余熱のある昨夜の湯に浸かる。瞬間的しじまの放心だ。朝っぱらから、湯上りの爽快感が堪らない。これにジュースだ。氷も入れて掻き回しているのだから、この冷たさがまた染みる。

5時17分から5時48分まで。これでもかと言う程遅い超スロージョギングだったのに31分だ。葛藤もありながら、よくこんな時間で帰り着くと思う。

何だこの走りは? 足踏み状態ではないか。戻りの坂道は、本当に地獄への道だ。何ともなく走るランナーは幾らでもいるだろうが、私に関しては、そうではない。

「歩け。その方が楽だし、そんな足踏みなんかより速いんだから。それに、ジョギングがウオーキングに変わるだけだし、ウオーキングこそ有酸素運動の出来る典型的な動きではないか」

と、内なる声がする。

「止まれ。それで楽になる。一石二鳥だ」

その瞬間の一歩を、私は止めなかった。苦しいなんてもんじゃない。ウオーキングにすれば、もっと楽しい世界もあるだろう。だが、どんなに遅いにせよ、一旦走り出した足を止める訳には行かないのだ。その時は、行き倒れだと思っている。

7月に入ったのに、蝉が鳴かないで鶯が鳴いている。ホーホケキョ。これは鳴き声の概念的定番である。鶯はホーホケキョと鳴くものだと。しかし、苦しい中で聞く声も、同じではない。ホーホケキョと鳴くのもいる。ホーフキキョと鳴くのもいた。ヒーホケキョと鳴くのもいて笑いたかったが、顔は引き攣っていた。

雨で濡れてしまったと言う程大層な事ではないが、ちょこっと頬や腕に当たる雨滴が心地いい。ザーッと振り出しても、頭諸共濡れる覚悟は途中から出来ている。

最近オカリナがスランプではないかと思えて来て、自信がなくなりかけている。7月からも演奏の予定はあるが、昨日は9月の依頼が入って来た。

8月は1時間程だが、出雲で演奏する破目になった。態々聴きに来てくれる人達に、これで感動を届けられるのだろうか。その疑念が頭を擡げ、ジョギングの足取りが重くなるのはその所為だろうか。

最低限、気持ちを込めて演奏はする積もりだ。では何が?

1つはレパートリーが少ない事。ニーズに添えないのではないかと思えて来た。譜面を見ないで演奏しようと思うので、暗譜が中々出来ない。

2つは確実にこなせる速いパッセージの曲が完成していない。何とか終わりまで吹けても、聴く人が対象なら、これではまだ不完全だ。

3つは大作がない。「スサノオ」を作曲しようと思いながら、4部作の余りの目論見に、自身が驚愕しながら何年も経った。「春の海」は何箇所か難しい所もあるが、甥から伴奏の打ち込みが届き、何とか出来る目処は付いた。暗譜と指遣いの課題が残る。

4つはアレンジの問題がある。伴奏のアレンジと私のアレンジをどうするか。これは、結構大きな決め手となるもので、生涯の課題とも言える。

疲れていると、こんな詰まらない事も考えるようになる。演奏者の全てが聴く人に反映されるのだと言う事を、努々忘れてはならない。大丈夫かなと思いながら聴かれているようでは、その場と時間を共有する人達との一期一会には、到底ならないのだ。