「島の人たちは、わんきゃがいいですね」
と私は言った。
「わっきゃ。わっきゃと言うよ」
何度か会っている、一番年輩だろう元気溌剌とした女性が返した。
前日(土)の朝日新聞の別紙の記事に載っている奄美の言葉を見て、時宜を得たと思った。私たち、と言う意味だ。言葉にこもる仲間意識がいい、と私は思っている。
シマさん率いる三線の仲間の中に、何故か私がいる。3日前にシマさんから誘いを受け、二つ返事で参加する事にした。
奄美のものが野外テントの下の簡易に設えられたテーブルの上に、所狭しと並ぶ。シマさんの三線のお弟子さんが提供して下さったと言う格好の高台で、雨が降ればすぐに入って過ごせる、小屋と言うには立派な建物がある。背面は、広い竹薮だ。
田舎の風景を眼下に、ひと時を癒す。鉄塔と送電線がなければ、そして車や時折4両で通り過ぎる神鉄、団地や工場の建物がなければ、ずっと古からの姿だ。胸一杯に吸う空気に夏の草の匂いが混じる。広がる田んぼの稲の匂いも吸い込んで行く。
パノラマのような山の上の青い空に、夏の雲が所々に置かれ輝いている。これが神戸の田園地帯なのか。まるで無人の駅かと思わせる、近代的な作りでありながら閑散とした神鉄木津駅に降り立った時に感じた風景でもある。
1人はテントの設営を手伝った後用事で消えたので、酒盛りのメンバーは男が4人、女が8人だった。この場所の持ち主も途中で消えた。とても気の付く親切な人だった。これ奄美の人々の心情なのかも知れない。皆楽しい人達ばかりだ。
シマさんのブログを覗くと、食べた物は全部写真で載せられている。百聞は一見に如かずなのだから、覗いて貰いたい。
茹でた奄美のソーメン。シマさんの家で生ったと言うゴーヤも入っていた。丸齧りしたがとても美味かった、奄美で獲れたアマダイかチヌのような魚。コラーゲンたっぷりの豚足。焼肉。ソーセージ。何とその上にシシの肉の入った味噌汁。場所提供者が、前方の山で仕留めたと言う、猪の肉だった。牡丹鍋として冬場に食べた事は何度かあるが、夏は全くない。牛肉や豚肉とは違い、あっさりして美味だが、脂身も美味かった。
巨峰もパイナップルも、こんな所で食べると格別だ。サターアンダギーを作って来た人がいて、それも食べたが美味い。
カンビール36本。一人強い人がいて、一手に引き受けていた。ビールの後は淡路のタマネギ焼酎。太陽の熱で温くなっていて、
「燗になっているわ」
とシマさんが言った。
水割りにし、氷を砕いて入れた。その水が年配の女性が奄美大島から取り寄せたと言う水だ。飲んだ途端円やかで甘みを感じた。飲み易い軟水なのである。この2リットルのペットボトルに入った半分以上残った水は、私が貰う事になった。
今しみじみと読んでみると、この「Amairo」は「・・口に含めばやわらかく、ほのかな甘さが広がります」と書いてあった。美味しい水だ。今までに飲んだ事のない、味を感じるこの水は、地下200メートル深く、もう気の遠くなる1億年も前になろうとする白亜紀の地層から汲み上げられたものだった。
地層と言えば、宴会が始まる前にシマさんが連れて行って見せてくれた、地層の上に彫ら磨崖仏だった。この前の道は、福原京が神戸に作られた時、平氏も通り、源義経も合戦の時に通った道だと書いてあった。
歴史は面々と、過去から現在へ、そして未来へと続いているだろうのが感慨深い。
彼が三線を弾きながら、裏声を駆使して歌い出した。周りの者達も、被る事なく唄い出す。流石お師匠さんの繊細で力強く、微妙な味の撥捌き。それが目と鼻の先で見られる。
ビール、焼酎がどんどん減って行く。飯盒炊爨をすると言うから飯盒の事ばかり考えていた。が、出てきたのは炊飯器だったから驚いた。そのおにぎりをこの所有者のやさしいおじさんから頂く事になった訳は、魚の骨が喉に刺さったからだった。親にも子供の頃よく丸呑みをさせられたが、その感じだった。このお米も彼が作ったコシヒカリだった。美味い筈だ。
朝9時に家を出て、バスで垂水まで。そこから電車に乗り新開地へ。それから神鉄で鈴蘭台まで行った。暫く待って乗り換え、北区から西区へと運ばれる。藍那駅を通り過ぎ次が木津駅だが、この間は長かった。藍那駅は昔降りた事があるが、その時はプラットホームが木で作られていた。今は勿論違うだろうが、木造小学校と鉄筋校舎の小学校を比べて見れば、その違いがよく分かるだろう。
