10月1日、やや肌寒い中をザ・シンフォニーホールへと足を運んだ。
ブルーノ=レオナルド・ゲルバーのピアノ・リサイタルを聴きに。
9月11日三重文化会館を皮切りに、彼は各地を回っている。明日の北九州市立響ホールでお仕舞いだが、それは11回目となる。プログラムはA・B・Cとあり、Aが6回、Bが4回、Cは1回となっている。
私が聴いたのはAプログラムで、それはベートーヴェンのソナタだけだった。B・Cには、ムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」が入る。
ピアノ・ソナタ第14番 嬰ハ短調Op.27-2「月光」
ピアノ・ソナタ第21番 ハ長調Op.53「ワルトシュタイン」
ピアノ・ソナタ第8番 ハ短調Op.13「悲愴」
ピアノ・ソナタ第23番 ヘ短調Op.57「熱情」
Aプログラムはベートーヴェン三昧だ。私には、これで良かった。
音楽の事は何一つ知らず、ベートーヴェンの事も音楽室の壁に貼られている顔を知っている位だし、子供の頃初めてレコードを聴いたのがベートーヴェンの「運命」だった位の事である。因みにもう一つは、シューベルトの「未完成」だった。
それで親しみを覚えてはいるが、こんなに足繁くホールに通うようになったのは、ここ数年の事なのである。オカリナにのめり込むようになってから、音楽に興味を持つようになったのだった。
オカリナだって、録音した自分の演奏を聴くと、その未熟さが諸に感じ取られ、本当に恥ずかしくなる。
このゲルバーはアルゼンチン生まれで、有名なマルタ・アルゲリッチと歳は変わらない。それに、初期のピアノの師が同じ人なのだ。
彼は3歳からピアノを始め、7歳で重い小児麻痺に罹った。その左足で上手く歩けない為、彼の腕を支える介添え者がいた。
体はかなり大きく、椅子に座る時も、ピアノの枠をしっかれ握りながら、ドーンと座る事になる。彼の背後から聴く位置なので、鍵盤を走る指がよく見える。だが、体が大きく太っているので、鍵盤の半分は隠れて見えない。
お相撲さんのような大きな手で、ピアノがこんなに小さかったのかと訝しげに思える程だった。それでも、彼の鍵盤を叩く強弱は、小川になったり急流になったり滝になったりする。海にもなったり、自由自在である。
タクシーに乗った時、窓から手を出して屋根に指を乗せてリズムを叩いたそうだ。すると何かが落下したのではないかと思い、運転手が吃驚して急ブレーキを踏んだと言う逸話があるそうだ。指の打力がいかに強いかの証明にもなろう。
もう70歳位だろうか。彼は、左足の自由が利きにくく、時々気にしてその足を演奏中に左手で引っ張ったり動かしたりする。見ている私は、それが気が気ではない。が、さっとそれが鍵盤に戻るからホッとする。
兎に角凄い演奏だ。背後から見ながら聴く事になったが、その後姿で私は何を思っただろうか。それは正にベートーヴェンの再来だった。そこにベートーヴェンがいて弾いているように思えてならなかった。
音楽室の壁のベートーヴェンが、そこで弾いていた。それは不思議な感覚だった。ジョアン・マリア・ピリスと比べると、全体的にゲルバーの演奏は遅い。アレグロなどは物凄い速さなのだが、これは解釈の違いだろうか。私には、霊感で弾いているようにしか思えなかった。そこに、ベートーヴェンが息衝いているように思えた。
「月光」「悲愴」「熱情」を色々なピアニストを通して聴いたが、こんな気持ちになる事は今までになかった。まるで顔は違うのだが、聴きながら安心感のようなものが漂った。ベートーヴェンもこんな風に弾いたのではないかと思っていた。
「ワルトシュタイン」もとてもいい、迫力のあるソナタだ。
全て終わった後の拍手が、尋常ではなかった。けれど、ステージのライトは落とされ、アンコールは愚か、ステージの中央に彼は再び姿を現す事はなかった。
だが、帰りに、CDにサインを貰う行列が、足早に増えて行くのを見た。
家に辿り着くと、金木犀の甘くて強い匂いの中に溶け込んで行くようだった。
