縞模様の潜水艦に指で押さえられる穴がいくつも開いているのに、それは沈まない。
木で作られたこの船は立って進む事をしないで、横になって浮く。波の都合で裏返ったりする。10個の穴の開いた側だったり、2個と命の穴の1つ開いた側だったりする。
15センチ程の長さのF艦と言う。
何の事はない。縞模様は木の年輪の模様であり、重さが殆ど感じられない屋久杉で作られたオカリナなのだ。匂うと、杉の香りが仄かに感じられ、誰かが言っていた、お守りとして所持して置きたいと思えるようなものだった。
加古川にいる義兄の嫁の母親の葬儀があり、家を朝8時15分頃に嫁さんと車で出かけた。顔は綺麗に化粧され、とても101歳とは思えなかった。24日に亡くなるその日まで、良く食べ、元気に歩き回っていたのだから、それも然りであろう。
火葬場で焼かれて、さっきまで綺麗な死に化粧をされていた肉体は、待つ事1時間半、箸で突くと容易に壊れる様々な部位の骨に変わっていた。殆ど会った事はない人だった。
家に帰ったのは、午後3時頃だった。宅急便を届けに来た証の紙が、郵便受けに入っている。すぐに的確な判断が出来た。清水工房は、仏像までも木で作る屋久島に移り住んだ職人さんの店で、私は11月の終わりに屋久杉で作ったF管のオカリナを注文していた。
配達の人に電話をして、もう一度届けて貰う事にした。1月の末までには出来上がると聞いていたから、さほど驚きもしなかったし、別段飛び上がって喜ぶ事もなかった。やっと届いたかと言う、じわっと燃え出そうとするものはあった。
箱が両手で抱える程重く、どうして小さなオカリナがここまで大きな、しかも重いものなのだろうかと、それは開けるまで訝しく思っていた。
その箱の中の厳重な幾つものクッションを取り除けると、小さな箱が入っていた。その中に更に包まれたオカリナがあった。初対面だ。2階に駆け上がると、すぐに吹いてみた。
最初の音がどの音だったか覚えていないが、それは陶器や磁器の、いわゆる土にはない澄んだ音だった。音はそれらのオカリナに比べればダイナミックではないが、この年輪の美しさと匂いには感激した。500年から1000年も生きてきた木の、オカリナだからだ。しかも、屋久杉である。鞄にに入れて持ち歩こうと思った。
吹くよりも年輪を眺めたり、木の感触に思いを馳せたかった。
音は安定しており、メインのオカリナにしてもいい位だが、残念なのは結露で、暫く吹くと木が湿って高音のレミファは出難くなるか、若しくは出なくなる。吹き口をすっと吸い込むと、また生き返る。親指の腹で命の穴を塞いで強く吹き、再び吹いてもまたちょっと蘇る。かなりのじゃじゃ馬なのだ。
と言う訳で、どこかで演奏する時は1曲だけ吹くようにすればいいし、暫く置いてもう1曲と言った具合に吹けば使えると思った。何しろ素晴らしい音なので、聴いて貰いたい欲望はある。それは素直な、ストレートに飛んで行く音なのである。
性格が分かれば、扱い方にも慣れて行く事だろう。損な買い物では決してない。それに、何か不思議なオカリナである。木の温もりが伝わってくるし、これはお守りも兼ねた宝物のようなオカリナになる気がする。
屋久杉のオカリナ。そう呼んで大切にしたい。放り上げたら浮かぶのではなかろうかと思える程軽い。
重い箱には、手で握れる大きさの、木で作った林檎も入っていた。良いものを頂いた。
箱が大きく、重かった本当の理由。それは、
「箱が大きかったので失礼かと思いましたが、庭のハッサク少々入れました。よろしかったら召し上がって下さい」
と書かれていた通り、大きな、見事なはっさくが、底に8個ずっしりと並んでいた。
オカリナにも感動したが、このはっさくにはもっと感動した。もういないが、田舎の母から送って来た小包のような感じだった。ただ嬉しいの一言だ。早速1個食べた。美味しいなんて味ではない。何と瑞々しく甘いのだろう。こんなに美味しいはっさくは、食べた事がない。庭にあると言うのが素敵だ。
一番驚くのは、オカリナを注文したのに、はっさくも送って下さるこの気持ちだが、温かいものが体中に染み渡った。
もう夜も遅いけれど、もう1個、味わって食べたい気持ちが募る。
マンションから帰って来た娘の声で、玄関の引き戸を開けた。何と、ほんのり雪が積もっているではないか。車の屋根にも南天の葉の上にもローズマリーや塀の上にだって。思わず触ってみた。冷たい感触に、遠い昔の子供の頃の雪への記憶が、はっきりと曝け出される。
ダンベラが空から舞い降りる。次から次から、真上に向けた顔の上にひらひらと、しんしんと、降り積もるように無限に湧いて降りて来る。千切れた無数の白い雪片。そのまま空に体が吸い込まれて行ってしまうかと思われる程脱力され、その先は深く黒く暗い。あの幼い頃の記憶が切なさを伴って、今鮮やかに蘇って来る。
