今日30日は真夜中の2時前に、大分から家に帰って来た。5時過ぎまでぐずぐずしていて、眠るのが遅くなった。

勤めの為、7時半頃娘が孫(女の子)を連れて来た。これは放って置けない。バトンタッチするまで遊んでいたが、それから2時間位寝た。

久々のレトルトカレーが夢のように旨かった。8月2日の演奏の為のオカリナ練習をして、ジョギングをしに出かけた。午後3時27分。暑い暑いと思っているのか、帰ったのが56分。29分しか掛からなかったのは、普段より1分早かった位だが、何だか清々しい。

大きなコップに水を1杯飲んで出たので、熱中症にはならなかった。朝がいいのだが、今日に限って朝はとても出来る状態ではなかった。

7月26日の朝、大分の義母が亡くなった。通夜があるので27日の夕方近くに葬儀場に着いた。身内だけでする葬儀の為、そこで一夜を明かす事になる。94歳の義母は、人生の務めを果たしたかのような、安らかな顔をしていた。

簡単な食事を済ませ、祭壇のある部屋とその隣りの控え室で寝る事になった。私は祭壇のある部屋で寝た。誰かが起きて蝋燭や線香の火が絶えないようにした。仮眠とは言え、私は結構眠った。

26日は朝6時47分にジョギングに出て、7時17分に帰ったが、27日は出来ない事が分かっている。26日の夜も走る事にした。20時19分から20時49分までの走りだった。

通夜の次の28日の朝は、走らずにウオーキングに切り替えた。6時50分から高田の葬儀場から歩いた。明(はる)書店の角を右折すると2つめのセブンイレブンがあった。その辺りでUターンをして戻ると41分掛かっていた。途中蝉が鳴き、コオロギが鳴いた。

運動靴は持って来ていたが、ジョギングの服装を忘れていた。シャツとズボンが歩くだけで濡れた。後でコインランドリーが活躍した。

遠方から来た6人と、朝にやって来た喪主の義兄夫婦は9時に弁当を食べた。1時から葬儀だ。十数名参加の、身内だけの無駄のない、いい葬儀だったと私は思っている。

斎場では、お骨になるまでの時間は2時間となっていた。近かったので、一端葬儀場に戻り、再び出掛けた。お骨を拾った。木の箸1本と竹の箸1本で。三途の川を渡る時、「木の舟に竹の艪」である事から、箸が違えてあるそうだ。

人間の喉の所にあるのは喉仏ではなく軟骨なので、燃えてしまうそうだ。首の背中の方にあるのが喉仏として残されていると説明してくれた。

葬儀場に戻ると初七日も行った。1週間後に神戸から、加古川から、高知からもう一度行くのは困難だ。四十九日は皆が集まる事になるけれど。

読経が終わると、和尚さんが塔婆の裏に書いた言葉を披露した。初めのと初七日の塔婆の二つに、それぞれ「一夜華開世界香」「一輪名月照禅心」と書いてあった。とても気に入った言葉だった。かくして曹洞宗の、一つの命に対する営みが終わった。

後は膳の代わりの紙箱に入った、それでいてとても美味しい弁当を食べながら、義母にまつわる話をした。食べる前に喪主である義兄が、私がオカリナを吹く事を告げた。カセットデッキにMDを入れると「千の風になって」を演奏した。これは、義兄から、もしもの事があったらと、大分前に言われていた事だった。

私の娘達が小学生や中学生だった頃、義母は大分から神戸まで、よく新幹線でやって来たものだった。子供も可愛がって貰い、子供はとても慕っていた。運動会に来て貰うのは、特に皆の楽しみでもあったのだった。

さて我々5人は、その足で別府湾ロイヤルホテルに行った。夕食はもう出来そうにないので、温泉に入ると、後は私たちの部屋で飲んで話した。麦焼酎いいちこの1升壜を抱えて来たにも拘わらず、そんなに減らなかったのに、殻に入ったピーナツはどんどん減って行った。来る途中で買った有名な大分の唐揚げはそんなに減る事がなく、皆が帰ってから私が全部片付けた。

29日の朝は5時50分から走り始めた。別府湾ロイヤルホテルを出て急な坂道を下り、私は左に曲がった。10号線の表示には「大分9km、別府21km、宮崎217km」とあった。

ホテルから出ると、朝日が昇った直後だった。美しかった。それは旧速見郡東部にあたる半島の真ん中辺りから昇っていた。そこは「旭日の出づる所」と言われ、日出(ひじ)と呼ばれる。5時から入れる露天風呂から見る積りだったが、走る事が先決である。

Uターンして戻れば丁度いいと思われる辺りで踵を返した。6時21分に急な坂を上ってホテルに着いた。

朝は5人で洋食の朝食だ。7時30分に、誰もいない食堂に集合した。久しぶりのパンだ。食パンにバターとブルーベリーを塗ると、それは美味しいパンに早代わりだ。五つ切り位の食パンを2枚、クロワッサンやその他のパンを2つも食べた。ベーコンやオムレツなど、出たものは全部食べた。2キロは体重が戻っていると思うと憂鬱ではあったが、旨いものは旨い時に食べて置かなければ後々悔する。

10時には、義母がお世話になっていた特別養護老人ホームで待ち合わせて、喪主を務めた義兄と共にお礼に行った。7人揃って、感謝の意を表した。その後、溜まりに溜まった義母の所持品の整理をした。すっきり片付けられた。7年もいると随分溜まるものだと思った。

それが済むと、近くのカフェで昼食となった。7人で四十九日の打ち合わせなどをしながら、私は茄子とミンチ肉の入ったカレーを食べた。これは絶品だった。が、お腹は満腹だった。

立派に喪主を務めた義兄夫婦と別れ、2番目の義兄夫婦とも別れて、我々2人と高知の義妹との3人で、私が行きたかった宇佐神宮へと向かった。そこには古代蓮の池があると聞いたからだ。

遺跡の発掘の時、大賀一郎博士が昭和26年に3粒の種を見つけたのだ。発芽するかどうかの分からぬ状況で、それが生育し花開いたのだ。その蓮を宇佐神宮にも献呈されたのだった。その開いた花は神々しい程の落ち着きと、静寂と、妖艶さを備えている。中国ではこの蓮の事を芙蓉と言う。奈良や平安時代には、この古代蓮を愛でる宴があったようだ。

葬式があった後なので、本宮には参拝しなかった。花も大きければ葉も大きい。芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の短編が思い起こされる。宇佐神宮宝物館(300円)を見て、後、大分県立歴史博物館を、やはり300円で訪れた。今回は詳しく書かないが、それは凄い値打ちでありお勧めである。

そして、サービスエリアで夕食。と言っても8時を過ぎていた。もう食べなくてもいいと思ったが、肉うどんに決めた。これは正解だ。

義妹とは小谷のサービスエリアで別れて、一路我が家に向かった。途中で30日に日が変わり、そうして始めに書いたような事になり、昼下がりの、やや暑さの和らいだ中のジョギングとなったのである。