ブルーノ=レオナルド・ゲルバーのピアノ・リサイタルを聴きに。
9月11日三重文化会館を皮切りに、彼は各地を回っている。明日の北九州市立響ホールでお仕舞いだが、それは11回目となる。プログラムはA・B・Cとあり、Aが6回、Bが4回、Cは1回となっている。
私が聴いたのはAプログラムで、それはベートーヴェンのソナタだけだった。B・Cには、ムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」が入る。
ピアノ・ソナタ第14番 嬰ハ短調Op.27-2「月光」
ピアノ・ソナタ第21番 ハ長調Op.53「ワルトシュタイン」
ピアノ・ソナタ第8番 ハ短調Op.13「悲愴」
ピアノ・ソナタ第23番 ヘ短調Op.57「熱情」
Aプログラムはベートーヴェン三昧だ。私には、これで良かった。
音楽の事は何一つ知らず、ベートーヴェンの事も音楽室の壁に貼られている顔を知っている位だし、子供の頃初めてレコードを聴いたのがベートーヴェンの「運命」だった位の事である。因みにもう一つは、シューベルトの「未完成」だった。
それで親しみを覚えてはいるが、こんなに足繁くホールに通うようになったのは、ここ数年の事なのである。オカリナにのめり込むようになってから、音楽に興味を持つようになったのだった。
オカリナだって、録音した自分の演奏を聴くと、その未熟さが諸に感じ取られ、本当に恥ずかしくなる。
このゲルバーはアルゼンチン生まれで、有名なマルタ・アルゲリッチと歳は変わらない。それに、初期のピアノの師が同じ人なのだ。
彼は3歳からピアノを始め、7歳で重い小児麻痺に罹った。その左足で上手く歩けない為、彼の腕を支える介添え者がいた。
体はかなり大きく、椅子に座る時も、ピアノの枠をしっかれ握りながら、ドーンと座る事になる。彼の背後から聴く位置なので、鍵盤を走る指がよく見える。だが、体が大きく太っているので、鍵盤の半分は隠れて見えない。
お相撲さんのような大きな手で、ピアノがこんなに小さかったのかと訝しげに思える程だった。それでも、彼の鍵盤を叩く強弱は、小川になったり急流になったり滝になったりする。海にもなったり、自由自在である。
タクシーに乗った時、窓から手を出して屋根に指を乗せてリズムを叩いたそうだ。すると何かが落下したのではないかと思い、運転手が吃驚して急ブレーキを踏んだと言う逸話があるそうだ。指の打力がいかに強いかの証明にもなろう。
もう70歳位だろうか。彼は、左足の自由が利きにくく、時々気にしてその足を演奏中に左手で引っ張ったり動かしたりする。見ている私は、それが気が気ではない。が、さっとそれが鍵盤に戻るからホッとする。
兎に角凄い演奏だ。背後から見ながら聴く事になったが、その後姿で私は何を思っただろうか。それは正にベートーヴェンの再来だった。そこにベートーヴェンがいて弾いているように思えてならなかった。
音楽室の壁のベートーヴェンが、そこで弾いていた。それは不思議な感覚だった。ジョアン・マリア・ピリスと比べると、全体的にゲルバーの演奏は遅い。アレグロなどは物凄い速さなのだが、これは解釈の違いだろうか。私には、霊感で弾いているようにしか思えなかった。そこに、ベートーヴェンが息衝いているように思えた。
「月光」「悲愴」「熱情」を色々なピアニストを通して聴いたが、こんな気持ちになる事は今までになかった。まるで顔は違うのだが、聴きながら安心感のようなものが漂った。ベートーヴェンもこんな風に弾いたのではないかと思っていた。
「ワルトシュタイン」もとてもいい、迫力のあるソナタだ。
全て終わった後の拍手が、尋常ではなかった。けれど、ステージのライトは落とされ、アンコールは愚か、ステージの中央に彼は再び姿を現す事はなかった。
だが、帰りに、CDにサインを貰う行列が、足早に増えて行くのを見た。
家に辿り着くと、金木犀の甘くて強い匂いの中に溶け込んで行くようだった。