木で作られたこの船は立って進む事をしないで、横になって浮く。波の都合で裏返ったりする。10個の穴の開いた側だったり、2個と命の穴の1つ開いた側だったりする。
15センチ程の長さのF艦と言う。
何の事はない。縞模様は木の年輪の模様であり、重さが殆ど感じられない屋久杉で作られたオカリナなのだ。匂うと、杉の香りが仄かに感じられ、誰かが言っていた、お守りとして所持して置きたいと思えるようなものだった。
加古川にいる義兄の嫁の母親の葬儀があり、家を朝8時15分頃に嫁さんと車で出かけた。顔は綺麗に化粧され、とても101歳とは思えなかった。24日に亡くなるその日まで、良く食べ、元気に歩き回っていたのだから、それも然りであろう。
火葬場で焼かれて、さっきまで綺麗な死に化粧をされていた肉体は、待つ事1時間半、箸で突くと容易に壊れる様々な部位の骨に変わっていた。殆ど会った事はない人だった。
家に帰ったのは、午後3時頃だった。宅急便を届けに来た証の紙が、郵便受けに入っている。すぐに的確な判断が出来た。清水工房は、仏像までも木で作る屋久島に移り住んだ職人さんの店で、私は11月の終わりに屋久杉で作ったF管のオカリナを注文していた。
配達の人に電話をして、もう一度届けて貰う事にした。1月の末までには出来上がると聞いていたから、さほど驚きもしなかったし、別段飛び上がって喜ぶ事もなかった。やっと届いたかと言う、じわっと燃え出そうとするものはあった。
箱が両手で抱える程重く、どうして小さなオカリナがここまで大きな、しかも重いものなのだろうかと、それは開けるまで訝しく思っていた。
その箱の中の厳重な幾つものクッションを取り除けると、小さな箱が入っていた。その中に更に包まれたオカリナがあった。初対面だ。2階に駆け上がると、すぐに吹いてみた。
最初の音がどの音だったか覚えていないが、それは陶器や磁器の、いわゆる土にはない澄んだ音だった。音はそれらのオカリナに比べればダイナミックではないが、この年輪の美しさと匂いには感激した。500年から1000年も生きてきた木の、オカリナだからだ。しかも、屋久杉である。鞄にに入れて持ち歩こうと思った。
吹くよりも年輪を眺めたり、木の感触に思いを馳せたかった。
音は安定しており、メインのオカリナにしてもいい位だが、残念なのは結露で、暫く吹くと木が湿って高音のレミファは出難くなるか、若しくは出なくなる。吹き口をすっと吸い込むと、また生き返る。親指の腹で命の穴を塞いで強く吹き、再び吹いてもまたちょっと蘇る。かなりのじゃじゃ馬なのだ。
と言う訳で、どこかで演奏する時は1曲だけ吹くようにすればいいし、暫く置いてもう1曲と言った具合に吹けば使えると思った。何しろ素晴らしい音なので、聴いて貰いたい欲望はある。それは素直な、ストレートに飛んで行く音なのである。
性格が分かれば、扱い方にも慣れて行く事だろう。損な買い物では決してない。それに、何か不思議なオカリナである。木の温もりが伝わってくるし、これはお守りも兼ねた宝物のようなオカリナになる気がする。
屋久杉のオカリナ。そう呼んで大切にしたい。放り上げたら浮かぶのではなかろうかと思える程軽い。
重い箱には、手で握れる大きさの、木で作った林檎も入っていた。良いものを頂いた。
箱が大きく、重かった本当の理由。それは、
「箱が大きかったので失礼かと思いましたが、庭のハッサク少々入れました。よろしかったら召し上がって下さい」
と書かれていた通り、大きな、見事なはっさくが、底に8個ずっしりと並んでいた。
オカリナにも感動したが、このはっさくにはもっと感動した。もういないが、田舎の母から送って来た小包のような感じだった。ただ嬉しいの一言だ。早速1個食べた。美味しいなんて味ではない。何と瑞々しく甘いのだろう。こんなに美味しいはっさくは、食べた事がない。庭にあると言うのが素敵だ。
一番驚くのは、オカリナを注文したのに、はっさくも送って下さるこの気持ちだが、温かいものが体中に染み渡った。
もう夜も遅いけれど、もう1個、味わって食べたい気持ちが募る。
マンションから帰って来た娘の声で、玄関の引き戸を開けた。何と、ほんのり雪が積もっているではないか。車の屋根にも南天の葉の上にもローズマリーや塀の上にだって。思わず触ってみた。冷たい感触に、遠い昔の子供の頃の雪への記憶が、はっきりと曝け出される。
ダンベラが空から舞い降りる。次から次から、真上に向けた顔の上にひらひらと、しんしんと、降り積もるように無限に湧いて降りて来る。千切れた無数の白い雪片。そのまま空に体が吸い込まれて行ってしまうかと思われる程脱力され、その先は深く黒く暗い。あの幼い頃の記憶が切なさを伴って、今鮮やかに蘇って来る。