に着くと妹と一息吐いてから、私は眠った。毎日3時間位しか寝ていなかったから、その眠さは半端ではなかったのだ。妹もかなりの寝不足のようであった。1時間眠ったと言っていたが、私は2時間眠っていて、午後9時に夢を見て目が覚めた。
それから遅い夕食で、私の好きなもの3品と味噌汁が用意された。この3品は出雲での定番と言っていい。牛肉をフライパンで甘辛く炒めたもので、そのままでもピーマンなどと一緒でもいい。次が厚く巻いた玉子焼きで、葱が入っている。それから茄子の味噌炒めと言う訳だ。
味噌汁は何でもいいが、シジミの味噌汁。大根と油揚げの味噌汁。ジャガイモの味噌汁は格別である。
9時に出る積もりが、10時を回った。暗い道を、左手に宍道湖を見ながら走る。対岸の家屋の明かりが疎らに見えるだけで、他に見えるものと言えば店と車の明かりだ。
何度もSAで仮眠を取った。途中の睡魔には勝てない。どこのSAも、車も数台がばらばらに止まっていると言った状況だった。
追い越そうなどの気持ちは起こらない。それどころか、80キロの制限速度でも100キロ位は皆出しているが、私は80キロを下回っていても気にならなかった。後続車の明かりがどんどん近づき、追い越して行った。
CDを聴いていたからだろう。帰りは千住真理子のヴァイオリンやチャイコフスキー、ショパンをボリュームを上げて聴いていたからだろう。ショパンのノクターンが鳴っている頃、辺りが薄桃色になった。だんだんオレンジ色になり、ちらっと朝日が頭を出した時が5時18分で、それから少しの間朝焼けが始まった。加古川の辺だ。
太陽はつるつるして見えたが、眩しい光は瞬間しか見られなかった。それより、古代から人類が見つめ続けて来た太陽に、感謝と畏敬の念が同居して湧き上がった。
未明の3時には家に着く計算だったが、とっくに朝になっていて、着いて間もなく、いつも目覚ましにしている携帯が音楽を奏でる6時15分が来た。
月も替わって8月になっている。額縁だけのブログだが、絵の方は後々アップしたいと思う。
寝ようと思ったが眠れずに、もう11時半になろうとしている。まだ手こずっている「Let It Go!」を練習しなくっちゃあと思う。
出雲への一人旅が、2.5kgの太り旅になってしまっていた。