最近、汗がうっすらと滲む程の陽気。朝は、170回目のジョギング。道の真ん中に転がる団栗。
ループ2週目の帰り道、団栗を拾った。ふと道の外れに目を遣ると、凄い団栗の固まりが目に付いた。ジョギングが中断するけど、それを拾い集めた。7、8分のロスタイム。右左のポケットは、パンパンになっていた。
暇な訳ではないが、数えてみると224個あった。コンクリートの上で死に絶えるよりまだましな団栗の集団は、今、缶にぎっしりと収まっている。
福島大学4回生の女性と、垂水駅で待ち合わせた。初対面だが、母親とは面識がある。
2人を乗せた車は、北区へと向かった。運転手は、私だ。或る小学校に着くと、10時半過ぎだった。校長室に通された。
かつて、あの阪神・淡路大震災の被害に遭った時は、彼は小学校の教師だった。この学生Hさんは、大震災の様子を聞きに、宮城県からやって来ていた。東日本大震災との比較を卒論にしたいとの希望で、私はこの校長先生に話をお願いした。つまり、私は案内人兼付き添いと言う訳だった。
至れり尽くせり校長先生は質問に答えながら、話を進めた。しかも、震災に遭った先生の話も聞けるようにしてくれていた。
傍で聞いている私は、あの忌まわしい震災の事実が、まざまざと蘇って来るのを覚えた。その先生は、とても辛い話をした。自分が担任をしていた男児が地震で亡くなり、毎年その子の為に集まると言う。5年位は、心の整理が出来なかったそうだ。
それだけではない。同学年で隣の組だった、女の先生が亡くなったのだと言う。地震のあった年の前年11月に結婚していて、お腹には赤ちゃんがいたと。初めて聞くこの現実に、私の頭は混乱した。そして、涙が出そうになった。
もう昼過ぎだ。校長先生は、給食を食べさせてくれた。大きなパン。Hさんと半分ずつにした。Hさんは、給食を懐かしがった。パンの他は、牛乳と肉団子の汁、それに鶏肉のオレンジ煮だった。これで200円程の値段である。
至れり尽せりの持て成しと、資料を整えての話だったから、Hさんはとても喜んでいた。私はと言えば、おみやげまで頂いた。全部、校長先生が家で育てたものだった。丹波黒。シシトウ。柿。サツマイモ。丹波黒とシシトウは、早速夕食のビールのあてとなったのであるが。
もう、3時を超えていた。4時間半にも及ぶ待遇だった。あの大震災を一瞬の内に引き起こし思い出させたけれど、あの惨状と共に、改めて命の尊さを感じずには居れなかった。そして、人が優しくなっていた時の事を思い返していた。
Hさんは三宮で、高校生時代に神戸にいた関係で、その数人の友達と会う約束をしていると言う。
「そこの豚まんは美味いよ」
と走る車の中から口にする。
「551ですか」
と聞いたので、
「いや、一貫楼だよ」
と答えた。
「ああ、ここのは、友達が凄く美味しいと言っていました。お土産に買って帰ります」
と言った。
私は、いつも乗るバス停のちょっと東の先で彼女を降ろした。時間があれば、新長田の鉄人28号を見て、明石焼きを食べる話をしていたが、2時間も延びては、それは叶わない。しかし、それ以上の歓待には感謝感激である。
幻のように過ぎたこの時は、こんな事があったと言う事さえ、忘却の彼方に追いやっていた。だがお礼のメールが届き、今度神戸に来た時は必ず連絡しますと、文字が刻まれていた。明日、仙台に帰って行く。
ループ2週目の帰り道、団栗を拾った。ふと道の外れに目を遣ると、凄い団栗の固まりが目に付いた。ジョギングが中断するけど、それを拾い集めた。7、8分のロスタイム。右左のポケットは、パンパンになっていた。
暇な訳ではないが、数えてみると224個あった。コンクリートの上で死に絶えるよりまだましな団栗の集団は、今、缶にぎっしりと収まっている。
福島大学4回生の女性と、垂水駅で待ち合わせた。初対面だが、母親とは面識がある。
2人を乗せた車は、北区へと向かった。運転手は、私だ。或る小学校に着くと、10時半過ぎだった。校長室に通された。
かつて、あの阪神・淡路大震災の被害に遭った時は、彼は小学校の教師だった。この学生Hさんは、大震災の様子を聞きに、宮城県からやって来ていた。東日本大震災との比較を卒論にしたいとの希望で、私はこの校長先生に話をお願いした。つまり、私は案内人兼付き添いと言う訳だった。
至れり尽くせり校長先生は質問に答えながら、話を進めた。しかも、震災に遭った先生の話も聞けるようにしてくれていた。
傍で聞いている私は、あの忌まわしい震災の事実が、まざまざと蘇って来るのを覚えた。その先生は、とても辛い話をした。自分が担任をしていた男児が地震で亡くなり、毎年その子の為に集まると言う。5年位は、心の整理が出来なかったそうだ。
それだけではない。同学年で隣の組だった、女の先生が亡くなったのだと言う。地震のあった年の前年11月に結婚していて、お腹には赤ちゃんがいたと。初めて聞くこの現実に、私の頭は混乱した。そして、涙が出そうになった。
もう昼過ぎだ。校長先生は、給食を食べさせてくれた。大きなパン。Hさんと半分ずつにした。Hさんは、給食を懐かしがった。パンの他は、牛乳と肉団子の汁、それに鶏肉のオレンジ煮だった。これで200円程の値段である。
至れり尽せりの持て成しと、資料を整えての話だったから、Hさんはとても喜んでいた。私はと言えば、おみやげまで頂いた。全部、校長先生が家で育てたものだった。丹波黒。シシトウ。柿。サツマイモ。丹波黒とシシトウは、早速夕食のビールのあてとなったのであるが。
もう、3時を超えていた。4時間半にも及ぶ待遇だった。あの大震災を一瞬の内に引き起こし思い出させたけれど、あの惨状と共に、改めて命の尊さを感じずには居れなかった。そして、人が優しくなっていた時の事を思い返していた。
Hさんは三宮で、高校生時代に神戸にいた関係で、その数人の友達と会う約束をしていると言う。
「そこの豚まんは美味いよ」
と走る車の中から口にする。
「551ですか」
と聞いたので、
「いや、一貫楼だよ」
と答えた。
「ああ、ここのは、友達が凄く美味しいと言っていました。お土産に買って帰ります」
と言った。
私は、いつも乗るバス停のちょっと東の先で彼女を降ろした。時間があれば、新長田の鉄人28号を見て、明石焼きを食べる話をしていたが、2時間も延びては、それは叶わない。しかし、それ以上の歓待には感謝感激である。
幻のように過ぎたこの時は、こんな事があったと言う事さえ、忘却の彼方に追いやっていた。だがお礼のメールが届き、今度神戸に来た時は必ず連絡しますと、文字が刻まれていた。明日、仙台に帰って行く。