1月1日は多井畑神社に午後4時頃、末娘の家族と6人で初詣に出かけた。
1月3日は多井畑神社にお昼過ぎ、福山に住む娘の家族と7人で出かけた。
1日はピークを過ぎているだろうと言う判断で、3日は昼時なら少ないだろうと言う判断だった。どちらも、最も近い駐車場に辛うじて車を止める事が出来た。
多井畑神社と親しく呼んでいるが、神戸市須磨区多井畑にあるこの神社は、厄除八幡宮がその名称である。由緒には、「現本殿は約650年前(延文5年)の建築にかかり、更に520年前当社を崇敬せる前田出雲守親常は覆の社を寄進せる為、当社に二重の社の存する由縁なり」とある。
また厄除の由来には、「中古以来1月19日の厄除祭日には徹夜参拝者夥しく、近年交通の便整ひ、電車市営バス等に依り一層参拝者多く、実に我国最古の疫神祭の霊地にして神徳又顕著なるを知るべし」とも。
4日は孫達が福山に帰る日だ。午後から、私は鬼を見に行こうと言っていた。こんな近くで追儺式がある事を昨年末に垂水の広報で知ったからだ。
しかし、雪が降るらしく、凍結を心配して孫達は鬼を見るのを諦めざるを得なかった。私はこれを逃すとまた1年後になり、元々一人で行く計画を立てていたので、午後2時前に家を出てバスを待った。
2時から護摩を焚き、2時半から鬼の登場の予定である。名谷小学校前で降りたが、場所が分からない。北側に名谷小学校はあり、その更に高い所に「明王寺墓地」と書いた大きな文字が目に入った。墓地だから、すぐ傍にお寺はあるのだろうと、橋を渡ってそちらの方に歩いた。
人の姿を見つけたらもう安心だ。墓地の手前に明王寺はあった。
密教のお寺で、不動尊の姿もある。立派な、広いお寺がこんな所にあったなんて、想像だにしなかった。
二百人とも三百人とも思われる老若男女が本堂を取り巻いていた。子供が沢山いた。時計を忘れたので、暫く突っ立っていた。上方には、赤、黄、緑、紫、白の布がこの色の並びを単位として、ぐるりと本堂を取り巻き飾っていた。
中では護摩が焚かれ、3秒毎に太鼓が打ち鳴らされた。
ドラム缶では、保存会の人達が木や板を燃やしていた。舞い上がる灰は、何度か雪かと思わせた。この5色の色と同じ吹き流しが、グリーンのポールの上で跳ねていた。逆立ちをして尻尾を振る金魚のようだった。
紫の法衣を纏った6人の僧が本堂に上がって行き、読経を始めた。暫くして退場すると、御幣を持った子供が4人、大人に抱かれて登場した。お堂の両側に2人ずつ向き合って、棒で床を3度叩き、刀を合わせるように棒を合わせ、向きを変えた。その間には、太鼓が20数回鳴る。それを何度か繰り返し、そして、大きな面の鬼が4匹出て来た。
鬼も子供も衣装の色は精彩のない薄い緑色で、紐でぐるぐる巻かれた姿は、まるで子供の節句に食べるチマキそっくりだった。
鬼が出現すると、御幣を被った子供は引っ込む。鬼は四股を踏む恰好を何度か繰り返し、欄干のある手前に攀じ登っている子供達の方に来ると、松明の反対の手に持っている長い鎚や斧などの先を、軽く子供の頭に押し当てる。
鬼達が引っ込むと4人の子供が現れ、また同じ事を繰り返す。そして、鬼が登場。それを何度繰り返した事か。脚は固まり、体は冷えて行く。凍る様な感覚だった。
鬼は、鏡餅を斧などでひっくり返す。その度に、子供達から歓声が上がる。
ビニール袋や布製の袋を持った人が目立って来た。それは、後で餅が撒かれるからだ。私も一つ二つ受け止めて持ち帰ろうと思ったが、もうこれ以上冷えた体をじっとさせておく事は出来なかった。
左側に回り、観音堂を覗き、そのまま坂道を下って行った。
バス停に行っても中々バスは来ない。家まで歩く決心をした。20分位歩いただろうか。期待していたが、もう孫達の車はなかった。家の時計を見ると、4時を回った所だった。この寒さだ。孫は行かなくて正解だった。
遠い昔の農民や庶民は、このような行事を待ち焦がれていた事だろう。五穀豊穣、無病息災、家内安全は大きな願いだったからである。子供や鬼が何度も同じ所作を繰り返しても、祈っていただろう。
ゆったり流れる時間の中で、親しそうに話す言葉が飛び交っている。焚き火を囲んで、それは離れ難く続いたと思われる。
今の時代のように溢れかえる程の物はないが、人々の心の中に自然は豊かに広がり、自然に対して畏敬の念を持ち、素直で、優しかった。現代の、欲望に塗り固められた殺伐とした人間は、もうそんな昔の世界には適合しないだろう。けれど、自然は語りかけ、そして諌める。その素朴な心だけは失うな、と。
空を覆い尽くした鉛色の雲は、今にも雪を降らせそうな風に見えた。私の住んでいる所では、昨年の暮れも今年も、まだ雪を見ない。
寒いけれど、この4日間は雨もなく、穏やかな日が続いている。
好きな短歌がある。
