8月3日の朝もいい天気だ。悠介とジョギングに出たのは7時18分だった。

昨日コースを知ったので、私は彼に自分のペースで走ればいい事と、どんどん先に行っても構わない事を告げた。20代の彼は速い。大股でどんどん先へと行って、最後には見えなくなった。

午前中は昨日のコンサートのお礼を言いに、妹と2人で2軒回った。1軒は、カリスマK先生のお宅。奥様がいて、先生は土を弄っている所から戻って来た。私からお礼を言い、握手を求めた。先生は手が汚れているのを躊躇した。私はそんな事には構わなかった。

ちょっとお礼を言って帰る積もりが、先生は、引っ切り無しに話して来た。丁度区切りが出来たと思って、ではと帰ろうとするとまた話して来る。

「ここの辺りには音楽関係が2人いるから、今度4人で飲みながら話したいなあ」

と、先生は言った。この親しさが嬉しかった。もう、いつでも普通に話が出来ると思った。いつか初垂れの焼酎でも持って、話しに行こうと思う。20分以上はいた気がする。

横浜の妹は、出雲大社は元より、日御碕神社に行きたいと言った。アッシーの私は、皆を車に乗せて連れ歩く係りである。出雲の妹の車には、妹同士2人が乗った。私の車には義弟と甥2人が乗った。

私は夜更かしはしないと決めているので、夜遅くまで話す事はない。それにビールを飲んでいるので、都合よく眠くなり熟睡する。皆が(特に男達)起きて来るのは昼前になる。ここでしか出来ないぐうたらだが、これがまた堪らない休暇冥利なのだ。私は5時には起きているけれど。

昼過ぎてから出雲大社に出掛けた。左手に柄杓を持ち右手を清める。右手に柄杓を持ち替え左手を洗う。そのまま水を左手に受け、口を漱ぐ。それが習いなのである。

私は、義母が亡くなって間がなく、鳥居を潜れない。鳥居の外側を通って神殿に近づいた。祈るのは構わない。二礼して4回拍手をした。他の神社では2回手を打つ。お祈りをした後は、一礼する。

60年に一度の遷宮も25年に完成する為、今は本殿は工事中である。工事が始まる頃、私はチャンスに恵まれ、本殿の屋根の桧皮葺を目の前で見たし、その天井の雲の絵も見る事が出来た。

次は、日御碕神社である。美しい朱塗りの社殿である。正面の日沈宮(下の宮)には天照大神が祀られ、右手の石段を登り神の宮(上の宮)にはスサノオの尊が祀られている。天照大神の信仰と結びついて平安中期に移された。だが出雲大社には参拝しても、ここを知らない人は多いだろう。

ラフカディオ・ハーンは、日本瞥見記にこう書いている。

「わたくしが日ノ碕神社を見て大いに驚いたのは、これほど構えの大きな、維持費もかさむ建物が、日本の内地でも最も荒涼たる海岸の、人の目にもつかないほんの片隅の一漁村に存在しうるということであった」

そこから更に日御碕の灯台まで車を走らせる。サザエの壷焼きが食べたかったが、小さいので1個300円だ。私一人ならいいが、ソフトクリームがいい者だっている。サザエはまた今度にした。

もう何十辺も来た所だ。東洋一と言われる海抜100メートルの灯台には私は上らず、下のベンチでうつらうつらしていた。白い灯台は一際輝いて、遠く水平線がくっきりと空と海を分けていた。海の青はそこらにはない青さだった。

帰りに島根ワイナリーに寄った。数種類のワインの試飲が出来る。運転していなかったらここで飲んで酔い潰れていたかも知れないのに、仕方なく葡萄ジュースを飲んだ。

ここでは色々なお土産も買う事が出来る。行かなくても、と言っていた横浜の妹が、一番多くお土産を買っていた。

それから、出雲から29km西にある田儀の海へ行った。悠介がボベ貝を採って食べたいと言う。場所が悪かったのか、岩場ではあったが、余り採れなかった。十数個だったろうか。それでも他の貝と一緒に、海水を入れたビニール袋に入れて持ち帰った。ボールに入れると元気に他の貝と縺れ合っている。ヤドカリが1匹いた。

家では夕食まで、皆それぞれの部屋で寝たり話したりして過ごした。気ままな日々である。

ここで問題が発生。悠介が財布を落としたと言う。お尻のポケットに入れているので、落とせば感触で分かると言う。海だったかどうかは定かではない。お金よりもカードは? それよりも、保険証が入っていたのだ。もう、ボベ貝を食べるなどと言う雰囲気ではなかった。空には星が輝いていた。