シマさんとは木津駅で11時過ぎに会い、4人で目的地へ向かった。歩く途中、草の匂いをこれ程に懐かしく思った事もない。
私はボンベから出る火力の強い火を墨に当てていた。これでも中々点かないものだと思った。設営は略終わったが、料理の準備がある。男3人で、シマさんの畑に行った。そこで茄子を採って来るのが目的だった。駅の傍までと言っていたが結構歩いて、30分は優に下らなかった。これだけの畑があれば、家族分は自給自足が出来ると言っていた。
もう一人のシマさんに弟子入りをした頑丈そうな男の人は三線が結構上手で、演歌を弾いたりした。三線で演歌? シマ先生も吃驚ではないか。私が「涙そうそう」を所望すると、それも弾いた。面白い人だが、ビールは多分底なしだろう。
日が移るに連れてテーブルもちょっとだけ移動した。何と言っても日溜りは暑い。
あっと言う間に4時が過ぎ、そろそろ片付けの準備に取り掛かった。私は1本の竹を切って、持ち易いように3つに分け、貰って帰る事にした。焼酎やビールを飲むコップを作る為だ。竹を切るだけだが、孫と一緒に作って見ようと思う。
5時には解散となった。韓国では自分達の仲間を「ウリ(内)」と言う。まだ仲間にして貰えない人や仲間でない人は「ウェ(他)」と言って区別する。
奄美の人達の言葉にも冒頭で書いた「わっきゃ」と言う言葉がある。自分達の仲間に対してはわっきゃと言ってもいいだろう。私もいつの間にか、「ウリ」ではないが「わっきゃ」にして貰った気がする。
こんな世界こそ、皆が目指す世界ではないだろうか。
「一遍出会ったら、皆仲間だ」
とシマささんが言った事があるが、それは夏川りみさんの握手会で、ずっと手を握り合って話した事を思えば、凄く納得の出来る話でもある。
夏川りみちゃんと言おうかな。「りみちゃん、食べて飲もうよ」と言えば、本当に実現するように思えるのだから。
そんなこんなで、大変楽しい、強い絆の感じられる飯盒炊爨会だった。シマさん、今度機会があったら、夏川りみのコンサートに行こう。
と私は言った。
「わっきゃ。わっきゃと言うよ」
何度か会っている、一番年輩だろう元気溌剌とした女性が返した。
前日(土)の朝日新聞の別紙の記事に載っている奄美の言葉を見て、時宜を得たと思った。私たち、と言う意味だ。言葉にこもる仲間意識がいい、と私は思っている。
シマさん率いる三線の仲間の中に、何故か私がいる。3日前にシマさんから誘いを受け、二つ返事で参加する事にした。
奄美のものが野外テントの下の簡易に設えられたテーブルの上に、所狭しと並ぶ。シマさんの三線のお弟子さんが提供して下さったと言う格好の高台で、雨が降ればすぐに入って過ごせる、小屋と言うには立派な建物がある。背面は、広い竹薮だ。
田舎の風景を眼下に、ひと時を癒す。鉄塔と送電線がなければ、そして車や時折4両で通り過ぎる神鉄、団地や工場の建物がなければ、ずっと古からの姿だ。胸一杯に吸う空気に夏の草の匂いが混じる。広がる田んぼの稲の匂いも吸い込んで行く。
パノラマのような山の上の青い空に、夏の雲が所々に置かれ輝いている。これが神戸の田園地帯なのか。まるで無人の駅かと思わせる、近代的な作りでありながら閑散とした神鉄木津駅に降り立った時に感じた風景でもある。
1人はテントの設営を手伝った後用事で消えたので、酒盛りのメンバーは男が4人、女が8人だった。この場所の持ち主も途中で消えた。とても気の付く親切な人だった。これ奄美の人々の心情なのかも知れない。皆楽しい人達ばかりだ。
シマさんのブログを覗くと、食べた物は全部写真で載せられている。百聞は一見に如かずなのだから、覗いて貰いたい。
茹でた奄美のソーメン。シマさんの家で生ったと言うゴーヤも入っていた。丸齧りしたがとても美味かった、奄美で獲れたアマダイかチヌのような魚。コラーゲンたっぷりの豚足。焼肉。ソーセージ。何とその上にシシの肉の入った味噌汁。場所提供者が、前方の山で仕留めたと言う、猪の肉だった。牡丹鍋として冬場に食べた事は何度かあるが、夏は全くない。牛肉や豚肉とは違い、あっさりして美味だが、脂身も美味かった。