何となく今年はいいことある如し 元日の朝晴れて風無し 石川啄木
1月3日は多井畑神社にお昼過ぎ、福山に住む娘の家族と7人で出かけた。
1日はピークを過ぎているだろうと言う判断で、3日は昼時なら少ないだろうと言う判断だった。どちらも、最も近い駐車場に辛うじて車を止める事が出来た。
多井畑神社と親しく呼んでいるが、神戸市須磨区多井畑にあるこの神社は、厄除八幡宮がその名称である。由緒には、「現本殿は約650年前(延文5年)の建築にかかり、更に520年前当社を崇敬せる前田出雲守親常は覆の社を寄進せる為、当社に二重の社の存する由縁なり」とある。
また厄除の由来には、「中古以来1月19日の厄除祭日には徹夜参拝者夥しく、近年交通の便整ひ、電車市営バス等に依り一層参拝者多く、実に我国最古の疫神祭の霊地にして神徳又顕著なるを知るべし」とも。
4日は孫達が福山に帰る日だ。午後から、私は鬼を見に行こうと言っていた。こんな近くで追儺式がある事を昨年末に垂水の広報で知ったからだ。
しかし、雪が降るらしく、凍結を心配して孫達は鬼を見るのを諦めざるを得なかった。私はこれを逃すとまた1年後になり、元々一人で行く計画を立てていたので、午後2時前に家を出てバスを待った。
2時から護摩を焚き、2時半から鬼の登場の予定である。名谷小学校前で降りたが、場所が分からない。北側に名谷小学校はあり、その更に高い所に「明王寺墓地」と書いた大きな文字が目に入った。墓地だから、すぐ傍にお寺はあるのだろうと、橋を渡ってそちらの方に歩いた。
人の姿を見つけたらもう安心だ。墓地の手前に明王寺はあった。
密教のお寺で、不動尊の姿もある。立派な、広いお寺がこんな所にあったなんて、想像だにしなかった。
二百人とも三百人とも思われる老若男女が本堂を取り巻いていた。子供が沢山いた。時計を忘れたので、暫く突っ立っていた。上方には、赤、黄、緑、紫、白の布がこの色の並びを単位として、ぐるりと本堂を取り巻き飾っていた。
中では護摩が焚かれ、3秒毎に太鼓が打ち鳴らされた。
ドラム缶では、保存会の人達が木や板を燃やしていた。舞い上がる灰は、何度か雪かと思わせた。この5色の色と同じ吹き流しが、グリーンのポールの上で跳ねていた。逆立ちをして尻尾を振る金魚のようだった。
紫の法衣を纏った6人の僧が本堂に上がって行き、読経を始めた。暫くして退場すると、御幣を持った子供が4人、大人に抱かれて登場した。お堂の両側に2人ずつ向き合って、棒で床を3度叩き、刀を合わせるように棒を合わせ、向きを変えた。その間には、太鼓が20数回鳴る。それを何度か繰り返し、そして、大きな面の鬼が4匹出て来た。
鬼も子供も衣装の色は精彩のない薄い緑色で、紐でぐるぐる巻かれた姿は、まるで子供の節句に食べるチマキそっくりだった。
鬼が出現すると、御幣を被った子供は引っ込む。鬼は四股を踏む恰好を何度か繰り返し、欄干のある手前に攀じ登っている子供達の方に来ると、松明の反対の手に持っている長い鎚や斧などの先を、軽く子供の頭に押し当てる。
鬼達が引っ込むと4人の子供が現れ、また同じ事を繰り返す。そして、鬼が登場。それを何度繰り返した事か。脚は固まり、体は冷えて行く。凍る様な感覚だった。
鬼は、鏡餅を斧などでひっくり返す。その度に、子供達から歓声が上がる。
ビニール袋や布製の袋を持った人が目立って来た。それは、後で餅が撒かれるからだ。私も一つ二つ受け止めて持ち帰ろうと思ったが、もうこれ以上冷えた体をじっとさせておく事は出来なかった。
左側に回り、観音堂を覗き、そのまま坂道を下って行った。
バス停に行っても中々バスは来ない。家まで歩く決心をした。20分位歩いただろうか。期待していたが、もう孫達の車はなかった。家の時計を見ると、4時を回った所だった。この寒さだ。孫は行かなくて正解だった。
遠い昔の農民や庶民は、このような行事を待ち焦がれていた事だろう。五穀豊穣、無病息災、家内安全は大きな願いだったからである。子供や鬼が何度も同じ所作を繰り返しても、祈っていただろう。
ゆったり流れる時間の中で、親しそうに話す言葉が飛び交っている。焚き火を囲んで、それは離れ難く続いたと思われる。
今の時代のように溢れかえる程の物はないが、人々の心の中に自然は豊かに広がり、自然に対して畏敬の念を持ち、素直で、優しかった。現代の、欲望に塗り固められた殺伐とした人間は、もうそんな昔の世界には適合しないだろう。けれど、自然は語りかけ、そして諌める。その素朴な心だけは失うな、と。
空を覆い尽くした鉛色の雲は、今にも雪を降らせそうな風に見えた。私の住んでいる所では、昨年の暮れも今年も、まだ雪を見ない。
寒いけれど、この4日間は雨もなく、穏やかな日が続いている。
好きな短歌がある。
何となく今年はいいことある如し 元日の朝晴れて風無し 石川啄木