17日真夜中の0時過ぎに目が開き、1時過ぎに目が開き、2時過ぎに目が開いた。目覚まし時計は、2時半に設定しておいたのだが、それでも、そんな時は鳴る前に目が開いてしまう。

日本昔話の時代だったら真っ暗だっただろうが、そんな時間に家を出た。3時15分きっかりだった。街灯などのお陰で暗くはない。寒い事を想定して、少し着込んで歩いた。

手袋はなくても大丈夫だったし、耳も手で覆わなければならない程には、刺すような痛さはなかった。

垂水駅まで1時間位で行けると思っていても、矢張り歩いた事がないので不安である。4時59分京都行きの始発に間に合えばいいのだから、3時45分に出ても十分の筈である。

三日月より月齢の行った月は朧だ。その姿で、どこまでも私に付いて来た。車も2、3台走っているのを見ただけだが、何処へ行く人だろうかと思った。小型のパトカーが巡回していた。

体はどんどん温かくなり、それ以上熱くなれば1枚身から離さなければならないと思った位だ。

垂水駅に着くと4時10分だった。これで、歩いたら1時間程かかる事が分かった。初めから分かっていれば、こんなに早く出なくても良かっただろうに。

三宮までの切符を買ってホームに上がると、ぱっと灯りが点いた。誰もいない。先程までの温もりも何処かへ行ってしまった。電車が来るまで、45分弱もあるではないか。

温かい飲み物が欲しくなった。時間潰しの意味もある。コーヒーをと思ったが、「大納言しるこ」を自動販売機から取り上げた。「北海道産 粒」と書いてなかったら飲まなかった。私は、おしるこより断然ぜんざいの方が好きなものだから。案の定、粒はごく少なかった。

ベンチに戻り飲んだのだけれど、時間潰し所か、それがなくなるまで30秒とかからなかった。仕方なく口直しに、ブラックコーヒーで手を温めながら、蓋を開けたり閉めたりしながら飲んだ。後まだ、電車が来るまでに30分はある。

瞑想をする事にした。「タイスの瞑想曲」と言うのがあるが、これはタイスが瞑想するのか、聴く者がタイスを瞑想するのか。そんな事どっちでもいいが、これは誰に聞いても娼婦タイスが瞑想する曲だと言うだろう。

いや、私は瞑想したのではなく、他人のブログの事を反芻していた。

宗次郎さんの兄弟子に谷力さんがいた。まだ弟子はいるが、彼らの師匠は今は亡き火山久さんである。その火山さんのオカリナを借りて吹く事になった人のブログを見たのだった。

その中に、宗次郎さんと谷力さんは全く違う音がすると書いてあった。宗次郎さんは「研ぎ澄まされた音」で、谷力さんは「素朴な土の匂いがする」とあった。どちらの音がいいのだろうと考えていた。谷力さんの音も聴いてみたかった。

私の音はどうだろう。こればかしは、自分には分からない。

因みに、このブログを書いている人は宗次郎さんとガキ仲間で、小、中、高と一緒だったそうだ。宗次郎さんが先輩らしい。ギターは宗次郎さんから学んだと書いていた。

それでもまだ、15分もある。女子高校生が2人上がって来て、私の横で喋り始めた。とても体が冷えて来たので、プラットホームを歩いたりした。寒い時の時間は特に長い。

やがてやって来た普通列車に乗り込むと、少しずつ温もりが戻った。

5時20分に三宮に着いたが、広い横断歩道の前には7、80人の人がいて、信号が青に変わると一斉に、南に向かって歩き出した。行く先は同じだった。東遊園地である。

毎年ここで、集いが催される。「震災から17年 阪神・淡路大震災1.17のつどい」だ。

私は毎年この日には中継テレビを観るのだが、行った事がなかった。寝転んで観る事はないが、暖かい部屋で、映像の箱を見つめるだけだった。安易な姿の自分を知りながらも、遂に今日まで、行かないでいた。

震災によって亡くなった方々の関係者は、ここに毎年訪れているであろう。5時35分には、竹筒に燈された沢山の蝋燭の火を、他の人達と共に黙して見つめていた。火は、夫々がこっちを向いて、と言わんばかりに揺れている。

斜めに切られた竹の内側に、私の目に入ったのは各々の、「心配無用」「恵」「笑顔」の文字だった。「笑顔」は、赤い文字だった。火を見つめる人の目は、神妙で、誰も笑っていなかった。

「失ったもの。それは命。職場。家族。仲間。・・得たもの。それは、優しさ。絆。友」。静かな声が、スピーカーから流れる。

「5時45分30秒をお知らせします」「5時45分40秒をお知らせします」「5時45分50秒をお知らせします」「5時46分をお知らせします」。その時報と共に、1分間の黙祷が捧げられた。

それが済むと、近くの集いの場所に集まるようアナウンスがあった。

動けないほどの人だかりの中に入り込んだ。背伸びをしても、設営された場所に座っている人達の姿は見えなかった。

「幸せ運べるように」が、もりゆりさんの声で歌われた。ブロ友のますえさんの声と歌い方によく似ていた。綺麗な、厳かな、本職の声だと思った。

17年経って思う事を、主婦が語った。子供は皆、当時小学校へ上がったばかりの子や未就学の子だった。家が押し潰され、次男と長女は助け出されたが、後から引き出された長男は、既に息がなかったと言う。その後、震災を知らない、今中学生になる子が生まれたと言った。

人に支えられて今日まで生きて来れたけれど、悔しさや辛さは変わらないが、これからは亡くなった人達の分も、しっかり生きようと思うと、そんな内容の話だった。ここに来たら、忘れようとしていたあの時が、すぐに戻って来た。

人の心の中や出来事は想像だに出来ないけれど、ここに集う人達は、その悲しみを共有している。そうして、無言で励まし合いながら、強く生きる決意をする。

神戸市長の挨拶があり、宮城から来た人の一言があり、それから献花が始められた。集団が立ち止まっては2、3歩歩く。小さな白い菊の花の頭を水盤に浮かべるのである。私もその広い帯のような列に加わったが、暫くして花を持っていない事に気付いた。皆、大事そうにして、その花を握っていたのである。

前に行けば花は貰えるものとばかり思っていた。お粗末だが、いい経験となった。次に行く事があったら、事前に確保しなければならない事だけは分かったからである。動き出す瞬間を狙って、列の外に出た。

震災が昼に起こっていたら昼に、夕方に起こっていたら夕方に行われただろうこの集い。6時20分になろうとしていたが、まだ日は昇らず明るくはない。だからかも知れないが、自分がぼやけ、この集団の中で、これが現実の世界だとは思えないような不思議な感覚に浸っていた。

それに控え、朧だった月は、澄み渡って輝きを増している。

手が冷たい。脚が冷たい。ぎこちない足取りで、駅へと向かった。バスの始発は8時20分で、これに乗る訳には行かない。もう待つのはご免だからだ。電車とバスの組み合わせで、家に辿り着いた。辺りはすっかり明るくなり、星も月もその姿を隠してしまい、往来は普段と変わらぬように、人と車で賑やかになっていた。