巨峰もパイナップルも、こんな所で食べると格別だ。サターアンダギーを作って来た人がいて、それも食べたが美味い。
カンビール36本。一人強い人がいて、一手に引き受けていた。ビールの後は淡路のタマネギ焼酎。太陽の熱で温くなっていて、
「燗になっているわ」
とシマさんが言った。
水割りにし、氷を砕いて入れた。その水が年配の女性が奄美大島から取り寄せたと言う水だ。飲んだ途端円やかで甘みを感じた。飲み易い軟水なのである。この2リットルのペットボトルに入った半分以上残った水は、私が貰う事になった。
今しみじみと読んでみると、この「Amairo」は「・・口に含めばやわらかく、ほのかな甘さが広がります」と書いてあった。美味しい水だ。今までに飲んだ事のない、味を感じるこの水は、地下200メートル深く、もう気の遠くなる1億年も前になろうとする白亜紀の地層から汲み上げられたものだった。
地層と言えば、宴会が始まる前にシマさんが連れて行って見せてくれた、地層の上に彫ら磨崖仏だった。この前の道は、福原京が神戸に作られた時、平氏も通り、源義経も合戦の時に通った道だと書いてあった。
歴史は面々と、過去から現在へ、そして未来へと続いているだろうのが感慨深い。
彼が三線を弾きながら、裏声を駆使して歌い出した。周りの者達も、被る事なく唄い出す。流石お師匠さんの繊細で力強く、微妙な味の撥捌き。それが目と鼻の先で見られる。
ビール、焼酎がどんどん減って行く。飯盒炊爨をすると言うから飯盒の事ばかり考えていた。が、出てきたのは炊飯器だったから驚いた。そのおにぎりをこの所有者のやさしいおじさんから頂く事になった訳は、魚の骨が喉に刺さったからだった。親にも子供の頃よく丸呑みをさせられたが、その感じだった。このお米も彼が作ったコシヒカリだった。美味い筈だ。
朝9時に家を出て、バスで垂水まで。そこから電車に乗り新開地へ。それから神鉄で鈴蘭台まで行った。暫く待って乗り換え、北区から西区へと運ばれる。藍那駅を通り過ぎ次が木津駅だが、この間は長かった。藍那駅は昔降りた事があるが、その時はプラットホームが木で作られていた。今は勿論違うだろうが、木造小学校と鉄筋校舎の小学校を比べて見れば、その違いがよく分かるだろう。
シマさんとは木津駅で11時過ぎに会い、4人で目的地へ向かった。歩く途中、草の匂いをこれ程に懐かしく思った事もない。
私はボンベから出る火力の強い火を墨に当てていた。これでも中々点かないものだと思った。設営は略終わったが、料理の準備がある。男3人で、シマさんの畑に行った。そこで茄子を採って来るのが目的だった。駅の傍までと言っていたが結構歩いて、30分は優に下らなかった。これだけの畑があれば、家族分は自給自足が出来ると言っていた。
もう一人のシマさんに弟子入りをした頑丈そうな男の人は三線が結構上手で、演歌を弾いたりした。三線で演歌? シマ先生も吃驚ではないか。私が「涙そうそう」を所望すると、それも弾いた。面白い人だが、ビールは多分底なしだろう。
日が移るに連れてテーブルもちょっとだけ移動した。何と言っても日溜りは暑い。
あっと言う間に4時が過ぎ、そろそろ片付けの準備に取り掛かった。私は1本の竹を切って、持ち易いように3つに分け、貰って帰る事にした。焼酎やビールを飲むコップを作る為だ。竹を切るだけだが、孫と一緒に作って見ようと思う。
5時には解散となった。韓国では自分達の仲間を「ウリ(内)」と言う。まだ仲間にして貰えない人や仲間でない人は「ウェ(他)」と言って区別する。
奄美の人達の言葉にも冒頭で書いた「わっきゃ」と言う言葉がある。自分達の仲間に対してはわっきゃと言ってもいいだろう。私もいつの間にか、「ウリ」ではないが「わっきゃ」にして貰った気がする。
こんな世界こそ、皆が目指す世界ではないだろうか。
「一遍出会ったら、皆仲間だ」
とシマささんが言った事があるが、それは夏川りみさんの握手会で、ずっと手を握り合って話した事を思えば、凄く納得の出来る話でもある。
夏川りみちゃんと言おうかな。「りみちゃん、食べて飲もうよ」と言えば、本当に実現するように思えるのだから。
そんなこんなで、大変楽しい、強い絆の感じられる飯盒炊爨会だった。シマさん、今度機会があったら、夏川りみのコンサートに行こう。